ブログは文章のカラオケなんだな

昨日はたくさんの人に会う日で、なんだか私、あまりにまっとうに仕事してるなあ、と思った。もちろん至らぬ点はあるし、人から羨まれるほど稼いでいるわけではないのだけど、私はまわりにいる人たちが大好きで、その人たちときちんとコミュニケーションをとれている感覚がある。その人たちが、私のことをある程度認めてくれている感覚がある。初めて顔を合わせる人とも、がっかりさせたり不信感を抱かせたりはしていない、という感覚がある。

 

全ては感覚の問題で、ビジネスでは突然契約を切られたり、この先に応えられないような要求が出てきたり、するのかもしれないけれど、現時点では、私はやれるだけのことをやっている。そしてそれを求めていてくれる人がたくさんいるというのは、ありがたいことだ。本当にありがたいことだ。

 

そして、自分の好きなことと、自分の培ってきたスキルで仕事ができるのは、本当に幸せなことだ。この前、母親が来ていたときに仕事の話になって、収入とか稼ぎとか社会的地位とかはともかく、仕事が好きだって言えることは本当に幸せなことだね、と話していた。そういう価値観で私の人生を認めてくれる母親のことも、大好きだ。

 

私は書くことが好きなんだな。筆一本で食べていけるわけではもちろんないし、私より文章のうまい人はごまんといる。

 

けど、音痴でカラオケが趣味の人が、「歌うのが好き」って言っても批難されないように、私は文章を書くのが好きだ。

 

そうか、ブログって、文章のカラオケみたいなものなのか。私はひとりカラオケも大好きなのだけど、こうして、誰も知り合いの知らないところで文章を書いて自己満足しているというのは、ひとりカラオケしてるみたいなものなんだな。

 

これまでは、Facebookで近況報告したり、思いのたけをつづったりしていたけれど、なんだかその度にいいねの数で採点されるような気分がして、ちょっとつまらなくなってしまったんだな。もちろん、いい点数=いいねの数を狙って好きじゃない歌を歌う=嘘を書く、なんてことはしなかったけど、やはり人の目って、あればあったで気になってしまう。

 

うーん。書きながら、ちょっと違うな、とも思っている。私の場合、いいねの数が気になるというよりも、読んでいる人たちにとって面白い話題かどうかが気になって、書きづらくなってしまったのかも。タイムラインに「友達」の投稿が上がってくるFacebookのシステムは、読みたくない人にも自分の文章を読ませるシステムでもある。誰かと一緒にカラオケに行ったら、自分ばっかりマイクを独り占めしたり、だれも知らないようなマニアックな曲ばかり歌うのがつまらないだろうな、と思ってしまうようなサービス精神(というか、まあ普通の気づかい)が私にはあるので、そういう気づかいも、いっさいしなくていい環境で書きたくなったのかも。

 

今の私は、荒野でひとり歌っているようなものだ。荒野でひとり歌うのは、カラオケではないな。うん。好き勝手に書いていると、こういう表現の矛盾がたくさん生じるな。でもいいんだ。荒野で一人なんだから。

 

近くでは誰も聞いていない。マイクもエコーシステムもないから、声量がないのもごまかせないし、遠くにいる人たちを振り向かせるような技量もない。たまたま遠くにいる人が目にとめてくれたとして、なんか歌っている人がいると思ってわざわざ見に来て聞いてくれてこんなもんかと去っていく人が、日々数人(アクセス数、毎日だいたい4~5人です(笑))。

 

一人で歌って恥ずかしくなったりむなしくなったり、歌だったらそう感じるかもしれないけど、今のところ、文章を書くことで、それを感じることはない。歌は歌ったら消えてしまうけれど、文章は、あとで自分で読み返すことができるから。

 

書いた文章のうち、気に入ったものだけを読み返して、自分の言葉として自分を励ますことだってできるから。

 

ああ、あのとき私、がんばっていたな、とか。ああ、このときはこの人が支えてくれていたな、とか。あの状況をよく乗り越えてここまで来たな、とか。

 

文章を書くにもスキルは要るけれど、私にとっては、気持ちを絵で表すとか、写真に残すとか、作曲するとか、ダンスをするとか、そんな手法よりはずっと手軽な手段。

 

私が初めての本を出したとき、母親に「母さんが本好きな子供に育ててくれたおかげです」って言ったら、母は「うさぎが自分で本好きに育ったんだよ」って言ったのだけど、この話はまたいずれ。