やりたいこととやめられないこと

また2日空いてしまった。「睡眠が大事」と書いておきながら、睡眠を削ってブログを書くのはあまりに矛盾していると思って、この3日間は、よく寝ました。この3日間だけじゃなくて、ここ2年くらい、めっちゃよく寝てます。寝るのは大事です。だらだら寝ているわけではなくて、眠れる時間の最大限を、すこーんとねむって、ほどほどにしゃきっと起きています。

 

朝の5時半にすっきり目が覚めて、さっさと布団を上げてストレッチして、ささっと語学の勉強もして、なんていうことができたらステキだと思いますが、そこまではできていません。

 

なんとか6時前に起きていたいという変なプライドで、5時55分にアラームをかけていますが、たいてい、そろそろ朝かな、と、5時20分くらいに目が覚めます。

 

しかし、アラームを止めてからも、なかなか布団から出られない。というか、体を起こすのがしんどい。体を横たえるというのは、なんであんなに楽ちんなのでしょう。

 

とはいえ、6時半には布団から出ます。いや、7時くらいになることもあるな。つまり、アラームが鳴ってから1時間はぐだぐだしているのだな、私。この1時間を、もうちょっと有効に使えないものか。

 

体を起こすのがしんどいのであれば、寝っ転がったまま、シャドウイングとかやってみたらよいのかも。シャドウイングというのは、語学の勉強方法の1つで、聞こえてきた音声を、そのまま追いかけて発音するという練習です。世界中のラジオがアプリで聞ける昨今、これをやってみるのは良い気がする。

 

いや、それやるの、私? 明日の朝から? いやー、どうかなー。

 

先日、友人と朝の8時に喫茶店で待ち合わせをして、私が「ダイエットとして朝ごはんは食べないことにしている」と言ってコーヒーだけ頼んでいたら、「うさぎさんは、いちど決めたことを本当にやりきるからえらいよねえ」って言われましたけど、ちがうんです。やり続けていることしか公言していないんです。続いていないことなんて、山ほどあります。でも、そんなこと言わないんです。わざわざ挫折したことなんて自慢しないし。

 

コンビニでパンを買ってしまうのは、本当にやめたいんです。本当にやめたいし、ダイエットのためにはやっちゃいけないことなんです。なんですけど、ときどきやってしまうんですよね…。カロリーばかり高くて栄養のないものって、どうしてあんなに食べたくなってしまうのでしょう。

 

育ちざかりの子どもならともかく、もうこれ以上、1ミリも成長しないおばちゃんだと言うのに。さっきも甘いクロワッサンを食べてしまいました。後悔しています。えーん。

さてもう寝ます

10時半だ。寝なければ。目標就寝時刻は10時だったのだ。もう、30分も過ぎている。寝なければ。

 

なぜかというと、明日の朝も早起きしたいからなのだ。今朝は、久しぶりに早起きすることができた。すると、朝にストレッチをすることができた。ストレッチしても、まだ時間が余っていた。これは、なんだかものすごく得した気分だった。

 

だから、明日の朝も、早く起きてストレッチをしたいのだ。

 

人生、やりたいことが多いのだ。

 

勉強もしたいし、Facebookもしたいし、Twitterもしたいし、ブログも書きたいし、プールに行って泳ぎたいし、車の運転がしたいし、旅行がしたいし、ストレッチもしたいのだ。

 

そして、何よりしっかり眠りたいのだ。睡眠が何より大切なのだ。食事よりも、運動よりも、睡眠。睡眠が、何より大事。しっかり眠れる人が、最後に勝つ。

 

睡眠を削ることは、命を削ること。そう思って、とにかく寝ている。寝れば寝るだけ寿命が延びるかどうかは知らないけれど。

 

まあ正直、自分が86歳で亡くなるのと、88歳で亡くなるのと、その違いはあんまり分からない。けれど、数年後に、もう死は目前ですよ、と宣告されたら、1年でも2年でも長く生きたい、と思うだろうな。

 

そのときには、あまり眠れないかもしれないな。眠るって、安心していないとできないことだからな。

 

こうしてブログを書きながらも、いい感じに眠たいです。たぶん、1000字という謎のノルマを終えたら、ぱたっと眠ってしまうと思います。本も読んでないし、勉強もしていないけど、睡眠が大事です。

 

自分のペースで眠れるというのもいいことだ。私はたぶん、だれかと一緒に暮らしたら、その人が気になって自分のペースで眠ったり起きたりのタイミングを作れない気がする。

 

そんなことないかな。どうかな。この先、そんなことが起こるかな、どうかな。

 

昔は、会社でも電車の中でも、よく眠くなってました。昼間に、眠くて眠くて仕方なかった。今は、まったくそういうことがないです。電車の中でもずっと起きているし、仕事をしていても、眠くなるような要素がない。

 

昔は無理をしていたのだなー。今は、なーんの無理もしていないのだなー。しかし、どんどん貯金が減っているので、このままだとまずいです。わかってはいるものの、何を、どう変えたらいいか分からない。

 

とりあえず、眠って考えます。下手な考え休むに似たり。睡眠不足では、いい思考はできないのです。おやすみなさい。

 

 

あっという間のできごと

今日も今日とて、無為に過ごしてしまった気がする、そんな日曜日。

 

夜の7時ごろに、何か食べてから買い物に行こうか、買い物から帰ってきてから何か食べようか、と迷い、昨日考えた「お腹すいた時間をなるべく伸ばす作戦」で、食べずに出かけたら、スーパーでおいしそうなカキの炊き込みご飯が売っていて、がまんできずに買って帰ってしまった。本当は、冷蔵庫の中のサラダチキンにチーズをかけて、焼いて食べるつもりだったのに。

 

まあ良い。サラダチキンは今週のどこかで食べよう。カキごはんは、期待を裏切らないおいしさだった。何となく、自分の食の好みからすると、意識しないでいると鉄分が足りないような気がするので、カキを食べられる機会があったらなるべく食べるようにしている。定食のメニューにカキがあったら必ず選ぶ、とかね。単にカキが好きなだけですけど。

 

8月が、あと10日で終わるなあ…。時間の経つのが早い、とはよく言うけれど、私はそれをおかしくないか?と思っている。

 

たとえば、古川くんは足が速い、と言った場合、それはクラスの中でリレー選手に選ばれた、とか、サッカー部でいちばん、とか、県大会で準優勝、とか、比較対象があるからこそ「速い」と分かるわけで。

 

時間が経つのが早い、というのは、皆さん、何と比較して言っているのでしょう? 逆に、時間が経つのが遅くなっても、気づかないのではないですか?

 

正直、世間話で「もう8月が終わっちゃう~」とか、「あっという間に年末だね~」とかいう話題はしょっちゅうですが、そのたびに私は、「もう、とか、あっという間、とか、その感覚はどこから来ているのですか?」と思う。思うだけで、言いませんよ。そんなめんどくさいこと。

 

「ほんとですよね~、あっという間に1年が過ぎちゃう~」って困った風の笑顔で言ってますよ。偽善者と言うなら言えばよい。こんなちっぽけな偽善で身の回りが平和に過ぎていくなら、いくらでも偽善するわ。限られたエネルギーは、もっと有効に使わせてもらう。

 

だって、私にとっては1年って早くないんです。このブログを書き始めてからもうすぐ1年ですけど、1年前と今と、気持ちも、環境も、体重も、白髪の数も、全然ちがいます。もちろん、ブログに書いてる内容も、全然違います。

 

ほんと、数ヶ月前の私でさえ、「ぷぷっ、何書いてんの私ってば!」という状態なんですから。「うっわー、私ってばいいこと書いてんなあ」って思うこともしばしばですけど。

 

そして、今、今日の記事の冒頭に戻ってみて、カキごはんのことを書いてたなんて、すっかり忘れてたわ。光陰矢の如し。

 

 

ちょっと始めてみた

 (この記事の執筆時、ここにusagikamoのマシュマロが埋め込まれておりました。)

 

なんだかちょっと調子に乗って、マシュマロを登録してみました。

 

ベビカムとかいう育児用のサイトに始まり、ミクシィツイッターアメブロフェイスブック、と、いろいろSNSをやってきましたが、完全に匿名で知人が誰もいないというのは、ここ、はてなが初めて。

 

そして、また、新たなサービス利用の海へ乗り出す…。

 

まあ、そこまで私に興味をもってくださる方もそうそういらっしゃらないとは思うのですが、もし、メッセージが来たら、ブログで取り上げて回答を書かせていただこうかな、なんてことを考えています。

 

とは言え、通知をオフにしているので、メッセージをもらったことにも気づかないかもしれませんが、気長にお待ちくださいましね。

 

そして、マシュマロとは全然関係ない…こともないな、マシュマロといっても、食べ物のほうのマシュマロですが、まあ、ここ2週間くらいでなんだか一気に太りつつありまして。これがよくない、と思っております。

 

先日、単純でありながらこの世の真実である一つの答えにたどり着いてしまったのですが、痩せたかったら、人生の中で「お腹すいたなあ」と思う時間を長くすればいいのですよね。

 

「お腹すいたなあ」→「でも食べると太るよなあ」→「これくらいなら食べてもいいかなあ」→「考えている間にますますお腹すいたなあ」→「これくらい食べてもいいよなあ」→「ああ、食べ過ぎた」

 

これ、NG。

 

「お腹すいたなあ」→「お腹すいたなあ」→「お腹すいたなあ」→「お腹すいたなあ」→「お腹すいたなあ」→「お腹すいたなあ」

 

この間に、太る要素は1つもない。これだ。

 

と言いつつ、今日も帰り道で、「お腹すいたなあ」→「おそば食べて帰ろうっと」になってしまったので、まるでダメなんですがね。

 

ここ数ヶ月、毎朝体重計に乗っていたのですが、それをさぼっているので、てきめんに心理的にタガが外れている感じです。わかっているなら、行動を変えればいいのに。ぐずぐずしちゃうんですよね…私。

 

よし、明日から、またダイエットしよう。目標は、マイナス2㎏。期間は設けない。マイナスにならなくても、最悪、増やさない。それだけ。それだけ。それだけ、がんばりましょうよ、私。

 

空腹を楽しむ。この感覚を思い出したいと思います。思い出したい、というか、そんな風に感じてたことがあったとも思えないのですが、錯覚だろうとなんだろうと、自分をだましてしまえばこっちのもんです。

 

マシュマロ、お待ちしています。

 

(というつもりだったんですが、追記です。マシュマロは、ツイッターとの連携が必要なんですね。usagikamo名義のツイッターを作っていないため、マシュマロ計画はものの30分ほどで中止と相成りました。ご了承ください…。)

 

 

名前とタイトルのこと

ぐわぐわ団のブログで引用していただきました。ありがとうございます。昨日、グリーンのスターを付けましたが、今日、あらためてまた嬉しかったので、普通のスターも付けました。重ねてお礼申し上げます。重ねてうれしかったのです。

 

私は「読んで損する楽しいブログ ぐわぐわ団」が大好きなので、ぐわぐわ団のことを思い浮かべながら自分のブログを書くと、ついつい文体がぐわぐわ団っぽくなってしまいます。あくまでも当社比、であって、ぐわぐわ団さまのように面白く書けるという意味ではありません。

 

言い訳がましいので、リンクを貼っておきます。

 

www.gw2.biz

 

「ぐわぐわ団」というのはブログのタイトルで、書いている人は「まけもけ」さん。でも、まけもけさんのIDはmake_usagiなんですよね。

私のIDはusagikamoですが、make_usagiさんと親戚ではありません。おそらく。現実界でお会いしたことはないので、もしかして血がつながってたりするのかもしれませんが、全くもって把握していません。

 

ちなみに私のIDはusagikamoで表記はうさぎ(かも)です。このタイミングでなぜこの名前をつけたか、というのを書かせていただこうかと思います。

 

このブログを始めたのはちょうど1年前くらいですが、そのとき私は自分のことを「さみしいと死んじゃう(かもしれない)」と思っていたのです。うさぎはさみしいと死んでしまうという都市伝説があって、私はその都市伝説がわりと好きなので、まずうさぎという名前が思い浮かびました。私はうさぎだよ、と。さみしいと死んじゃうよ、と。

 

しかし、いざ名乗る段階になって、いや、別に私はさみしくても死なないよな、と思い直しました。なので、うさぎを名乗るのは正直ではないような気がして、(かも)をつけたのです。うさぎみたいにさみしくて死んじゃうかもしれないけど、たぶん死なない、いや、死にません、みたいなそんな感じでしょうかね。

 

実際、もう既に1年、生きてますしね。

 

あと、万が一、オフ会とかで話しかけられるときに呼びやすい名前にしておきたいな、というのがありました。「うさぎさん!」っていうのは、ぎりぎり本名としてもセーフかな、とか。あと、私、卯年生まれなので。

 

さらに万が一、ブログが書籍になった暁には、「加茂うさぎ」というフルネームを使おう、と思ってました。「加茂先生! 増刷が決まりましたよ!」とかね。あはは。我ながら頭おかしいな、私。

 

「誰か私と一緒に老いてくれないか」というのは、先ほども書いたとおり、一人で生きていくのはさみしいから、誰かと一緒に老いていきたいな、と思ったのですが、まあ、これは願わなくても、人は誰でもみんな老いていきますので、ここを読んでくださっているあなたも、むかーしに読んでくださって忘れてしまったあの人も、今はまだ読者でないどこかにいる人も、みんなみんな、老いていくのです。私も老いていきます。

 

ちなみに、バスタオルのにおいは本当に、すっっっきりと、なくなりました!!! 皆さんもバスタオルを煮るといいですよ。

 

おやすみなさい。

 

バスタオルを煮ながら

www.gw2.biz

 

ものすごく久しぶりに、敬愛するぐわぐわ団さまのエントリーを埋め込んでみました。あまりに素直に影響を受けて、今、バスタオルをぐつぐつと煮ながらこの記事を書いています。あまりにタイムリーに、私もバスタオルのにおいが気になっていたところだったのです。といっても、ここ2年くらいずっと気になっていたので、それをタイムリーと言っていいのかどうか、微妙なところだと思います。

 

世間では、女性はわりと清潔な状態を好むと思われていることが多いようですが、私には、家屋を清潔に保つ、という欲求がほとんどありません。家の掃除は、1か月くらいほとんどしなくても平気です。身体の清潔は大切だと思いますが、お風呂は嫌い。

 

人から不潔な人と思われたくない、という欲求はあります。なので、基本的にお風呂は毎日入ります。家に来られたら不潔な人と思われますので、他人は家に上げません。

 

 

そして、見た目で不潔なのはまったく気になりませんが、においで不潔な感じがするのはイヤです。なので、バスタオルを煮ています。

 

バスタオルを煮るのは生まれて初めての経験なので、なかなか楽しいです。何分くらい煮込んだらよいのでしょう? 煮込んだあとで、どうしたらバスタオルとして使えるかを考えたのですが、あらためて洗濯機に入れて、他の洗濯物と一緒に洗って脱水をしてから干すのがよいと気づきました。なので、もう少ししたら、洗濯機をまわします。ちょっと夜遅いけれど、現代人は夜型の人も多いので、許してもらいましょう。我が家の洗濯機はかなり静かだから大丈夫なはず。

 

毎日バスタオルを煮るのは、それはそれで大変ですが、どういうペースで煮込んだらよいのでしょうね。あと、体をふいたりした後のバスタオルを鍋に入れるのも抵抗があるので、普通に洗濯して干したあとのバスタオルを鍋に入れると考えると、バスタオルを洗う回数がずいぶんと増えるのではないか、という気がしますね。

 

バスタオルを使うのをやめて、薄いタオルで体をふいて、毎日洗濯をすればいいのかもしれないですね。なんせ、毎日の生活のリズムがまるで成り立っていないので、日々、変則的に暮らしています。

 

毎日毎日同じリズムの暮らしだと飽きてしまうし、毎日毎日変則的なペースの暮らしだと落ち着かないのです。

 

今の、これが、ベスト、と思える生活って、なかなか手に入りません。ないものねだりなんでしょうか。難しいものです。

 

そろそろバスタオルを洗濯機に入れます。せっかくだから、もう1枚も煮てから洗濯することにします。

 

 

 

 

 

私の言葉は私の言葉ではない

人はいったい、一生で、思ったこと、考えたことの、何パーセントくらいを、言葉にできるのだろう。

 

言いたくても言えなかったこと、伝えないほうがいいと思って胸にしまったこと、思いがあふれすぎて言葉にならなかったこと、ひらめきがやってきたのに書き留められず忘れてしまったこと、気持ちを表せる語彙をもたなかったこと、どうしても告げる勇気がなかったこと。

 

これらの、言葉にならなかった思いや考えは、間違いなくそこにあったものなのに、形にならず、いつのまにか消え去ってしまう。

 

あとの時間になってみれば、記録することのできた言葉、記憶してもらうことのできた言葉だけが残って、ほかのことは、なかったことになってしまう。

 

私には、ずっとずっと、とある人に抱いている気持ちがあって、伝えるすべも、伝える言葉も、持っているのだけれど、これは、今は伝えない、と決めている。伝えることで、現実が変わる可能性はあるけれど、私は変えたくないから。気持ちがある、ということを、自分だけが知っていればそれでいい、と思っているから。

 

と同時に、伝えたい、という気持ちも本当だから、時間が過ぎるのを待っている。時間が過ぎて、過ぎて、もう、伝えてもいいよ、と自分を許せるときがきたら、伝える、かもしれない。もしかしたら、そんなときは永遠に来ないかもしれない。

 

伝えられるときは伝えられるときだし、伝えられないときは伝えられないときなのだ。

 

伝えられるときは伝えるしかなくなったときだし、伝えられないときは伝えられなくても問題ないときなのだ。

 

こうして、ブログの画面に向かっているときも、頭の中には幾千の言葉が浮かんでくる。私はそれを、取捨選択して…というよりも、次から次へとほとんどすべての言葉をかなぐり捨てて、画面に入力してもよいと思えるものだけを拾い出す。拾い出すと画面から次の文字が現れる。現れてくるのは私の頭の中ではない。

 

言葉は、表そう、伝えよう、と思ったときに、表されるべき、伝えるべき言葉が出てくるだ。それは、脳内で自動生成で出てくる言葉とは、製造場所も製造者も、違う、その場の、その場限りの言葉なのだ。

 

ふと、顔を合わせて、思わず口にしてしまった言葉は、その場が生んだ言葉であって、その人の中から出てきた言葉ではない。

 

特定の媒体に向かって書き綴られた言葉は、その画面や原稿用紙が生んだ言葉であって、その人の頭が作った言葉ではない。

 

ブログを書いているからこその私の言葉があって、ブログを書いていなければ、私はもっと、素直に、加工などしないで、頭の中の言葉だけを思い出して過去の自分の輪郭をとっていたのかもしれないな、と思う。