私の言葉は私の言葉ではない

人はいったい、一生で、思ったこと、考えたことの、何パーセントくらいを、言葉にできるのだろう。

 

言いたくても言えなかったこと、伝えないほうがいいと思って胸にしまったこと、思いがあふれすぎて言葉にならなかったこと、ひらめきがやってきたのに書き留められず忘れてしまったこと、気持ちを表せる語彙をもたなかったこと、どうしても告げる勇気がなかったこと。

 

これらの、言葉にならなかった思いや考えは、間違いなくそこにあったものなのに、形にならず、いつのまにか消え去ってしまう。

 

あとの時間になってみれば、記録することのできた言葉、記憶してもらうことのできた言葉だけが残って、ほかのことは、なかったことになってしまう。

 

私には、ずっとずっと、とある人に抱いている気持ちがあって、伝えるすべも、伝える言葉も、持っているのだけれど、これは、今は伝えない、と決めている。伝えることで、現実が変わる可能性はあるけれど、私は変えたくないから。気持ちがある、ということを、自分だけが知っていればそれでいい、と思っているから。

 

と同時に、伝えたい、という気持ちも本当だから、時間が過ぎるのを待っている。時間が過ぎて、過ぎて、もう、伝えてもいいよ、と自分を許せるときがきたら、伝える、かもしれない。もしかしたら、そんなときは永遠に来ないかもしれない。

 

伝えられるときは伝えられるときだし、伝えられないときは伝えられないときなのだ。

 

伝えられるときは伝えるしかなくなったときだし、伝えられないときは伝えられなくても問題ないときなのだ。

 

こうして、ブログの画面に向かっているときも、頭の中には幾千の言葉が浮かんでくる。私はそれを、取捨選択して…というよりも、次から次へとほとんどすべての言葉をかなぐり捨てて、画面に入力してもよいと思えるものだけを拾い出す。拾い出すと画面から次の文字が現れる。現れてくるのは私の頭の中ではない。

 

言葉は、表そう、伝えよう、と思ったときに、表されるべき、伝えるべき言葉が出てくるだ。それは、脳内で自動生成で出てくる言葉とは、製造場所も製造者も、違う、その場の、その場限りの言葉なのだ。

 

ふと、顔を合わせて、思わず口にしてしまった言葉は、その場が生んだ言葉であって、その人の中から出てきた言葉ではない。

 

特定の媒体に向かって書き綴られた言葉は、その画面や原稿用紙が生んだ言葉であって、その人の頭が作った言葉ではない。

 

ブログを書いているからこその私の言葉があって、ブログを書いていなければ、私はもっと、素直に、加工などしないで、頭の中の言葉だけを思い出して過去の自分の輪郭をとっていたのかもしれないな、と思う。