娘と買い物をした

娘が買いたいものがあるとのことで、付き合ってほしいと言われて、会社を少し早退させてもらって、駅で待ち合わせをした。ほとんど毎日のように顔を合わせているとは言え、外を並んで歩いたのは1年半ぶりくらいだった。家の中で近くを歩くのと、外で二人で並んで歩くのとでは、ぜんぜん感覚が違って、娘がものすごく小さく感じた。

 

それは、家の中でははかないヒールのついた靴を私がはいていたから、差が広がったというだけじゃなくて、家族という中で接しているだけだとほとんど対等になってきた少女と私という関係が、世間に出ると小学生の娘とその母親という関係になるという感覚をしみじみと、まざまざと、感じた。

 

娘は小学5年生にしては体が小さい。だから余計に、家の中では大人びたしっかりしたお姉ちゃんでも、外へ出るとまだまだほんの小さい女の子になる。

 

「〇〇(娘の名前)、小さいね」と言うと、娘は「母ちゃん、でかい」と言った。それは、幼さを演じているようでもあり、私に母親の自覚を促すようでもあり、いつもの娘らしい応答でもあった。

 

よくもまあ、私はこんな小さな娘を放り出して、夫と別れようとしているなあ、と思う。夫と別れようとしている、というのもまた誤りで、別れようと思って別れるのを思いとどまっている、だけどいずれ別れるつもりの決意は固い、のだけれど、それでも、一時的にでも、娘を放り出そうとしたことを、自分でよくもまあ、と思う。

 

よくもまあ、というのは、よくもまあ、であって、決して「恐ろしいことをしようとした」とか、「してはならないことをしようとした」という感じではない。よくもまあ、ではあるけれども、それを決してしてはならなかったとか、考えることさえ許されないことだったとは、思わない。

 

だけど、やっぱりそれは一般的とは言い難く、こんな小さい娘を残してよくもまあ、なのである。

 

小さくても全然平気だよ、とも思わないし、案外放り出してしまっても今と変わらなかったのでは、とも思わない。

 

本当にはかなく、きゃしゃで、小さな少女である娘と、彼女の母親であるというだけで二人で買い物をしている自分が、不思議だった。

 

帰りは別々のルートで帰った。バスに乗るとき、買ったものをひとつの袋にまとめてあげるよ、と言った後で、「まあ、そこまできみを子供扱いしなくてもいいんだろうけどね」と言うと、娘は「まあ、こう見えても5年生ですからね」と言った。

 

こう見えても5年生ですからね。そうは言っても5年生ってもっと母親に甘えてもいいと思うんですけどね。

 

そこまで母親に甘えられない状態にしてしまっていて、ごめんね、娘。