人生は主観でできている

ああ眠い。ああ眠い。今日も10時に寝るつもりだったのに、なぜか2時間もオーバーしてしまっている。なんでじゃー。これでまた明日の朝が起きられないんじゃー。しかもお風呂も入っていないし、明日の朝、予定通りに始業時刻の30分前に会社へ行くのが難しいんじゃー。

 

会社のパソコンの立ち上がるのが、もんのすごく遅くて。始業時刻の30分前には到着していないと、始業時刻に始業できないというありさま。パソコンを使わない仕事もたくさんあるはず(デスクの上はメモの山)(書架に入っている本は横積み)(書類入れのカゴはもはや何が入っているのか把握できていない)なんですが、パソコンが起動するまで、なんとなく、ぼーっと待ってしまう。

 

誰に怒られるわけでもないのですが。なんとなく、その時間を無駄だと思ってしまう、この貧乏性の私。

 

パソコンが立ち上がるまでの30分よりも、今日、早く寝ようと思ったのに寝られなかった2時間のほうが、さらに無駄かもしれないですねー。何をしていたんでしょうか、私は。2時間もあったら、けっこういろんなことができたはずなのに。

 

いろんなことっていうか、2時間あったら映画が見られますよ。去年はあんなに映画を観たのに、今年はお正月にまとめて5本くらい見たあと、いっさい見ていません。なぜかというと、DVDにお金を使うのがもったいない、と思い始めたから。あと、映画を観ても収入にはつながらない、という気がし始めたから。

 

去年、わりと気が済むまで映画を観て、満足したというのもあるかなー。

 

映画を観る年と、観ない年と、交互に過ごしていく人生も、悪くないかもしれない。

 

人生とは、自分のために生きる時期と、他のだれかのために生きる時間の間を、ふりこのように揺れていくようなものなんだ、と語っていた、会社の先輩がいました。私は、その先輩のことがけっこう好きでした。あ、ここでいう好きというのは、恋愛感情ではなくて、人間としての敬意のことをいうので、この人からLINEをブロックされるということはありえないと思います。今だに、律儀に年賀状や、転職のはがきをいただきます。そこまでお年を召した方ではないのですが、非常に昔気質の人です。

 

えーと、何の話でしたか。

 

人生の無駄な時間の話でした。私がブログを書くのは、1日10分です。だいたい、1000字を10分で書きます。ある意味、1日の中で、いちばん充実した時間です。客観的には、何より無駄な時間かもしれないけれど、私にとっては有意義な時間。

 

人生って、結局主観でできてるなって思いますね。

 

おやすみなさい。

 

興味を完全になくされてしまった

日付も変わってしまったし、めちゃ眠いんですが、気持ちの整理として、ちょっと書いておこうかな、と。

 

ふと思い立って、昔好きだった人に連絡をしてみました。そしたら、LINEをブロックされた。

 

単純に言うと、これがこの数日で私に起こったことです。うーん。この数日間、なんとなく自分の気持ちについていろいろ、いろいろ、思いをめぐらしていたけれど、やっぱり、字面にしてしまうと、ものすごく決定的だな。好きだった人からLINEをブロックされた。

 

ここで、「がーん」とか、「はあ…」とか、気持ちを表すような言葉を入れると、なんだか、急にウソが混じる気がします。事実は、LINEをブロックされたということであって、ショックを受けたとか、悲しいとか、まあでも思ったより平気とか、文字にしちゃうと、とたんにウソになる感じ。

 

そうか…私は、LINEを、ブロックされた、のだな。それを、そのまま認めればいいのだし、それを、そのまま受け止めればいいのだな。

 

なんでしょうね。悲しいですよ。でも、悲しくない。今の気持ちは、やっぱりまだ表せない。気持ちの整理のために書けるかな、と思ったけど、今はやっぱり書けないのかも。

 

ただ、LINEをブロックされたということは、受け止めました。ブロックされたんだよ、私。(しつこい。)

 

ブロックされた後の画面は、恋心の墓場だな、と思いました。疑わずに発信した数行が未読のままで放置されて、開き直って書いた文字列。どうせ読んでもらえないんだろう、と思いながら、でももしかして、このあとふっと既読になるのかもしれない、というありえない可能性を思い描きながら、「ちくしょー、なんでブロックするんだよー」と、愚痴のセリフを打ち込んでみました。相変わらず、既読マークはつきません。恋心の墓場です。ちくしょー。

 

頭ではもう、さんざん分かったつもりでした。もう、私には何の興味もないのだろうな、ということを。だけど、分かったつもりになることと、行動を起こすこととは、また別のことで。

 

最初に、「ふと思い立って」と書いたけれど、連絡したのにはそれなりのきっかけがありました。まあ、相手には何の関係もない、私が勝手にこじつけただけのきっかけだけれど。

 

はあ。しかしなー。

 

またひとつ、生きる望みを失ってしまった。いや、決してこんなことで人生に絶望したりはしないのだけれど、ここから先、何か、あるいは誰か、夢中になれることを探せる可能性が、ますます低くなった気がして。

 

なかなかに、おばちゃんが図々しく生きていくのも辛いことよのう。

 

おやすみなさい。

 

 

生きているということ

なんか変な疲れ方してるなー、って思うのは、パンを食べたくなるときです。しかも、甘い菓子パン。体がストレスを感じていて、てっとり早く血糖値を上げたくなるのでしょうね。砂糖や炭水化物、糖類は麻薬です。

 

今朝も、なーんだかだるくって、体が重くって、頭がぼーんやりして、あー、仕事したくねー、って感じでした。んで、やたらとパンを食べたくなる。

 

パンを食べるのは自分に禁止しませんでしたけど、でも、パンだけでお腹をいっぱいにすると、それはそれで、後から自己嫌悪に陥ることは分かっているので、コンビニでちゃんとタンパク質も買い求めました。っていうか、ホットショーケースに入っている焼き鳥ですけど。鶏肉、好きじゃないんですが、手ごろなタンパク質が他に見つからなかった。

 

お昼はしっかり食べて、しっかりお腹いっぱいになりました。朝は、あーもう、今日はぜんぜん仕事できないかもー、って思ってましたが、振り返ると、けっこう仕事しました。あー、疲れた。もういいかな。今日はもう、これ以上やらなくていいや。

 

あと1週間もしない間に、今年が半分終わるのですねえ。ああ、今年もなんとか半分、生き延びたって感じです。今年は粛々と生きていこうと思っているので、粛々と半年間、生き延びたって感じです。

 

しっかし、この1週間、忙しいぞ。仕事の量は大したことなさそうだけど、たぶん拘束時間が長い。あんまり家に帰れない。家に帰れないということは、家にいる時間が少ないということで、ああ、また家が荒れるな…。あと、ストレッチとかもできないだろうな。

 

まあ、いいんです。できないことを、やらなきゃ、って思って焦る気持ちも、今はないので。できないことはできないままで良い。粛々と、できることだけ、ベストを尽くしながら、生き延びるだけです。

 

ああ、そういえば、昨日、花を買いました。夏至の日に花を買おう、って決めていたので、自分のために花を買いました。紫色のカラーを1本、同じ色のカーネーションを1本、そして、たくさん花のついた白いカーネーションを1本。本当はもうちょっといろいろ組み合わせたかったけど、手持ちの現金が少なかったのと、お店の男性が、迷ってる私にイライラしてるような気がしたので、3本だけにしました。

 

本当はあと何本か買いたかったな、と思ったけど、白と紫だけの組み合わせも、なかなか潔くて気に入りました。何より、白いカーネーションの花が、完璧に美しくて可愛らしい。真っ白で、多くもなく、少なくもなく、丸みをおびた花びらが、ショートケーキに飾られた生クリームのバラの花のようで、本物の花なのに、食べ物でできたしかも違う種類の花にたとえられるのはカーネーションにとって屈辱かもしれないけれど、でも、とにかく完璧に可愛らしい、まるい花なのです。

 

自然は、美しいね。

 

体を柔らかくしたい

朝、久しぶりに早く、布団から出て、ストレッチをして、ラジオ体操をして、洗面所の掃除をした。

 

布団から早く出るのも、ストレッチをするのも、ラジオ体操をするのも、洗面所の掃除をするのも、ぜんぶ久しぶり。汚い女でスミマセン。

 

なんだか、体がものすごく硬くなってしまったような気がして。本当は、去年の目標が「手をぺたんと床につけて前屈できるようになる」だったのだけれど、完全に挫折したし、ふと気づけばもう2019年が半分終わろうとしているし、あまりに今年はなんの目標もなさすぎて、体が化石になってしまうのではないか、とそんな気がしていた。

 

何かきっかけがあったわけでも、理由があるわけでもないのだけれど、あー、体が硬い。ストレッチしたい。と思っていたので、今朝、起きてやってみました。もののみごとに、体が動きません。いちおう、ストレッチの本は持っているのですが、その通りにやってみても、「背骨が動くのを意識して」とか書いてあるところで、感じるのは背骨、びくとも動かんなー、ということだけです。「手で骨盤を押しだす感じで」なんて書いてあっても、「骨盤って押せばでるもんなんですか?」ってなもんです。がっちがち。

 

しかし、このまま何もしなければ、ますます固くなるだけなので、ほんの少しずつ、少しずつ、背骨も骨盤も、動かせるようになるといいな、と思います。ま、そのうちまた挫折するかも、ですが。

 

世の中の、積読(つんどく)を「なんとかしなくては」「積んでるだけじゃなくて読まなくては」と思っている人に対して、「その本を買ったということは、あなたがその姿勢を見せたということだから、積読は、読まなくても積むことに意味があるのだ」というありがたいお言葉があるようなのですが、まあ、同じようなことです。ストレッチを挫折することに対して、「続けなければ」「体を柔らかくしなければ」と私は思っているわけですが、「ストレッチをしてみようと思ったということは、あなたがその姿勢を見せたということだから、ストレッチは、始めたことに意味があるのだ」みたいなことを、誰か言ってくんないですかね。書いてて、「いやいやいやいや、続けなかったら意味ねーよ」って自分で突っ込みましたけどね。

 

それでもまあ、健康だからいいんです。私の父親も、おっそるべき体の硬さですが、ずっと元気でしたもんね。ついこの間、背骨を疲労骨折したみたいですけどね。病院にもいかず、ひたすら寝て直したらしいです。私も年をとったらそんな老人になります。

 

おやすみなさい。

 

ランチをめぐるごちゃごちゃ

昨日の夜、エビを食べた話を書いていたのだけれど、珍しく真ん中の娘が遅い時間に遊びにきて、中断。昨日の夜にエビのことを書いていたときの自分と、今の自分はまるで違うので、下書きしていた記事は消して、今さっき、ランチを食べたあとのタイミングであらためて書いてます。

 

昨日の夜は、最近何を食べようか迷うことが多い、って書いてました。今朝になったら、なぜ迷うのかが分かりました。食べることって、単純じゃなくて、いろいろな意味や目的があるから、そのなかのどれを優先したらいいか分からないときに、何を食べたらいいか迷うのだろうな、と思います。

 

私が食事をする理由は、栄養を摂取するため、カロリーを摂取するため、健康であるため、空腹を満たすため、などという目的の他に、義務や習慣でなんとなく、という部分も大きい。今日のランチも、朝、いつもなら食べない残りもののピザをひとかけら食べてしまったこともあり、ぜんぜんお腹なんて空いていなかったけれど、あー、この時間を逃すとお店が混むしなー、とか、お昼ごはん食べてないって思うと、仕事の集中力が切れるんだよなー、とか、そういう雑念とともに、食べておくか・・・みたいな感じでお昼を済ませました。ふと思い立って、久しぶりに行ってみたお店が、予想以上においしくて、たいへん満足したので、それは嬉しい想定外だったのですが。

 

栄養やカロリーを摂取するために食べる、とか、健康であるために食べる、というのと、美しくなるために食べる、というのは時に矛盾するので、そこでもメニュー選びで迷いが生じます。あとは、消化をするために自分の体にかかる負荷を考えると、そこでも躊躇してしまう。ごくごく単純に「天丼、おいしそう! 食べる!」と選べたらよいのですが、うーん、太るかな、とか、うーん、胃もたれするかな、とか、余計なことを考えてしまって、「おいしそう! 食べたい!」と直感的に考えている自分を否定しなければいけない感覚が、ちょっとなんというか、それでいいのか私、とも思うし、もう若くないのね私、とも思う。

 

あと、毎日いろんなものを食べたい、という欲望と、毎日バラエティに富んだものを食べたほうが健康によいのではないか、という正しさが、どちらもプラス方向なのに、ごっちゃになって迷いを生じさせる。この前も行ったばかりのお店だけどいっかー、とか、最近このお店ばっかり行ってるけどまあいっかー、というのを、簡単にあきらめられたら、もっと私はラクになる気がする。

 

ごちゃごちゃ考え過ぎだっていうことはよく分かっているのですが、だって考えちゃうんだもん。げっぷ。

虫歯ができるとめんどくさい

奥歯が痛い。ような気がする。いや、たぶん、虫歯ができてる。見ると、黒ずんでいる箇所がある。はあ。めんどくさ…。

 

熱が出るとか、頭やのどが痛くなるとか、くしゃみや咳が出るとかは、ゆっくり休んで治せばいい。膀胱炎や虫歯は、クスリをもらうためだったり、治療をしてもらうためだったり、とにかくどこかへ行かなきゃいけない、というのが本当にめんどくさい。

 

と書いていて、私は美容院の予約もとにかくめんどくさかったのだけど、こういう、予定していない場所へ行かなくてはいけない、というのが本当にめんどくさいのだな、と思った。

 

出不精か、というと、そんなことはないと思うのだけど。毎日会社に出かけるのは、全然苦痛ではない。仕事で人とアポをとって会うのも、全然大丈夫。

 

プライベートで、どこかへ行かなきゃいけないというのがめんどくさいのか、私は? お金がたくさんあったら、映画を見に行くとかだったら全然めんどくさくないのだけど。誰かを誘って、飲みに行くとかも、大丈夫。

 

でもイベントに出かけるのはめんどくさい。よそに泊まるのはめんどくさい。あー、書いてるだけでめんどくささがふつふつとわいてくる。着替えや化粧道具をもって、よそに泊まるのって、ほんっとめんどくさいよ。

 

旅行が好きだった、はずなのになあ。昔は旅行が好きだったんだな。今の私は、もう旅行は好きじゃないんだな。

 

人間、変わってよいのだから、もう、無理やり旅を好きなままでいなくてもよい、と思うことにしよう。

 

アクティブである自分が、昔は好きだった。今の自分は、あまりアクティブではない。じゃあ、アクティブじゃない今の自分が、好きではないかというと、うーん、どうだろう。

 

好きだとは言えないかもしれないが、かといって、嫌いでもないような気がする。自分を好きでいなきゃいけない、っていう、そういう強迫観念からも自由になっている、そんな気がする。

 

ラクだー。なんて私の人生、ラクなんだー。

 

これは、この年齢になったから、なんだろうか。このくらいの年齢になると、みんなそうなんだろうか。

 

だとしたら、それはそれで、ちょっとつまんないな、とも思う。みんなと一緒、とか、ごくごく普通、とか、そういうのを、私はあまり好きではないので。

 

なんか、ちょっとだけ自分は違う、って思っていたいのですよね、私。

 

虫歯の話とも個性の話とも全然関係ないけど、タイトルのところに貼ってあるエビの写真を見て、私、エビが大好きだからタイトルのところに使ったはずなのに、最近、ぜんぜんエビ食べてないなー、と思いました。そのうち食べにいこ。

 

自由すぎる。

 

おばちゃんは魔法を使えるかしら

先日、とある方から「いつも本当に落ち着いていますね」「うさぎさんみたいに達観したというか、悟ったみたいに静かに生きていきたいって思うんですけど」みたいなことを言われた。

 

えーと。

 

はい。

 

否定はしないです。私の人生、めっちゃ落ち着いてます。達観したわけでも、悟りを開いたわけでもないけれど、まあ、それなりに静かに生きています。

 

なんですが、あまりに静かすぎて…欲望が消えてしまったかのように、なんとも、気力がわいてこないです。なんか、もう、夢も見られない、みたいな。

 

44歳の悲哀? がつがつしない、とか、欲張らない、とか、地に足がついている、と言えば聞こえはよいけれど、なんというか…静かすぎて、これでいいのか、私、と、思わないではないです。

 

でもそれって、ものすごく幸せなことで。10年前の私は、その幸せに気づかずに、「私の人生、まだまだこんなもんじゃないはずだ!」みたいな感じで、いろいろ変えようと必死でした。上へ登ろうともしたし、幅を広げようともしたし、たくさんのものを手に入れなきゃと思っていたし、できることをできるだけしなければ、と思っていた。

 

でも、今の私は、現状が幸せだってわかっているから…ここから、何を目指したらいいのか、分からないです。とにかく、日々を元気に、粛々と、過ごすだけ。

 

じゃあ、何が悩みなのかというと、「落ち着いていますね」って言われたときに、なんて答えたらいいか、そこかな。「ええ、おかげさまで」って、なんかエラそうじゃないですか? 「いやいや、落ち着いてみえるだけですよ」っていうのもウソだし。「いやー、無気力なだけで、なんてことのない人生ですよ」っていうのは、半分本当で、半分謙遜。

 

なんでしょうね、「あなたもこの呪文をとなえたら落ち着いた人生が送れますよ。ルアパ ルアパ ルアパ」とか言ってみるのはどうでしょうね。

 

むかーし、むかーし、小学生のころに読んだ本の中で、魔法使いのおばあちゃんが静かに暮らしていたのだけれど、何かのきっかけで久しぶりに魔法を使ってみようと思ったのだけど、久しぶりすぎて呪文が思い出せない、みたいな物語があったんですよ。その中の呪文が何種類かあって、それが「パ」「ア」「ル」のアナグラムになっていた、と記憶しているのです。

 

パアル パアル パアル

パルア パルア パルア

アパル アパル アパル

アルパ アルパ アルパ

ルパア ルパア ルパア

ルアパ ルアパ ルアパ

 

6種類ですね。この呪文をもとに、検索したら書名が分かるかしら?

 

見つからなかった。魔法、使えなかった。