女性の性と人生の哀愁

友達のおうちにお呼ばれして、飲んでしゃべっている中で、「子宮系カルト」という言葉を聞く。何となくどういう人たちを指しているのかはすぐに分かったけれど、一部の人にそこまで危険視されているものなのかということを驚く。

 

私は、ここまでの人生を生きてくる中で、今の日本の女性が性的に抑圧されているところがとても大きいし、それがもっと開放(解放?)されたらいいと思うようになっていて、自分も性的に理不尽な我慢をしたくないし、搾取なんてもちろんされたくないし、そのために自分のできることや社会を変えることを少しでもしていけたら、と思ってはいるけれど、それを盲目的に重要視して、他の大切なものを犠牲にするつもりはない。それも大事、これも大事。バランスを取り続けるのは難しいし、時につまらないことではあるけれど、振り切れてしまうのは投げ出すことでもある。

 

それにしても素敵なおうちだった。調度品も食器も、出てくるお料理もお酒も、鼻血が出そうなくらい素敵だった。「素敵に暮らす」は完全に放棄しているけれど、私には「適当に暮らす」が快適なので、それはそれで、よい。比べて凹む必要も、なし。

 

家に帰るのがずいぶん遅くなってしまったけれど、DVDの返却期限が今日までだったので、『最強のふたり』を見る。

 

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全くもって空気を読まないドリス(黒人の世話人役)が痛快。身体の自由が利かないフィリップを完全にコケにするところとか、オペラで爆笑するところとか、クラシック音楽の印象を述べるところとか。フィリップが「彼は私に同情していない」と言うのがいい。ドリスは無邪気で打算がない。それにしても、フィリップ役の俳優、ダスティン・ホフマンに似てる。マガリーが、ドリスに一緒に風呂に入ろうと言われて脱ごうとしてからかうところと、最後に「3Pなら歓迎よ」って言うところだけ、なぜか見覚えがあったのだけど、もしかして、この映画、私は前にも見ていたかも? あー、人生を再生して焼き直しで楽しめる時期が私にも来てしまったのか…(涙)。

 

人生を再生して焼き直しで楽しむ、というのは両親を見ていて、昔の会話や昔に観た映画を全くもって忘れてしまって、もう1回同じ会話や映画を、本人たちはまるで初めてのように楽しんでいる現象のこと。本人たちは楽しそうだし幸せそうだからいいんだけど、自分がその時期に来てしまったというのは、哀愁を感じます。勝手に哀愁。