出版の仕事と見せ方の話

デザインを変えてみた。ごくごくシンプルだった白地にネイビーから、レトロなマルチカラーに、と思ったら、いろいろカスタマイズできることも分かり、ヘッダ部分に、アイコンとしても使っているエビを配置したら、なんだかシュールで良いかも、と気に入ってしまった。が、しかし。エビで、ウサギで、カモで、読む人を余計に混乱させる気がしてきた…。こうなったらプロフィールのアイコンをトンボとかにして、ますます分からなくしようかな。

 

長く出版の仕事をしてきたので、ブログのデザインを変えることは、判型を考えたり本文ページの組みを設定したりすることと同じなんだな、と理解する。ページの中でどれくらい余白をとるとか、1行あたりの文字数をどれだけにするとか、ページノンブルの書体を何にするとか、そういうことで、無意識にその本のたたずまいが読者にあたえる印象を操作する作業。

 

分かりやすいブログにする必要もあるまい。私が面白ければそれでいい。気に入らなくなったら変えればいい。それだけのこと。

 

あと、長く出版の仕事をしてきたので、いろんな書き手がいるということも理解している。とにかく書くのが早い人。ものすごく面白いことをしているのに、それを文章に表すのは下手な人。出版を目指していろいろ書くけれど、やってることも面白くなくて書き方も支離滅裂な人。締め切りを過ぎても全然原稿を提出しなくて、本当の本当のデッドラインぎりぎりに送ってきて、それが1字1句直す必要もない完璧な原稿の人。

 

最後のようなタイプの人は、ありがたいんだけど、心臓に悪すぎ。というか、こういう人には編集者が要らない。けど、頼まれなければ書かないほど本業も忙しい人だったりするから、やっぱり編集者というのは要るものなのだ。

 

編集の仕事と、執筆の仕事と、どっちが気楽って、私には執筆のほうが気楽だし楽しいし好きだと思う。でも、どちらが得意かって、編集のほうが得意かもしれない。気楽、楽しい、好き、得意、っていうのは全部、感覚の問題なので、現象として考えると、お金を稼げるか稼げないか、ってことだ。編集の仕事で、お金を稼ぐ自信はあるなー。でも、考えてみたら、執筆の仕事でも稼げる気がするなー。実際、ライターとしての仕事を受けたこともあった。その時はついつい他の仕事より優先度を下げてしまって、遅々として執筆が進まず、たいへんな迷惑をかけたのだけど。

 

「できること」「やりたいこと」「求められていること」、この3つが重なったときが、仕事はいちばん幸せだと思う。その3つのバランスをとること。出し入れは、すなわち編集だ。自分の見せ方を編集すること。盛ったり、隠したりを、意図的に、うまくやること。

 

えーと、何の話だっけ。そうか、ブログのデザインの話か。

 

で、このブログは匿名なので、意図的に分かりにくい見せ方をしているわけです。そのうち、アイコンももっと面白いものに変えようっと。

 

女性の性と人生の哀愁

友達のおうちにお呼ばれして、飲んでしゃべっている中で、「子宮系カルト」という言葉を聞く。何となくどういう人たちを指しているのかはすぐに分かったけれど、一部の人にそこまで危険視されているものなのかということを驚く。

 

私は、ここまでの人生を生きてくる中で、今の日本の女性が性的に抑圧されているところがとても大きいし、それがもっと開放(解放?)されたらいいと思うようになっていて、自分も性的に理不尽な我慢をしたくないし、搾取なんてもちろんされたくないし、そのために自分のできることや社会を変えることを少しでもしていけたら、と思ってはいるけれど、それを盲目的に重要視して、他の大切なものを犠牲にするつもりはない。それも大事、これも大事。バランスを取り続けるのは難しいし、時につまらないことではあるけれど、振り切れてしまうのは投げ出すことでもある。

 

それにしても素敵なおうちだった。調度品も食器も、出てくるお料理もお酒も、鼻血が出そうなくらい素敵だった。「素敵に暮らす」は完全に放棄しているけれど、私には「適当に暮らす」が快適なので、それはそれで、よい。比べて凹む必要も、なし。

 

家に帰るのがずいぶん遅くなってしまったけれど、DVDの返却期限が今日までだったので、『最強のふたり』を見る。

 

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全くもって空気を読まないドリス(黒人の世話人役)が痛快。身体の自由が利かないフィリップを完全にコケにするところとか、オペラで爆笑するところとか、クラシック音楽の印象を述べるところとか。フィリップが「彼は私に同情していない」と言うのがいい。ドリスは無邪気で打算がない。それにしても、フィリップ役の俳優、ダスティン・ホフマンに似てる。マガリーが、ドリスに一緒に風呂に入ろうと言われて脱ごうとしてからかうところと、最後に「3Pなら歓迎よ」って言うところだけ、なぜか見覚えがあったのだけど、もしかして、この映画、私は前にも見ていたかも? あー、人生を再生して焼き直しで楽しめる時期が私にも来てしまったのか…(涙)。

 

人生を再生して焼き直しで楽しむ、というのは両親を見ていて、昔の会話や昔に観た映画を全くもって忘れてしまって、もう1回同じ会話や映画を、本人たちはまるで初めてのように楽しんでいる現象のこと。本人たちは楽しそうだし幸せそうだからいいんだけど、自分がその時期に来てしまったというのは、哀愁を感じます。勝手に哀愁。

 

ブログは文章のカラオケなんだな

昨日はたくさんの人に会う日で、なんだか私、あまりにまっとうに仕事してるなあ、と思った。もちろん至らぬ点はあるし、人から羨まれるほど稼いでいるわけではないのだけど、私はまわりにいる人たちが大好きで、その人たちときちんとコミュニケーションをとれている感覚がある。その人たちが、私のことをある程度認めてくれている感覚がある。初めて顔を合わせる人とも、がっかりさせたり不信感を抱かせたりはしていない、という感覚がある。

 

全ては感覚の問題で、ビジネスでは突然契約を切られたり、この先に応えられないような要求が出てきたり、するのかもしれないけれど、現時点では、私はやれるだけのことをやっている。そしてそれを求めていてくれる人がたくさんいるというのは、ありがたいことだ。本当にありがたいことだ。

 

そして、自分の好きなことと、自分の培ってきたスキルで仕事ができるのは、本当に幸せなことだ。この前、母親が来ていたときに仕事の話になって、収入とか稼ぎとか社会的地位とかはともかく、仕事が好きだって言えることは本当に幸せなことだね、と話していた。そういう価値観で私の人生を認めてくれる母親のことも、大好きだ。

 

私は書くことが好きなんだな。筆一本で食べていけるわけではもちろんないし、私より文章のうまい人はごまんといる。

 

けど、音痴でカラオケが趣味の人が、「歌うのが好き」って言っても批難されないように、私は文章を書くのが好きだ。

 

そうか、ブログって、文章のカラオケみたいなものなのか。私はひとりカラオケも大好きなのだけど、こうして、誰も知り合いの知らないところで文章を書いて自己満足しているというのは、ひとりカラオケしてるみたいなものなんだな。

 

これまでは、Facebookで近況報告したり、思いのたけをつづったりしていたけれど、なんだかその度にいいねの数で採点されるような気分がして、ちょっとつまらなくなってしまったんだな。もちろん、いい点数=いいねの数を狙って好きじゃない歌を歌う=嘘を書く、なんてことはしなかったけど、やはり人の目って、あればあったで気になってしまう。

 

うーん。書きながら、ちょっと違うな、とも思っている。私の場合、いいねの数が気になるというよりも、読んでいる人たちにとって面白い話題かどうかが気になって、書きづらくなってしまったのかも。タイムラインに「友達」の投稿が上がってくるFacebookのシステムは、読みたくない人にも自分の文章を読ませるシステムでもある。誰かと一緒にカラオケに行ったら、自分ばっかりマイクを独り占めしたり、だれも知らないようなマニアックな曲ばかり歌うのがつまらないだろうな、と思ってしまうようなサービス精神(というか、まあ普通の気づかい)が私にはあるので、そういう気づかいも、いっさいしなくていい環境で書きたくなったのかも。

 

今の私は、荒野でひとり歌っているようなものだ。荒野でひとり歌うのは、カラオケではないな。うん。好き勝手に書いていると、こういう表現の矛盾がたくさん生じるな。でもいいんだ。荒野で一人なんだから。

 

近くでは誰も聞いていない。マイクもエコーシステムもないから、声量がないのもごまかせないし、遠くにいる人たちを振り向かせるような技量もない。たまたま遠くにいる人が目にとめてくれたとして、なんか歌っている人がいると思ってわざわざ見に来て聞いてくれてこんなもんかと去っていく人が、日々数人(アクセス数、毎日だいたい4~5人です(笑))。

 

一人で歌って恥ずかしくなったりむなしくなったり、歌だったらそう感じるかもしれないけど、今のところ、文章を書くことで、それを感じることはない。歌は歌ったら消えてしまうけれど、文章は、あとで自分で読み返すことができるから。

 

書いた文章のうち、気に入ったものだけを読み返して、自分の言葉として自分を励ますことだってできるから。

 

ああ、あのとき私、がんばっていたな、とか。ああ、このときはこの人が支えてくれていたな、とか。あの状況をよく乗り越えてここまで来たな、とか。

 

文章を書くにもスキルは要るけれど、私にとっては、気持ちを絵で表すとか、写真に残すとか、作曲するとか、ダンスをするとか、そんな手法よりはずっと手軽な手段。

 

私が初めての本を出したとき、母親に「母さんが本好きな子供に育ててくれたおかげです」って言ったら、母は「うさぎが自分で本好きに育ったんだよ」って言ったのだけど、この話はまたいずれ。

 

別に稼ぎたくて紹介するわけじゃないよ

昨夜は、寝つきは良かったのに、夜中2時半ごろ目が覚めてしまった…。なんか不安なのかな。緊張してるのかな、私?

 

『営業女子』を読んで、やっと、“営業”とか、“経営目標”とかのことを理解する。ひええええ、こんなことやらないといけないのか! って、今さら。読めば読むほど、…やりたくない…できない…とか思ってしまって、うーむ。それで、会社の経営、傾いたらどうしよう、って、不安になってるんだよね、私。 

営業女子 働き方の基本がわかる教科書

営業女子 働き方の基本がわかる教科書

 

 まあ、それでも、やらねばなるまい。ちょっと、考えよう。自分のできることを。

 

と、ここまで書いてAmazonアソシエイトを設定したよ。そんなことでは稼げないって、分かってはいるのだけどねー。でもまあ、みすみす逃す必要もない。

 

アソシエイトを設定したから、というわけではないけれど、夜中に目が覚めてしまって、悪あがきせず、起きて『人生スイッチ』の続きを見た。

 

人生スイッチ [DVD]

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 どの登場人物も、や、り、す、ぎ。さすがにそこまでは…と思う線を、楽々に超えてくる、行動の異常さ。これを見ると、世の中の人々がいかに理性にしばられて行動しているかが分かるわ…。

あ、あとさらに、書店で買ってしまった。 

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

 

 少し前から気になっていて、読めない、今は読めない、精神的にも時間的にも、絶対読めない、って思っていたのだけど、読めるようになった~。なんか、やっと本来の自分に戻ってきた気がする。民族衣装を着た著者が、普通にカッコいいんですけど。

 

うーん、うまいまとめ方が見つからないけど、だいぶ時間を使ってしまったので、今日はこのへんで。

 

ではね。

 

自分の身体をコントロールすること

朝、起きてすぐにブログを書き、6時までには書き終わりたい。

と、思っているのに今日はもうこんな時間(現在7:25)。目覚ましが鳴っても起きられない~。

 

そもそも、寝つきが悪いのだ。昨日も、10時くらいに寝ようと思ったのに、11時半くらいまでぐずぐず、ぐだぐだ。

 

寝られないのって、すごくイライラする。次の日に寝不足になって使い物にならないと思うと、焦って、ますます寝られなくなる。未来の予測をまるで立てない私だけど、次の日にツラくなるってことくらいはわかる。

 

眠りたいのに寝られない。これも、身体コントロールの一つだ。すべてを自分でコントロールできるなんて思うほうが愚かだけれど、自分の身体くらい、自分でコントロールしたいのだ。なのに、それが叶わない。

 

人は、自分の身体をコントロールできるか? 私は、完全にイエスではないと思っている。完全にイエスじゃないから面白いと思っている。

 

世の中の不倫を鬼の首とったみたいに批難する人たちは、自分の身体を完全にコントロールできると思っているんだろうか。痩せたいと思ってるのに食べちゃうのよねー、とか、運動不足だと分かってるんだけどなかなかねー、とか、言ってないんだろうか。人が、自分の身体を完全にコントロールできるなら、ダイエットとか運動不足くらい、簡単に解消できるはずでは?

 

大切な人を亡くしたとき、悲しくて悲しくて仕方ないのに、それでも食べて眠って生き続ける自分が信じられない、みたいな記述の小説も漫画もある。死ぬほど悲しいのに、身体は死ぬことを許してくれない。

 

身体は扱いづらいのだ。扱いづらくても、一緒に生きていくしかないのだ。一緒に老いていくしかないのだ。

 

と、言いつつですねえ。

 

寝つきが悪いのはやっぱり気持ち悪い! 早寝早起きをするためにはまず早起きから、と、分かってはいるものの、朝、布団から出られないこの自分がイヤ。できればこの週末で、リセットしたいなー。

 

恋愛感情は母性本能のバグ

「母性本能」という言葉さえもが神話だということを踏まえた上で、あえてタイトルは分かりやすく。

 

Facebookが「〇年前の思い出」とか言って、ほんの数年前の子どもたちの写真を見せてくれる。たった数年前の写真なのに、子どもたちがもう思い出すこともできないくらい幼くて、驚く。

 

今、中1の長男を、3年前に地元の神社のお祭りに連れていったときの写真。射的の屋台で、台から前のめりに体を伸ばし、真剣に的をねらう息子の背中をスマホで撮り、私は「息子に最も『男』を感じる瞬間。」とキャプションを付けている。

 

今の彼は、瞬間も何も、ずっと、いつでも、どんなときも、「男」だ。背中は広く、頼もしい。声は低く、夫よりも背が高くなり(うちはノミの夫婦で私のほうが背が高い)、私に「子供」として甘えてくることはなくなった。

 

長男だけではなく、娘も、次男も、みんな、みんな、写真の中では幼い。幼い子供たちは、あの頃自分たちでは何もできなかった。子供たちではどこへも行けなかった。私がいなければ行けない場所に、私が連れていっている。私がそのときに撮った写真のことはおろか、その場所に行ったことも、もう覚えていないかもしれない。今、覚えているとしても、大人になったときには、忘れてしまっているだろう。卒業や、入学や、受験や、就職や、結婚や、出産といった、人生の大イベントと比べたら、ささいな、ほんのささいな、保育園のお祭りや、都会の中の小さな水族館のことや、連休に出かけた遊園地のことなんて、きっと、忘れてしまうだろう。

 

彼らは、私との思い出を忘れてしまうだろう。新しい恋人ができれば、昔の恋人を忘れてしまうように。ずっとずっと、思い出を作り続けなければ、古い思い出は、どんどん忘れていってしまうだろう。

 

私は忘れないだろう。私が生きている限り。彼らが成長し続ける限り。彼らがどんなに新しい人と出会い、新しい世界に羽ばたき、新しい幸せを見つけて、昔の小さな、ささいな、なんでもない幸せを忘れてしまったとしても。

 

私は、昔の恋人が忘れられないように、彼らのことを忘れないだろう。

私の言葉は何より自分を引き上げる

久しぶりにスピッツを聴いたらなんか切なくなったけど、実生活に影響はなし。

 

営業のノウハウ本、買った! ついでに『東京タラレバ娘』の最終巻も買いました。なるほどねー、という終わり方。倫子さんが結婚できる・できないに振り回されなくなったのはいいね(ってネタバレ? いやいやこのブログ誰も読んでないから大丈夫)。私はアラサーならぬアラフォーだし、独身ならぬ既婚者だけど、“次の結婚”ができる・できないに振り回されない、かっこいい女になれるのは理想かも! 願わくば、「この人を幸せにしたい」と思うようなイケメンが現れてくれますように…(←振り回されてる)。

 

かっこいい女になるための、仕事ですよ、仕事。

 

昨日、とある人からとあるサービスの提案をされ…。私の、この「人からやれと言われたことがつまらなくて仕方ない」性分は、どうしたらよいものか。その人は「やれば絶対人が来る」と言うのだけど、私は今の段階ではそれを「そうかなあ」としか思えない。人の言っていることより、自分の思うことが正解だということを証明したい気持ちがあるものだから、このサービスを無意識に失敗に追い込む=人が集まらないという結果を求めてしまう気がして仕方がない。そんな無駄な時間を過ごすのはもったいないことこの上ないから、何かどこかで転換しなければいけないと思うのだけど…、他のスタッフに丸投げするかなあ。そのスタッフは「いいと思います」と言っているわけなので、「じゃあやってみる?」ってことで、任せたら彼はやる気になるだろうか???

 

ビジネスでも人生でも、将来に正解はなくて、判断して選んだものを正解にしていくしかない、と思っている。その判断に、過去の分析を使う人もいれば、占いを使う人もいるし、多数決を使う人もいる。私は“直感”という、いちばん頼りない(というか頭悪そうな)方法を使ってしまうのだけれど、それはなんでかっていうと、直感がいちばん言い訳できないからなのだ。分析に頼ると、失敗したときにさらに失敗した分析をしなければならない。占いに頼ると、占いが外れたってことになってしまう。多数決は、責任が分散する。一人あたりの責任がいちばん少なくて済むという意味では、多数決って、ものすごく責任逃れがしやすくなるシステムだ。

 

私の直感で動いて失敗すれば「私の直感が間違ってました。すみませんでした」ですべてだ。私の直感が面白くてついて来てくれた人は、結果としては失敗という烙印を押されるかもしれないけど、面白かった過去は消せない。

 

って書いてはみたけれど、「失敗」って何が失敗なんだろう。楽しい時間を過ごすことよりほかに、人生に失敗ってあるんだろうか。何かに時間をつぎ込んで、思っていたような結果が残せなかったことを失敗というなら、人生なんてすべてが失敗だ。結果なんて気にせずに楽しい時間を過ごす、「失敗」も自分で引き受ける、あるいは仲間と分かち合う、そんな風に過ごせていくことが私には幸せだ。

 

うん、なんか、書いていたら前向きな気持ちになってきた。人から提案されたサービスでも、それを私がとことん面白くしていけばいいのだ。面白くして、人が集まって、お金も回ればそれが正解になる。提案は、正解でも失敗でもない。ここから正解にしていくのは、私だ。私がそれを正解にするのだ。

 

思いを言葉にするって、素晴らしいな。自分で自分を引き上げることができる。というか、私の言葉にはそういう力がある。私には、そういう力がある、と思っている。