区切ったところで欲しいもの

本日もせっせと勤務中。はあ、疲れた。ちょっと休憩。自分で淹れたコーヒーがおいしい。

 

元日は完全オフだったけれど(んで12時間くらいで「もうお正月飽きた」とか投稿してたけど)、その翌日、2日からここまで休みなし。土日祝は、1日数時間の勤務とか、自宅での作業とか、大した仕事ではない日がほとんどだけれど、それでも完全オフがないと、だんだん曜日の感覚がおかしくなってくる。区切りって、大切だ。

 

休んだら休んだで不安になるし、働きづめにしたらしたでなんだかこれでいいのかなあ、っていう気になってくるし、勝手なもんだけど、まあそれが人間というものだ。仕方ない。

 

自分の心情をつらつら書きだすのは、私にとっては休息であり回復のための作業。他の誰の役に立たないとしても。

 

今、欲しいものは口紅。「口紅がほしい」とブログに書いて、つくづく自分は口紅を欲しがっているのだ、と具体的にイメージができて、欲しい色の、買える値段の口紅を2本購入したのを、しっかりと覚えている。その2本を、1本を家の鏡台に置き、1本をバッグのポーチに入れて持ち運び、途中で減り具合に差が出来たから入れ替えて、1本を先日使い切り、もう1本ももうすぐ使い切ろうとしている。

 

家にあった、昔に買って色が似あわなくなってしまった口紅はほとんど捨ててしまった。使ってみては、その度に似合わない、とがっかりして、でももったいなくて捨てられない、というイヤな思いを、しなくなったのはとても精神的に健康だ。

 

もう一度、口紅が欲しい。ただ、欲しいような気がする、というだけじゃなくて、口紅を3本買って、1本は家の鏡台に、1本はポーチに、そして1本は会社のデスクの引き出しに入れて、減り具合に差ができたら入れ替えて、3本を同時に使い切りたい。

 

いつも同じ色の口紅で構わない。いつも、同じメイクで構わない。安定的に、同じ顔色で、同じ表情で、同じ印象で、いつもそこにいる。そんな女性になりたい。

 

誰かから変わったね、と言われなくていい。誰かへの印象を、変えようとしなくていい。自分で、変わらなければ、と思わなくていい。

 

ただ、少しずつ髪の毛が伸びて、でも少しずつ白髪も増えて、少しずつ体型がふっくらしていって、少しずつしわも増えて、いつの間にか年をとったね、でも、変わらないね、と自分で思えるような年月の積み重ね方をしていきたい。

 

去年は、体力も落ちて、自分の衰えとか、能力のなさとかで、落ち込んだ1年だった。今年は、ゆっくり。変わらず、楽しく。

 

やっと、2019年が始まった感じ、かも。気持ちの区切りって、大事。

最近していないこと

Facebookに飽きてしまって、新年が開けてからほとんど更新していない。友達の投稿もあまり見ていない。

 

以前は、仲のいい友達ばかりで、投稿すべてに心の底からいいね!していたが、最近は知り合いが増えすぎて、その人の活動内容とか、人柄とか、よくよく理解していないと文脈が分からない投稿もたくさんあって、いいね!をするためによくよくよんで理解するのもめんどくさくて、画面を閉じてしまう。

 

本当に仲のいい友達の、本当にいいね!と思う投稿がたくさん投稿されているのだとは思うけれど、ごめんなさいね。スクロールしてたどりつく前に萎えてしまうのだ。こうして私はSNSジプシーになるのだろう。

 

そして未だにリアルで私を知っている人は、誰もこのブログの存在を知らない。仲のいい友達ではてなブログを使っている友だちがいるのは知っているけれど、仲がいいというのと、何もかもを知ってもらいたいというのは違うのだ。

 

ああ、そうだ。今、自分で書いて、まさにそれだ、と思った。

 

仲よくなりたいこと、親しくなりたいこと、近い存在になりたいこと。その目的のために、相手を知ること、自分を知ってもらうこと、それってすごく有効ではある。というか、相手を知らず、自分を知らせずに、仲良く、親しく、近い存在になるなんて、無理だ。

 

だけれど、自分のことを知ってもらいたい、というのは、たぶん、自分の中に知ってもらいたい部分がたくさんある、というだけで、全てを知ってもらうなんて無理だし、絶対に知られたくない部分もあるし、逆に相手のことを知りすぎてしまってそれ以上近づきたくなくなったり、友情だったり恋慕の情だったり親愛の気持ちだったりが薄れてしまったりもすることもある。

 

「それでも友達なの?」とか、「友達だったら」とか、そういう《立場》や《レッテル》に頼って人間関係を続けるのは、私はもう意味がないと気づいてしまった。

 

私にだって友達はいるし、親しい人も、もっと親しくなりたい人も、たくさんいるけれども、でも、その人に何を知ってもらうか、その人の何を知るか、は完全に自由だし、ましてやその人が私について何を知りたいか、どのくらい知りたいか、なんて私がコントロールできるはずもない。

 

Facebookの投稿がめんどくさくなってしまったのは、私の思い描くいいね!の数や誰によるものかというのが、当たり前だけれどもいつも少し実際とずれるので、それがもう、めんどくさいのだ。たくさんのいいね!が来てもめんどくさいし、ほとんどいいね!が来なくてもめんどくさい。誰かがいいね!してくれてもめんどくさいし、誰かがいいね!してくれないことに気づいてもめんどくさいのだ。

 

いつもスターを下さる数名の方、ありがとうございます。←ねだっているわけじゃなくて、本当にこれは、スターをつけていただけることを心底ありがたいと思っているのです。なんか、とってつけたみたいですけど、正直に書いてます。

 

いまだに怒りを手放せない

世の中には、とてもかなわないと思うほど素敵で素晴らしい人が多い一方で、この人なんでこんなにクズなんだとか、どうしようもないほどくだらない、と思う人も多い。

 

後者のふるまいを目の当たりにすると、心底げんなりしてしまう。そういう人たちとは、分かりあえる気がしないし、分かりあうための努力さえも空しい、と、そういう気分になる。

 

分かりあいたい、と思う人とより多く分かりあえるのが幸せな人生だという気がするけれども、はて、では、分かりあえない人たちとは、どのような距離感をとるのが幸せだろうか。あるいは、善き人間として、どのような距離感をとるべきだろうか。

 

すべての人と分かりあう必要はなく、すべての人に友好的である必要もなく、すべての人に親切である必要もないとしたら、いったん絶望した相手との関係は自然消滅に任せるのがよい、とも考えられるけれども、それをやっていくと、私のまわりにはどんどん人が少なくなっていく気がする。

 

なるべく新しい人とたくさん知り合い、分かりあいたい人だけを周りに残していけば、つきあいたくない人とは距離を保ち、ある程度の人数の分かりあいたい人たちが周りにいてくれる、という状況になるだろうか。

 

去年の飲み会で私にイヤな思いをさせた友人について、実は今でもイヤな思いが消えていなくて、偶然、彼女の身に起こった不幸を喜んでしまうような自分がいて、そういう自分を責めている。責めている一方で、それくらいの人間らしい感情は私にも許されるべきだという気がしている。

 

怒りを出せない。考えすぎて、気を遣いすぎて、怒りをそのまま出すことができない。健全であると思う一方で、不健全でもあると思う。

 

いつかまた、彼女と接する日が来るのかもしれないし、その頃には、今の感情なんて忘れているのかもしれない。あるいは、このまま接する日は来ないのかもしれないし、私から積極的に彼女に会おうとする日が来るのかもしれない。

 

忘却とか、償いとか、赦しとか、修復とか、人間関係の再構築にはいくつか方法があると思うけれども、それって、意志の力で選択できるものなんだろうか? 気づいたら忘れていた、とか、時間が経ってやっと許せるようになった、とか、他の誰かの力添えで仲直りできた、とか、そういうのって、関係の変化は結果論なんじゃないかと思う。

 

だから、意志の力を使うことさえ空しい、とそんなことを考えている今の私に、友人との関係の再構築は難しいだろうな。仕方ない。受け入れるだけです。

 

非論理的に落ち込む

今日は特に失態も失敗もない日だったと思うのだが、過去の失態や失敗を思い出すできごとがあって、それで落ち込んでいる、今。思い出さなきゃよかったのに、思い出してしまったのだから、仕方ない。まこと、心とは不便なものよのう。

 

必要があって過去のメールを検索していたら、4年近く前に子供の発熱で仕事を欠勤したときの連絡メールが出てきて、当時の上司から「夜中でもいいからもっと早くに連絡をしなさい」と叱責されていた。もちろん、上司の言うことは分かります。でも、私としては、当日の朝になるまで子供が発熱するかどうかなんて分からなかったのだし、ギリギリまで様子を見て、出社できるならするべきだと思っていたからそうしたのであって、それで叱責されても、「おっしゃる通りですね。すみませんでした」としか言えなくて、言ったところで過去は変えられないし、娘の熱が下がるわけでもないし、おっしゃる通りですね、っておっしゃる通りだと本当に思ってたどうなのかもよく分からないし、なんだか読み返して、イヤな気持ちになってしまいました。あーあ。

 

こんなことで落ち込むなんて理不尽だし、非生産的だし、まったくもって合理的でない、と分かっているのに、落ち込むことが避けられないのだから、もう抗うのも無駄、と思って落ち込むに任せています。どうせ私はダメな人間なんです、ふん。

 

と書きながら、心のどこかでは、自分が完全にはダメな人間じゃないと思ってるからこそこんなことが書けるのだよなあ、とも思っていて、それもやっぱり事実。

 

人間、100%ダメなんてこともなければ、100%素晴らしいなんてことも、ないわけで。

 

もういっこ、落ち込んだ原因が、会社の年下のスタッフに過去の自分の失態を語ったことなのだけれど、これは、たぶん私がまだその失態から完全には立ち直れていないにもかかわらず、相手に半分冗談めかして話してしまったから、傷がほじくり返された感じ。こんな気持ちになることが分かっていたら、言わずに済んでいた話なのに。

 

とはいえ、これも言ってしまったものは取り返しがつかないわけで、落ち込んだってしょうがない、と分かっているのに、やはり落ち込む。

 

たぶん、一晩寝てしまえば元気になるのだと思います。睡眠、大事です。脳の傷が治ります。体の傷も治ります。長男が昨晩、歯が痛いと言っていましたが、今日になったら「寝たら治った」と言ってました。それは絶対ウソです。虫歯は寝ても治りません。歯医者に行け、息子よ。

 

おやすみなさい。

 

おこづかい帳アプリを使い始めた

ふと自分の貯蓄額がけっこうまずいことになってるんじゃないかと思って、先日通帳記入をしてみたら、案の定、というか気づいていないふりをしていただけで、やっぱりものすごくまずいことになっていました。

 

この2年ほど、残高が減る一方。そしてその減り方が、かなり激しい。

 

それほど金づかいが荒いわけではないと思うのですが、何も気にせず、ちょこちょこコンビニでお菓子買ったりスーパーでできあいのお惣菜ばっかり買ったりたまに贅沢とか言って3日に一回くらいちょっと高い食材買ったりしてたら、そりゃーあんた、3日に一回はたまの贅沢じゃねーんだよ、どんどんお金は減るんだよ。

 

というわけで、この1週間ほど、おこづかい帳のアプリを入れてみました。うーん、毎日、決められた金額で過ごすのって、きつい。スーパーでてきとーにカゴに入れて、えーと、これで2000円くらいかな、と思うと、2500円くらいになってる。がんばって1000円くらいで抑えるぞ、と思ってお会計すると、1100円くらいにはなってる。

 

これまで、がばがばと使いすぎていたなー、と反省。

 

お昼ご飯だって、1000円前後、とは言ってみても、毎日800円なのと毎日1200円なのとでは、ざっくり20日間で8000円も違うのだし。

 

映画を観るのも、贅沢な趣味だとは思わないけれど、いざ1日に使う金額を決めてみたら、入浴剤を買おうか、DVDを借りようかで迷って、入浴剤を選んじゃったもんね…。肩こりも冷え性もひどいから、入浴剤が必需品。となると、DVDの優先順位が下がるわけです。

 

ちなみにそのときに買った入浴剤はゆずとジンジャーの1回使い切りタイプで、いいにおいで体もぽかぽかに温まったから、満足はしているけれど、なんというか、こういう幸せと、家に帰ってYouTubeじゃなくて見たいDVDを見るのと、両立できないほどにお金がない、というのはなんともみじめなものだ。

 

健康で文化的な最低限の生活。私は今、文化的な生活ができているのだろうか? というか、もうちょっとラクに文化的な生活がしたい。図書館で借りた本を汚さないように読むのも、本をめくって自分で文章を読み進めるのも、今の私にはしんどいのだ。

 

なんて、言おうものならいろいろな人から文句がつけられそうな気もする。なんといっても毎日屋根のあるところで眠ることができているのだし。自宅のお風呂に入ることができているのだし。自分のPCでネットにつなぐことができているのだし。

 

でもなー。

 

おこづかい帳、がんばって続けてみようと思います。

 

おやすみなさい。

 

元気ですが毒を吐きます

去年の今ごろと、今年の今ごろ(っていうか、今)を比べると、去年の今ごろの私を落ち込ませていたものの状況はさらに悪化している(ぶっちゃけ会社の売り上げが致命的)なんだけど、私の心理状態としては、今のほうが格段に良い。

 

去年は、落ちていたなあ、と思う。それは、一昨年までの私や、今の私と比べたらかなりのダウン状態だった、というだけで、普通に仕事をしていたし、人とも会っていたし、何かを欠席したりキャンセルしたりということもなかったのだけど、メンタルはさんざんな状態だったし、さらにそれとリンクして、身体的にもきつかった。割れるような頭痛にしょっちゅう悩まされていたし、いつもいつもお腹が痛いような気がしていたし、「痛い」という感覚は錯覚かもしれない、と自分に言い聞かせていたけれど、今は、いくら疑ってみてもどこも痛くないので、やっぱり去年の今ごろは本当に「痛かった」んだと分かる。

 

人から見たら、「会社の売り上げが致命的」とか書いてる時点でのん気すぎるだろ、って感じかもしれないけれど、私からしてみたら「焦ってみたところでどうにもならんだろ」って話だ。去年の今ごろはそれこそ深刻にとらえていたからこそ身体的な不調まで引き起こしたけれど、どうにもこうにも改善しなかったのだし、同じように改善できないのであれば、心理的、身体的に楽に生きていられる今年の方が、私はずっと幸せだ。

 

がんばりなさいよ、とか、まじめにやりなさいよ、というアドバイスを拒否するつもりはないけれど、私が病むほどな状態じゃないとがんばってるとは認めない、みたいな人とおつきあいするのはごめんこうむりたい。私の人生経験として、大好きな相手にどんなに尽くしたところで、私は「いいかげんにやっている」と見なされて、私が効率的な方法や作業バランスの改善を提案すると「君は自分がサボりたいだけなんだよね。こっちは真剣にやってるのに、よくそんな自分が楽をできるようなことを言えるよね」と言われるのだ。人生の重要な場面において、このようなことが2回も起きたのと、昨年の飲み会で「うさぎはやることなすこと軽いんだよね。いいかげんに見えるんだよ」と言われたことで、確信した。

 

周りにどう見えようが、知らん。

 

真面目に見えようが、不真面目に見えようが、軽くさばいているように見えようが、必死にこなしているように見えようが、私は、私のありたい自分であるだけだ。仕事は誠実に対応するし、人生以外の大切な部分も、それ以上に大切にする。

 

私から大切にされないからって、拗ねるんじゃないよ、全く。私ほど、自分のことを大切にできる人なんていないんだ。私は私を、いちばん大切にしてあげてるんだ。分かったか。ふん、だ。

娘と買い物をした

娘が買いたいものがあるとのことで、付き合ってほしいと言われて、会社を少し早退させてもらって、駅で待ち合わせをした。ほとんど毎日のように顔を合わせているとは言え、外を並んで歩いたのは1年半ぶりくらいだった。家の中で近くを歩くのと、外で二人で並んで歩くのとでは、ぜんぜん感覚が違って、娘がものすごく小さく感じた。

 

それは、家の中でははかないヒールのついた靴を私がはいていたから、差が広がったというだけじゃなくて、家族という中で接しているだけだとほとんど対等になってきた少女と私という関係が、世間に出ると小学生の娘とその母親という関係になるという感覚をしみじみと、まざまざと、感じた。

 

娘は小学5年生にしては体が小さい。だから余計に、家の中では大人びたしっかりしたお姉ちゃんでも、外へ出るとまだまだほんの小さい女の子になる。

 

「〇〇(娘の名前)、小さいね」と言うと、娘は「母ちゃん、でかい」と言った。それは、幼さを演じているようでもあり、私に母親の自覚を促すようでもあり、いつもの娘らしい応答でもあった。

 

よくもまあ、私はこんな小さな娘を放り出して、夫と別れようとしているなあ、と思う。夫と別れようとしている、というのもまた誤りで、別れようと思って別れるのを思いとどまっている、だけどいずれ別れるつもりの決意は固い、のだけれど、それでも、一時的にでも、娘を放り出そうとしたことを、自分でよくもまあ、と思う。

 

よくもまあ、というのは、よくもまあ、であって、決して「恐ろしいことをしようとした」とか、「してはならないことをしようとした」という感じではない。よくもまあ、ではあるけれども、それを決してしてはならなかったとか、考えることさえ許されないことだったとは、思わない。

 

だけど、やっぱりそれは一般的とは言い難く、こんな小さい娘を残してよくもまあ、なのである。

 

小さくても全然平気だよ、とも思わないし、案外放り出してしまっても今と変わらなかったのでは、とも思わない。

 

本当にはかなく、きゃしゃで、小さな少女である娘と、彼女の母親であるというだけで二人で買い物をしている自分が、不思議だった。

 

帰りは別々のルートで帰った。バスに乗るとき、買ったものをひとつの袋にまとめてあげるよ、と言った後で、「まあ、そこまできみを子供扱いしなくてもいいんだろうけどね」と言うと、娘は「まあ、こう見えても5年生ですからね」と言った。

 

こう見えても5年生ですからね。そうは言っても5年生ってもっと母親に甘えてもいいと思うんですけどね。

 

そこまで母親に甘えられない状態にしてしまっていて、ごめんね、娘。