私が嫌いな人はだれ
どこかに何かを書きたいな、と思う。何を書きたいのかは分からない。どこに書いたらいいか分からない。
何かが決まっているときには、その他も決まっている。決まっていないときには選ぶしかない。選ぶのは、作り出すのとは違う。あるものから選ぶ。持っているものから選ぶ。知っている中から選ぶ。
書くことさえ決まっていないのだから、何を書くかわかっていないのだから、書いたらどうなるかということはわからない。とりあえず、時間が過ぎる。1000字ほどの文章が生まれる。
そうして、何かが変わる。気持ちが変わる。行動が変わる。
仕事の締め切りまでの時間が減って、余裕がなくなる。仕事に向き合うしかなくなる。
それはそれで、仕事に取り組むための有意義な方法のはずだ。
方法なんてどうでもいい。他人に迷惑をかけなければ何をしたっていい。
どこに何をたれ流そうと、人の自由だ。けれども私はみっともない姿を見せたくはない。
心の赴くままに、弱音を吐けたらいいなと思う。思いついたときに、人の悪口が言えたらいいなと思う。いいなと思うだけで、それはできないし、したくないということも、もう十分わかっている。
できないことがわかっている、というのと、それをしたいと思う、のは別の話だ。
だけれど、それをしたい、といいながらやらない、という状況を、私はみっともないと思っている。
みっともない自分は好きではないのだ。
私は、自分のだらしないところが嫌い。やらなければいけないことがあるのに始められずにだらだらしてしまうところが嫌い。
できることなら24時間、ぱりっとして、やるべきことをやって、休むべきときに休んで、くつろげるときにくつろいで、毎日、満足した状態で眠りにつきたい。
今日もがんばった、やるべきことをすべてやった、さらに勉強もした、本も読んだ、好きな人に好きといった、大切な人に笑ってもらった、自分のことも大切にした、そう思って眠りにつきたい。
嫌いな人から離れたい。自分のことを好きでいたいし、悪口を言わなければいけないような人からは、離れたい。
離れたい、と思いながら、離れるための行動をとることができない自分がいやだ。離れることで、その人が安堵するのもいやだ。
とことん苦しめてやりたいという気持ちが生まれるのもいやだ。でも、もう、いやだいやだばっかり言っているのも、もういやだ。
私は私のやり方でやっていったらいいのではないか。そこまで嫌いな誰かを立てる必要もないだろうし。
とある人物とともに老いております
めちゃんこお久しぶりです。うさぎです。生きてます。めっちゃ元気に生きてます。
まず最初にご報告。といっても、どこからご報告さしあげていないかが未確認です。
一昨年、離婚しました。
昨年、マッチングアプリでお付き合いしてくださる方が現れました。
今年、その方と一緒に猛スピードで老いております。
って感じ?
誰か私と一緒に老いてくれないか、というタイトルのこのブログを始めたときは、私と一緒に老いてくれる人に、それまで自分がやってきたような方法で、いつか出会えるんではないか、と思っていたんですよ。
離婚して1年が経って、それは無理だな、って気づいたんですよ。
好きな人もいましたよ。食事に誘ったり、なにかに理由つけてものを送ったり、連絡してみたり、してましたよ。
でも、食事してみても、連絡してみても、先方から何かに誘ってもらったことって一度もないなって気づいて、分かったんですよ。これは脈がないんだな、って。
だから、マッチングアプリを始めたわけです。
新しい世界で、それはそれで楽しかったです。
で、大切な人を見つけることができたので、それもうれしかったです。
私はまだ、実質子供たちと一緒に暮らしている状態なので、お付き合いしている相手に対する正直な考えは、
いつ一緒に住めるのかは分からないけれど、それまであなたのことを大切にしたいと思っています。
という感じです。
こんなのらりくらりとした状態で、まだこの先、何年も待っていてくれるのかどうか、若いころなら不安になったと思いますが、もー、私もいい年なので、そして先方もけっこうなお年なので、いろいろわかってきているのだと思います。
それは、「いつかこの人と一緒に暮らせる日がきて、その後の日々はそれなりに楽しいものである」ということが起こる確率と、「いつかこの先、とんでもなく理想的な相手と出会い、なにひとつ不満なく、とんとん拍子で話が進み、理想的な場所で理想的な暮らしをすることができる」ということが起こる確率を比べたら、前者のほうが起こる確率は高い、ということです。
理想的な相手ってなんやねん。理想的な場所ってどこやねん。理想的な暮らしってどんなやねん。
そんな、実態のないものが現実になる確率は、正直、ゼロですよ。ゼロ。
昨日、娘が「袋の中に白い球が2つ、赤い球が1つ、青い球が1つ、入っています」みたいな確率の数学の問題を解いていましたが、図に表すときは、白い丸を2つと黒く塗りつぶした丸と中に斜線をひいた丸を描くよりも、白1,白2,赤、青、と文字で書いたほうが断然分かりやすかったです。
あー、久しぶりに書いて、すっきりしました。読んでくださり、ありがとうございました。ではまた。
ちぎりブレッドを買いに行きたい
こんばんは。めちゃめちゃお久しぶりです。うさぎです。生きてます。
「誰か私と一緒に老いてくれる」人を見つけたいと思って始めたこのブログ、残念ながら、まだ一緒に老いてくれる人は見つかっていません。
っていうかですね、一緒に老いてくれなくてもいいですよ。私の愚痴を聞いてくれる人が欲しいです。
前にもさんざん書いてたと思うんですけど、私、愚痴を言うことができないのですよねえええええ。「こんなことを言われても困るだろうな」「こんな話を聞かされても面白くないだろうな」という気持ちが先だってしまって。
しかも、今日、厳密にいえば昨日からめちゃめちゃもやもやしていることは、状況とか登場する人物関係(っていうかその人と私の人間関係)がひとことで説明できないので、愚痴る前に説明するだけで疲れてしまいそうだし、私がもやもやする理由まできちんとわかるように状況を説明するのってかなり難しいと思うんですよ。
長い時間と、適切な言葉を使って、えんえんに状況説明して、いざ、「こんなこと言われたんですよ! ひどいでしょ?」と言ったところで、聞いてくれた人が「えー、そうかな」なんて言おうものなら、私はそこでがっくりうなだれてしまいますよ。必死で説明した私の時間と労力を返せ!って怒鳴りたくなりますよ。そしたらもう、「は、愚痴聞いてくれって言ったのはお前やろがい」って逆ギレされること間違いなしです。
そんな結末が見えているところで愚痴るとか、非生産的すぎてやってられません。
しかし、あまりにもやもやするので、仕事が手につかず、早く仕事を終わらせてサミットにちぎりブレッドを買いにいきたいのですが、全然仕事が終わらあないので、ちぎりブレッドのために、ひさびさにはてなブログにログインしました。IDも、パスワードも、忘れてないですよ。忘れるわけないじゃないですか。
で、ログインしたと思ったら、やっぱり具体的な愚痴ではなくて、あーだこーだ、あーだこーだ、書いてまもなく900字に届きそうな勢いです。
やっぱり私は文字を連ねることが好きなんですねー。全くもって、とある人物から言われたセリフの理不尽さにふれることなく、心が晴れやかになってきました。
関係ないついでに、さらにどうでもよいことを書きますけど、この頃、とにかく肉体的にも精神的にも健康で、快適な人生で、街中のマッサージ屋さんとかを見かけるたびに、若いころはなんであんなに体中が痛かったんだろうなあ、と思っています。もうすぐ46歳。
お読みいただき、ありがとうございました。ちぎりブレッド、まだあるかな。
知らなかったことを教えようかと思ってやめた
お久しぶりです。うさぎです。生きてます。とても元気に生きています。
時間に余裕ができると、気持ちがざわざわしてしまうのが、私の悪い癖。悪いんだか、そもそも癖なんだか、よくわかりませんが、とにかく自分では「気持ちがざわざわする」というのがいちばんぴったりする表現です。
そういうときに、何をすべきかというところで、私は文章を書きたくなるのです。鉛筆でノートに文字を書きつけてもいいのですが、成果物を見直してもあまり美しくもなければ楽しくもないので、もったいないのですね。
どうせ書くなら、という貧乏根性がこういうところで発動します。文字を美しく書くことを心がけるよりも、パソコンのフォントを利用したほうが私の場合はずっと効率が良いですし、わかりやすい文章を仕上げるためにごしごし消しゴムを使うよりも、パソコンのカーソルをかちゃかちゃ動かすほうがずっと簡単です。
心を落ち着けるためにすずりと筆を出して書をしたためるという方もいらっしゃるでしょう。それはそれですばらしく文化的だと思います。心をこめてコーヒーを入れるという方もいらっしゃるでしょう。それはそれでとても優雅だと思います。
ただ、私の場合は、こうしてキーボードで文字を打ち込むのが好きで、これがいちばん自分の心の健康を保つために有効だというのを自覚しているので、それをしているまでです。
はい、500字を超えました。ここまで、ほとんどよどみなく文章を作り出していますが、まるで、なんのためにもならない、少しも、だれの役にも立たない文章ですね。
分かっています。読んでくださる方、ありがとうございます。あなたの貴重な人生の一部分を、私の文章を読むために使ってくださり、ありがとうございます。
せっかくここまで読んでいただいたので、何か少しでもお役に立つことを書きたいと思います。
先日、家庭裁判所から封書が届きました。普通郵便で、ポストに入っていました。
その数週間前に、とある弁護士事務所と話をしていて、あなた、もうじき家庭裁判所から呼び出しが来ますから、よろしくお願いしますね、と言われたので、その呼び出しの通知は書留で来ますか、見落とすといけないので、と確認したところ、書留で届きますから大丈夫ですよ、と言われたのですが、普通郵便でした。
弁護士さんに、間違ってましたよ、知らなかったんですか、って教えてあげようかな、と思いましたが、母親から「心象悪くなるからやめておきなさい」って言われたのでやめました。
まあ、そんなわけで心がざわざわしているのでした。今日も1日がんばりましょう~。
前向きに生きています
なんとー。
一ヶ月近く、記事を書いておりませんでした。どうも、お久しぶりです。と書いてはみるものの、はてさて、これを読んでくださる方はいらっしゃるのでしょうか。
なんだかずっと忙しかった、というのはうそではありませんが、ここに来なかったいちばんの理由ではない気がします。
私、私を知っている人に向けて、文章が書けるようになってきたんですね。正しく言うと、また、書けるようになってきた。
3年前、もう、私を知っている誰に向けて文章を書いたらいいか分からない、という状況に陥って、この匿名ブログを始めました。こんなこと書いたらどう思われるかな、というのが怖くて、知り合いが読む場所で、文章を書けなかった。
今は、もうそれが怖くなくなりました。結局、私のことをどういう風に理解するかなんて、私にはコントロールできないこと。私は、私が面白いと思ったことを、面白いと思った書き方で書く。
それを、生身の自分を知っている人に対して、また、できるようになってきました。
ああ、この1年で、回復したなあ、私。
たぶん、とにもかくにも頭の中で考えることが爆発しそうに渦巻いていて、爆発させないためにここに吐きだしていた、そのころの私の文章は、面白かったと思います。頭の中で何が起こっているのか、ということを徹底的に出し切っていたから。
でも、今の私は、頭の中で考えることが、ふふん、それってしょせんは頭の中でしか考えてないことでしょ、っていう風に、思考が変わってきている。
頭の中で考えることって、解釈や分析は、人の気持ちを落ち着けるのに役立つけど、でも、それは何かを生み出すことにはならないんじゃないか、って気がします。
解釈や分析というのは、過去に対しての思考だから。私は今、頭を未来のための思考に使いたい。作戦や、企画。発信の仕方、工夫。そういうものを考えて、考えたあとに、行動をしている。している感覚がある。
過去に行ったことや体験したことについて考えるのは、反省や解釈、分析にはなるけれど、なんというか、脳の中で思考が止まってしまう気がする。それはそれで、面白いし、人生に対しての姿勢を深めることには役立つと思うのだけれど。
でも、今の私は未来にやりたいことがある。それは、何年も先のこととか、ライフワークみたいなことじゃなくて、明日までに終わらせたい仕事があるから、今からこの順番でこういう作業をする、とか。今月で答えの出るプロジェクトがあるから、全力を尽くすためにこれとこれをやってみよう、ダメだったらまた考えよう、とか。
前向き、未来志向なんですよね。面白くないですよね。でも、私は元気です。元気なのは、うれしいこと。
読んでくださり、ありがとうございました。
問い詰めても過去は変わらない
「なんで言ってくれなかったの?」というセリフほど、意味のないものはない、と思う。AさんがBさんにCという内容を伝えられなかった、という事実はもう変えがたい過去のことであって、その理由を聞いたところで、Bさんに何かメリットがあるのだろうか?
「なんで言ってくれなかったの?」というセリフを言ってしまうBさんの心境として、私がいちばん容易に想像できるものは、「そのときAさんがちゃんと私に言ってくれていたら、事態はもっとマシだった」「Aさんが私に言ってくれなかったから、今の困った事態になっている」「Aさんが私にCだと伝えてくれさえいたら、私の力で今の状況には陥っていなかったはずだ」などなど。
つまり、Bさんにとって、自分は悪くない、Cだと言わなかったAさんが悪い、という思考回路が、そこにあるような気がする。
一方、BさんにCだと言えなかった、あるいは言おうと思わなかった、あるいは言うつもりがなかったAさん…と、すでに理由がさまざまに推測できてしまうわけだけれど、私がいちばん容易に想像できるAさんの心中は、「言ったらBさんから怒られると思った」だ。
言ったら怒られると思って、言わなかった。で、言わなかったことで、やっぱり「なんで言わなかったの」と怒られる。
だったら最初から言えばよかった、とはならない。たぶん。Bさんが、Aさんから離れていくだけだ。
Aさんが、Bさんに離れてほしいなら、「なんで言ってくれなかったの」と問い詰めたらいいと思う。
けど、BさんにとってAさんが大切な人で、これからもずっと何かを一緒にしていきたいのであれば、言うべきセリフは「なんで言ってくれなかったの」ではなく、「言ってくれるタイミングをあげられなくてごめんね」だ。あるいは、「話し合う時間をとれなくてごめんね」「私にはなんでも言っていいってことを伝えてあげられなくてごめんね」「話しかけづらい雰囲気を出していたならごめんね」「もっと早く私から話を聞けばよかったね、ごめんね」だ。
私は、たぶん謝りすぎなんだと思う。バイトの子にも、「わー、それ、言ってなかった、ごめん!」「えー、そうか、ごめん、まだこれ教えてなかったね」「うーん、分かりづらかったかな、ごめんね、違うんだよ」などなど。
だってさ。伝えたいと思っているのはこちらなんだから。伝わってほしいと思って話し手いるのは、私なんだから。伝わらなかったら、悪いのは私だ。
べつに謝ることがいいことだとか、優しさや思いやりが全てだ、というわけじゃない。過去のことは変えられないという、そういう現実的な解決策として、「なんで言ってくれなかったの」っていう問い詰めには意味がないと、そう思っている次第であります。
名もないスキルを駆使する
うーん、そうかー。なんとなく、ここ数日、気分がふわふわとしていて、自分の時間の軸はどこにあったんだっけかなー、と思っていたが、そうかー。11日に、ものすごいダイエットのリバウンドをして、へこんでいたんだな。そうかー。成長しとらんなー。昨日もリバウンドしたぞ。さらに、今日もなんだかんだと食べ続けているぞ。ダメじゃん、私。
自分の時間というか、意識というか、生活のすべてを、ダイエットに使っているうちはいいのだ。毎朝、体重計に乗って、数字が小さくなっていき、それで充実感を感じていられれば、それでいいのだ。
問題は、ダイエットよりも大切な事案というか、ダイエットのことはさておき、向き合わなければいけない重要な項目が人生に浮上してきたときだ。
たとえば、仕事で失敗するとか。
たとえば、仕事でイヤな人と付き合うとか。
たとえば、仕事で〆切を勘違いしていて焦るとか。
たとえば、仕事でやむなくお酒の場に出るとか。
こういうことが、たくさん起こったために、この1週間はなんだかふわふわしてたなー。ダイエットを、している場合じゃなかった、というか。
ストレス解消のために食べる、というのが良くないと、悟ったからダイエットを始めたのに。ストレス解消のために食べていたころの私に戻っているではないか。ダメですよ、これは。
なんだか書いていて、結局私は、ダイエットに失敗しているのではないか、という気がしてきたけれど、いや、違う。断じて違う。ちょっと、今、つまづいているだけだ。ここであきらめてはいけないのだ。
明日から、またがんばろう。寝不足が、いちばん良くない。ずーっと、ずーっと、しっかり寝ていたのに、この1週間は3日くらい、寝不足になってしまった。なんでだ。なんでかっていうと、帰るのが遅いからだよ。
今日もまだ、会社にいるよ。まだ帰らないよ。本当は帰った方がいいんだけど。だらだら仕事をしているよ。よくないよね。
やらなくてもいい仕事をさー。一生懸命やってしまうんだよねー。お金にならない仕事をさー。せっせとクオリティ上げてしまうんだよねー。
名もないスキル。できて当たり前のテクニック。
たとえば、読んでみてすっと分かる書類とかね。記入するときに全然悩むことのない申込書とかね。問合せフォームからの入力がスムーズな一覧表とかね。
こういうものを作るのが、得意なんですよね。だから、やっちゃうんですよね。でも、これって名前のないスキルだし、出来上がったものを手にした人は、違和感を感じないから、それが当たり前になっちゃうんですよね。
そういうものだけは、身につけているんだよね、私。