思っていることなんて

そうそう。長い目で、自分を見てあげなきゃ、と思うのですよね。この先も、ずっとずっと自分と付き合っていくのは、自分しかいないわけなので。

 

誰かから期待されている自分、というのもたしかに感じてはいるのだけれど、それに応えすぎて無理する必要もない、と思う。期待している人にとっては、期待に応えたところで、それが「想定内」だから、どんなにがんばったところで「よくできました」で終わりになってしまう。

 

誰かの期待に応えるうちに、人生は過ぎていく。自分にかけている期待に応える時間が減っていく。

 

誰からも期待をしてもらえなくなるのも、それはそれで悲しいことだけれど。将来に対する期待ではなくて、自分の実績を、1つ1つつなぎとめていくだけでも、それでもいいのではないか、と思う。

 

心おだやかに生きていきたいと思うのです。悲しむことなく。怒ることなく。不安になることなく。

 

自分が、何よりも求めているのは安心だから、一緒にいる人にも安心をさせてあげたいと思う。私と一緒にいることで、安心してもらいたいと思う。

 

だけど、だれかの安心のために自分を犠牲にしたくない。自分がいちばん安心できる状態でいたい。

 

自分にとって、身を置く場所はとても大切だ。いつも、安心できる場所にいたい。ここにいてもいい、と思える場所にいたい。

 

居場所。ここにいてもいい、ここにいると安心できる、と思える場所。その場所を探したい。

 

頭に思い浮かぶままを書いていると、こんな感じ。自分で読み返しても、あんまり意味が分からない。とほほ。

 

ひとつ、決断に向かっている感覚がある。大丈夫。その道で行こう。そのバランスで行こう。その優先順位で行こう。その順番で行こう。

 

大事なものだけを、自分のなかにつなぎとめていこう。自分を信じていこう。

 

こういう抽象的なことだけでなく、具体的なことを書きたいと思うのですが、全然書けなくてすみません。誰に謝っているんでしょうか。それさえよくわかりません。

 

抽象的なことを言う人たちのことを、今は私はあまり好きではないのです。思いなんて、目に見えないから、いくらでも言い訳できてしまうから。

 

たとえば、しばらく連絡を絶っているという状態は、それはただ単に連絡を絶っているわけであって、「忙しそうだから気を使った」のかもしれないけど、「連絡するのがめんどくさかったから」かもしれなし、「存在さえ忘れていた」のかもしれないし、「あまりに好きすぎて返事が来なかったら立ち直れないと思った」からかもしれない。

 

思いは、あとからいくらでも都合よく変えてしまえるから、嫌いなのです。

心地よい生活

「同棲」というものをしたことがないのだけど、長男が遊びに来て、何をするでもなく、音楽聞いたり、ゲームやったり、ただそこにいる、という状態で、私も彼を迎えるでもなく、もてなすでもなく、気づかうでもなく、ただ自分の好きなことを好きなペースでする、という状態のとき、同棲ってこういう感じなのかな、と思ったりする。

 

お互いがお互いを支配することなく、うるさがることなく、傷つけることもなく、めんどくさがることもなく、ただ、二人でいて、それが心地よい。

 

こんな恋人が欲しかったなあ、と思う。こんな夫婦になれたらよかったなあ、と思う。

 

息子がこの先、どんな恋をするのか、しないのか、わからないけれど、こういう心地のよい生活を、私以外の誰かと築いてくれたらいいなあ、と思う。

 

息子と一緒に映画を見に行ったり、コンサートに行ったり、というのを夢見ていた時期もあったけど、今となっては、まったくもって同じ趣味というのも考え難いし、息子は息子で友達とか、将来だったら彼女とか(彼氏かもだけど)、私以外の相手と行くほうが楽しいだろう、と思うと、わざわざ私が一緒に行く必要もあるまい、と思う。とにもかくにも、息子には息子が心地よくいてくれるのが、私にとってはいちばん重要なことなのだ。

 

娘も次男も、同じく。娘は全くもって私に甘えるような女の子じゃないし、次男は早々に彼女を作りそうだ、と踏んでいる。

 

じゃあ、私は私でパートナーが必要か、というと、今はあんまり欲しいとも思えないのだよなー。ひとりが気楽。気楽すぎて、これ以上快適な生活が、想像できない。

 

病気とかしたら、弱気になるかもしれないけど。いや、でも、弱気になったときに、パートナーにいてもらうより、そのときこそ、子供がそばにいてくれたら、それでいいっていう気がする。

 

うちの子たち、それなりに優しいので、少しは私のことを心配してくれるのではないかと思う。それで十分、という気がする。

 

先のことは分からないですねー。先のことは分からないけれど、過去と今のことは分かりすぎていて、つまらない。

 

この先の未来を、どう作っていったらいいのかなー、私は。なんか、弱気になってるのかなー、私は。

 

世の中の人たちが、どんな風に仕事してるんだか、もうよくわからないわ。みんな、仕事してるだけですごい、って思う。食べていってるだけでえらい、って思う。

 

時間を区切るのがうまく行ってなくて、ちょっと焦ってるのかもしれませんねー。長い目で、自分を見てあげましょう。ファイト。

 

おやすみなさい。

 

今の私が自慢できるもの

昨日は、友人からLINEグループに話題が投下されて、えんえんおしゃべりしてたら深夜になってしまいました。飲みにいくでもなく、何か食べるわけでもなく、こういう風にきゃっきゃと楽しめるのは、楽しい。

 

めっちゃ頭よくて、仕事もばりばりにできる友達が、ちょっとしたことで悩んでいて、人ってそれぞれ、いろんな悩みがあるものだなあ、と思います。つねにつねに、完璧な人生なんてありませんよねー。一時的には「幸せ!」って思う“最大瞬間風速”みたいな充実感はあるけれど、それがずっと続くわけでないのですもんね。

 

他人の「幸せ!」と思っている姿ばかりを集めてしまうと、それに比べて自分は…ってなってしまうけれど、「幸せ!」ってなってる人の2時間後は「もー俺なんてダメだ」になってる可能性もあるわけで。

 

自分の人生を味わえるのは自分しかいないので、人と比べてはいけないなーと思うわけです。

 

あれもこれも、と欲張ると、たぶんどれ1つ、満足できないのではないかな、と。自分はこれをがんばってる、と思えるものが1つあれば、そこに自分をつなぎとめることができるのではないかな、と。

 

なーんて、その1つが自分にはない、とさんざん悩んできたのが私なんですが。

 

今の私が胸を張って自慢できるものって、何でしょうね。子供たちは、かわいいです。長男は、ほとんど背も私に近づいているくらいなので、昔だったら元服を済ませて立派に大人として扱われているでしょう。そういう意味では、体もしっかりしてるし、友達ともうまくやってるみたいだし、勉強は優秀ではないけれど、まあ、それなりに立派な成人です。(現代日本においてはもちろんまだまだ未成年ですが。)

 

でも、彼は私のものではない。私の努力や私の才能によって、立派な14歳になったわけではない。彼が彼で、自分で成長してきて、今の彼がある。だから、自慢したくはなるけれど、それは私の功績ではない。

 

うむー。そうか。そうやって考えると、彼氏を自慢するとか、夫を自慢するとか、それもおかしな話なのだけど、彼氏や夫は、相手が自分を選んでくれてれいる、というところが功績になるのかな。あの人に値する自分、あの人が相手として認めてくれた自分、みたいな。

 

親子は選んだわけではないですからね。たまたま産んだ息子がすくすくと育っている、というそういうことに過ぎないわけで。

 

とはいえ、最近、息子が好きで好きで、彼のことがなんでこんなに好きなんだって考えると、彼が私を「母親」という枠にあてはめないからなんですよね。やりたい放題、自由に生きている私を、責めない。さげすまない。母親とは思っていないかもしれないけど、私を友人のように扱ってくれている。そこが、私の息子大好きポイントかな、と、今は思っております。

 

迷わず書けばよいのか

結局、迷いがない、という状態がうらやましいのですよね。私は。

 

夢中になれるもの、誰かれかまわず「これはいいよ!」と語れるようなもの、自信をもって薦められるもの、なりふり構わず時間とお金をつぎ込んでしまえるもの。そういうものを持っている人が、うらやましい。

 

昨日会った友人の話の続きです。

 

彼女は子育ての仕方を悩んでいて、私はその悩みはいま何ひとつないので、それはめちゃめちゃうらやましがられていると思いますが、私は私で、彼女に好きなものがある、というのがうらやましい。

 

迷いがある、というのが苦しいのですよね。あ、苦しい、の話に戻ってきました。

 

私の脳みそは、決めたり、動かしたり、ということで喜びを感じます。悩んだり、迷ったり、動き出さずにいたり、ということをしていると、自分はダメなんじゃないか…と悩む。

 

悩みがなさすぎると、自分が悩まないのは頭が悪いからなのではないか…と悩み始めるのですが、それはもしかしたらけっこう幸せな状態です。今は、そんなことに悩む暇はありません。仕事のことで、けっこう真剣に悩んでいます。

 

悩んでいる、という状態のまま、ずるずる時間がたっているので、これがよくないなー、と。そろそろ何とかしなければ、と昨日、思うに至りましたので、まあ、そのうちになんとかします。そのうちになんとかします、とか言ってる時点で能天気すぎる! んですが、それが私なのだから、仕方ない。

 

判断をするというのは勇気が要りますね。新しいことを始めるというのも、しんどいものですね。

 

それだけでもしんどいのに、始めてしまったら続けていかなければいけないわけで。

 

始めることと、続けることの、どちらが大変かなー、ということも、よく考えます。どちらも大変だし、「始める」とか「続ける」とか、結局言葉の上での違いしかないのではないかな、と思います。私がこのはてなブログを書き始めたのは去年の8月ですが、そのころ、こんな書き方をしていたかというと全然違うし、そういう意味では同じ行為を「続け」ているかというとそうでもなくて、そして、毎朝、毎晩、続けている、というよりは、書くという行為を「始め」なければ途切れてしまうのだし。それに、もともとFacebookやほかのブログで文章を書くことはずっと続けていたので、場所を変えて続けているだけだ、とも言えるし。

 

言葉は言葉で大切ですが、時に、行動しか意味がないともいえる場面があります。めちゃめちゃ優秀な商品コピーを作ったところで、商品が売れなければどーしようもない、みたいなね。うおお、自己破滅的なことを書いてしまった。とほほ。

友人とのランチと趣味の話

久しぶりに会った友人とランチしました。女性です。二人とも外国語の勉強が好きなので、主にその話で盛り上がりました。

 

あと、子育ての話も。母親にとって、子供の話は鉄板ですね。いくらでも話せることがある。

 

けど、子育てに正解はないので、私はあまり子育ての話をするのが好きではありません。どんな状況でも共感を求めていることが前提すぎて、どんな話を聞いても、けっこう白けてしまうというか。どうせそのうち大きくなるよー、と思ってしまう。うちだっていつのまに大きくなったんだしー。

 

というのはもちろん、悩みがないからこそ言える気楽な発言であって、当の本人からしたら生きるか死ぬかみたいな問題であるはずなので、もう、そこは必死で共感しますけれども。

 

そして、共感がもちろん嘘ではなくて、自分もわかるよー、わかるよー、って、少し前までは本当に同じ境遇、心境だったので、まあ、普通にわかるんですけど、わかるからこそ、あんまり発見とかがなくて面白くないのですにゃー。

 

じゃあ、私は何を話していたら面白いというのか、そこも、ほんとにひねくれてるというか、人生ふてくされすぎじゃないか、と思うのですが、私は何を楽しみに生きているのだろう???

 

今日会った友人は、育児で悩みつつ、趣味が今ものすごい勢いで充実していて楽しくて、という話をかなり興奮気味に話していたので、わりとうらやましかったです。そういう風に、好きなものを好きなのー!って語れるのって、うらやましい。

 

私は何が好きなんでしょうか。もう半年以上ブログを毎日書いていますが、私の趣味のことって、書いたことがないような気がする。というか、ブログが趣味なんですよね。自分の頭の中とか、心の内とかしか、興味がないので、それをひたすら開示している。それが何よりの趣味です、私。

 

ドライブに行ったりとかしてましたね。車の運転は好きだけどなー。あと、体を動かすのも好きだけどなー。だからといって、のめりこんだりお金をつぎこんだり寝食わすれて取り組んだり、そんなことをするわけでもなく。

 

なんですがしかし、さっき映画のことで調べ物をしていて、監督の過去の作品とかそれに出ていた俳優とかをウィキペディアで見ていて、あれー、私けっこう映画見てるなあ、と思いました。この俳優さんは確か…とか、この作品も前に見たな…とか、知識がつながって、それなりに面白かったです。

 

まあこれものめりこむほどではないのだけれど、見ていないことは、ない。そろそろまた、映画を見に行きたいなあ。だれか映画館に誘ってみようかなー。

 

苦しむというのは

悲しみと怒りのことを考えていて、悲しみは他人に癒してもらえるけれど、怒りは共有できないので、私を怒りを与えた本人に謝罪してもらうことでしか怒りは消えない、みたいなことを前に書いて、それはそれで自分で自分を理解するための大きな助けになっていると思うのですが、今、別の方のブログを読んでいて、悲しみと怒りとも違う、苦しみ、という表現に出会って、はたと考えてしまいました。

 

苦しみ。

 

この1年ほど、悲しかったり、腹が立ったり、ということはさんざん自覚してきましたが、苦しい、と思ったことって、ほとんどなかった気がします。

 

もちろん、身体的に気持ちが悪くて嘔吐したようなときは苦しかったし、貯金の残高があまりに急激に減っていくのを見たのは「うおー、今月苦しいな」と思ったけれども、生きていくうえで苦しいとか、生きていくことが苦しいとかって、あんまり思わなかったな…。

 

努力が足りないのかしらん。と、いったんは自分を責めてみる。

 

が、すぐにそんな反省も忘れる。

 

こんな風だから、苦しまないのですねー、私は。

 

苦しみは、つらい、とも言えるでしょうか。世の中には、苦しみから逃れる方法だったり、つらい人にその状況を変える方法だったり、という情報が数多く出されています。それは、苦しいと思ったり、つらいと思ったりする人がたくさんいて、そこから救われたいと思っているから、そういう情報が求められているわけですよね。

 

しかし、私は苦しまないし、つらいと思うこともない。

 

稀有なメンタルの持ち主であるなあ、と思います。というか、めでたいなあ。頭が悪いというだけのことなのではないだろうか。うーむ。

 

苦しみって、あるはずのものがない、という状態のときに感じるのではないかと思います。ざっくり言ってしまうと、幸せになれるはずなのになれていない、と感じるとき。世の中の多くの人が持っていて、私も持っていても不思議ではないはずなのに、私にはない、と思ったとき。かつて持っていたものをなくしてしまったとき。なぜなくしてしまったのか、どうしていたらなくさずに済んだのか、と悔やむとき。自分は最大限に努力して報われるはずだったのに報われなかったと思うとき。

 

そういう状態こそが、苦しいのかな、と思います。

 

私の今の心配事は、ああ、あのときに健康診断を受けておけばよかった、と将来苦しむのは悔しいので、早めに健康診断の予約をすることですね。あー、めんどくさい。美容院みたいに、1年後の〇月〇日に受けます、と予約して帰ってきてしまいたい。というか、それを自分でやりなさいよ、まったくもー。

 

甘えられないのでせめてもがく

まーまーまーまー、こんなこと今さら言ったところでどーしよーもないんだけど、別に全くもって恨んでるとか根に持ってるとか、そんなことも絶対にないんだけど、よく、女の子が「はしたないことをしているとお嫁にいけませんよ」とか、「お行儀よくしてきちんとしたところの人と結婚を目指しなさい」とか、あ、ごめんなさい、まったくもって、私はこういうことを言われないで育ったので、こんな感じのこと、という実例がうまく出せないのですが、まあ、とにかく、女性は働かずに男性と結婚して男性を支えて生きていくべし、そのための努力をすべし(美しくあれ、とか、おしとやかであれ、とか)みたいなことを、「呪い」だと言って大人になった女性が反旗を翻す、みたいな定型ってありますよね。

 

ここまで、私の書きたいことは理解していただけましたでしょうか?

 

で、私が親にかけられた「呪い」というのは全く逆で、うさぎは女性であることなど忘れて自分の分はしっかり自分で稼げ、なんなら一家を養えるくらいの経済力をもった社会人になれ、という感じだったのですよね。

 

私、人に頼って生きていくのが本当に苦手で。どこまで行っても甘えてはいけない、と思っていた。というか、甘えない生き方が何よりかっこいいと思っていた。

 

子供3人産みましたけどね。全部、自分の貯金で産みましたよ。家計に手をつけずに。で、会社から帰ってきた還付金みたいなやつ? 子供名義の口座を作ってそこに入れて、別居するときに夫にたたきつけてきましたよ。

 

なんでこんなに自分の力で生きていかなくては、って思いこんでしまっているのだろうなあ。責任感が強すぎるのかなあ。責任とると、まわりは喜んでくれたから、それがしみ込んでいるのかもしれないなあ。

 

別に人に頼って生きていったって、組織の力を借りて生きていったって、いいのにね。というか、そうしなかったら、人間なんて生きていけないのにね。

 

どんなに頑張っても、人は人に頼らざるをえないし、どんなに甘えても、人は最後は自分の力に頼るしかないのだし。

 

別に誰かを責めるわけでもなければ、自分を卑下するわけでもないけれど、私には、わりとそういう傾向があるなあ、ということを思ったのでした。

 

もっと、カッコ悪く生きてもいいのかもな。と思いつつ、あがかなかったらどんどん沈んでいくだけ、という気もするし。

 

自分を大事にしつつ、もがけるだけは、もがいてみるか。もがける体力があるうちは。まだまだ40代ですからね。

 

おやすみなさい。