最後に人生の裏ワザを

90分ほど前までは、「さすがにこんな時間に寝るのは早すぎるよなー。ふつうに1つ、仕事かたづけよう。そのつもりで早く帰ってきたんだし」と思ってたんですよ。

 

60分ほど前には、「おっと、いかんいかん。仕事が全然進んでないぞ。いいかげん、スマホから手を離せ、自分」と思ってたんですよ。

 

30分ほど前には、「うー、仕事、めんどくさ。なんか食べよ。全然おなかすいてないけど。あー、やっぱ仕事ってストレスだわ」って思ってたんですよ。

 

15分ほど前には、「はあ…やっぱ無理だわ。いくら早い時間でも、私、家で仕事するのは、やっぱ無理だわ。家はくつろぐ場所。仕事する場所ではない。寝よう。かなり早めだけど、せっかくの機会だから、早く寝て、明日の朝、早く起きよう。」って思ってたんですよ。

 

5分ほど前には、「しっかし、これであっさり寝るなんて、一日がもったいなさすぎじゃないか? せっかくだから、ブログ記事1本書いてから寝よう」と思ってたんですよ。

 

で、今なんですが、もう、ものすごく、眠い。ブログなんて書くの、やめちゃいたいくらい、眠い。せっかく早く寝られるチャンスだったのに、なんで私はここへ来てしまったのか、と軽く後悔するくらいに眠いんですよ。なんなら今、片目ずつつぶりながら書いてます。眠い。

 

しかし、まだ500字を超えたところなのです。なんとかして、1000字を超えなくては、寝るに寝られません。早寝もできず、投稿もできず、では、あぶはち取らずです。早寝はあきらめて、とにかく投稿するのです。がんばれ、うさぎ。

 

こんなくだらないことを書いていて、みなさんにあと400字も読んでいただくのが申し訳ないです。申し訳ないと思うなら、何か役に立つことでも書けばよいと思うのですが。

 

あ、とっておきのライフハックを。

 

皆さん、キッチンマットって使ってますか? 台所の床に、小さいサイズのじゅうたんというか、バスマットみたいなのを置いたりしていませんか?

 

あれ、掃除機をかけるのに邪魔だし、洗うのにめんどくさいし、大変じゃないですか?

 

かといって、何もマットなしだと、台所の床というのはとても汚れます。

 

私は、分厚い透明のテーブルクロスを台所の床に敷いています。掃除機をかけるのも楽だし、水拭きすれば綺麗になるし、年に何回か、お風呂場で洗うこともできるし、ものすごく汚れてしまったら、買い替えることもできます。

 

これ、私にとってはものすごく生活が便利になった裏ワザなんですよねー。

 

おやすみなさい。ばたり。

嫌いだと思うこととその理由

少し前から書いてますけど、私のことを慕ってくれてると思うのだけど、どうにも私はそれがうっとおしい、みたいな知人がいる、という話。

 

私は女性で、その知人というのも女性で、具体的には私のなかで、どうもなんだか苦手だなあ、という相手が2名いるのですが、一人は少し年上で、一人は少し年下。

 

この2人になにか共通項があるわけではない。説明しようとしても、何が苦手なんだか、よく分からない。あえて言えば「私に媚びているような気がする」のだけれど、それが媚びなのか、純粋な親愛の態度なのかは、私には分からないし、私に対して同じような態度をとる知人はほかにもいる。

 

だけど、なぜその2人だけがどうにも苦手、と思うのだろうか、というのを探っていたのだけれど、最近ふと、理由なんかないんじゃないか、ということに気が付いた。

 

たとえば、中学生や高校生のとき、クラスの中でなんとなく気が合う子とつるんで、気が付けば1年間ずっと同じグループで過ごしていた、とか。社会人になって習いごとを始めてしばらくしたら、その中でも一緒に食事したり習いごとと関係なく付き合いが続く友人ができたりとか。子どもの保育園のママ友同士だって、なんとなく気が合う人もいれば、全然友達にはならずに卒園を迎える人もいる。

 

まあ、こういうのは仲がよくなる、という程度の「なんとなく」だけれど、恋愛だって「なんとなく」相手を好きになるのだし、好きだと言われたからといって「なんとなく」その気になれない人はいるし、これまで担任として当たった先生たちだって、「なんとなく」気が合う先生もいれば、「なんとなく」好きになれない先生もいた。

 

だから、私を慕ってくれるのは何らかの理由があるかもしれないし、たまたまそういう人が私の近くに来てくれた、というのは状況として事実だけれども、そういう人たちの中で、「なんとなく」どうも好きになれない人がいる、というのは、むしろ普通のことなんじゃないかなあ、と、考え始めたわけです。

 

ずっと、私は「なんであの人のことをこんな風に疎ましく思っちゃうんだろうなあ」と原因を探したり、心の狭い自分を責めたりしていたのだけれど、まあ、たぶん、理由なんてないんですよ。

 

理由がないからといって、あからさまに「お前なんか嫌いだ!」なんて態度はとりませんよ、もちろん。心の中で納得するのと、言動に表すのとは、それはもう、完全に違う、別のことです。心の中は自由です。恋愛だって、不倫だって、どんな相手だって、好きになるのは自由です。

 

心の中で理由もなく思ってしまうことを、身体をいかにコントロールしてふるまうか、というのが理性というものですからね。

 

私はある程度は理性的な人間ですが、同時に感情をおろそかにはしないというだけで。

 

嫌いな人間は、めっちゃ嫌いです。という話。

父親は謝ることのできる男性であった

文章を書くのが好きです。今日は、好きじゃないこと、嫌いなこと、苦手なこと、避けていること、そういうネガティブなことばっかり書こうと思います。

 

まず、電話が苦手です。苦手といっても、呼び出し音だけでパニックになるとか、電話をかけなきゃいけない状況になると手が震えるとか、そんなことはありません。ただ、ついつい避けてしまうし、かけずに済むならかけずに済ませたい、くらいには嫌いです。

 

こんなことを書こうと思って電話のことを書き始めたのではないのですが、本当に偶然というかなんというか、書いていたら、今日、事務所にかかってきたイヤな電話のことを思い出しました。電話が苦手なのは、イヤな相手からかかってくるからではありません。電話がかかってくるのは全然平気です。どんなにイヤな相手でも、普通に相手をすることはできます。今日のイヤな電話も、話していて20秒くらいで「なんだこいつー!」と思いましたが、6分くらい普通に話して、「またご連絡させていただきます」ということで通話を終えました。

 

私がなぜ電話が苦手かというと、相手の人生を邪魔してしまうのではないか、というのが心配なのです。電話をかけていいタイミングかどうか分からない。私と話すことでイヤな思いをしないでもらえるか分からない。私の説明で分かってもらえなかったら申し訳ない。そんな風ないろいろを考えてしまって、電話が苦手です。もとい、電話をかけるのが苦手です。

 

電話をかけるのが苦手というか、なんでこんな風に考えすぎてしまうかというと、父親が、電話がかかってくるのが大嫌いだったからです。私の父親は自営業で、事務所は別だったのですが、忙しい時期とかには自宅にも電話がかかってきていました。父親は外面がよくて、「自宅でも構いませんので、いつでもお電話してください」と取引先に伝えているにもかかわらず、実際、自宅に電話がかかってくるとものすごく不機嫌になって、電話をきった後で家族に当たり散らす、ということがたびたびありました。ああ、こんな書き方をすると、父親がろくでもない男に思われてしまう。決してそんなことはないのですが。カッとなって当たり散らした後、おろおろして家族に謝るという、かわいい男の人だったのですが。

 

えーと、何の話でしたっけ。苦手なものの話でしたね。私、電話も苦手ですが、謝らない男の人はもっと苦手です。っていうか、大嫌い。なんで男の人って、自分の非を認めないの? なんでそんな、いつまでもいばりくさってんの?

 

ああ、今日もまた、書き始めたときと全然違う方向に話が進んで、1000字となりました。おやすみなさい。今日は本当に寝ます。うふふ。

これが私の人生だ

日中、ああ、このことを書こう、おっと、あのことを書こう、といろいろ思っていたはずなのに、いざパソコンに向かうとすべて忘れる。何を書いたらよいかわからない状態で、とりあえずブログの記事を立ち上げる。

 

文章を書くのは好きなんですよー、と、先日とある人に伝えた。書けることしか書けないですけどねっ、と。

 

人から文章を書くことを依頼されるなんてことはほとんどないのだけれど、それでもこうして何かを書いていると、心が平穏でいられる気がする。人生が充足する気がする。

 

落ち着いて書いていられるということで、自分が落ち着いているということを確かめられるから、安心する。焦って書けないとき、落ち込んで書けないときは、ああ、今、自分は書けない状態なんだな、って、余計に気分が沈む。

 

人は、楽しいから笑うのではなくて、笑うから楽しくなるのだと言う。私にとって、書くことは、そんな効果がある。落ち着いているから書けるのではなくて、書くことで気持ちが落ち着けることができる。

 

なんでもないことを、書けばいいのだと思う。特別なことなんて、そうそう起こらない。起こらないけれど、これは私の人生だ。特別じゃなくても、これが私の言葉だ。

 

久しぶりに、ワインを飲んでいる。ワインを飲みながら、本を読めたらいいな、と思うのだけれど、最近の私は、本を読むのが楽しくない。無理やりに読む必要もないと思って、今は読まないでいる。読むよりも、書くほうが楽しい。ワインを飲みながら、ブログを書く。誰に迷惑をかけるわけでもない。お金がかかるわけでもない。誰を喜ばせるわけでもない。お金がもうかるわけでもない。ただただ、自分の幸せのために、ワインを飲んで、ブログを書く。

 

なにか、一つくらい今日あったことを書こうか。

 

今、クーラーをつけた。さっきお風呂に入ったら、暑くて汗が噴き出すので。

 

今日は、久しぶりに早く帰ってきたのだけれど、早く帰ってきたからといって、何かするわけでもなく、最近はもう暑くなってきたから、夜にお風呂に入らずに朝のシャワーで済ませていたけれど、久しぶりにゆっくりお風呂でも入るか、と思って入ってきたら、暑い。汗がひかない。

 

というわけで、クーラーのスイッチを入れましたが、私の部屋のクーラーは、なぜだか冷風が出るまでにものすごく時間がかかるのです。今、ががががががが、と小さな音を立てて、冷房の準備をしている気配はしていますが、まだまだ冷風が出てくるには時間がかかるものと思われます。

 

あああ、もう。1000字書いちゃったじゃないよー。クーラーのスイッチ入れて、冷風が出るまでに汗かきながらブログ書いてるって、これが私の人生かと思うと、うーん、まあ、いいんじゃないかな?

とにかく仕事はしている

えええええん、今日こそは、今日こそは、夏に向けて洋服を買いにいきたかったのに、なーんで、日付が変わる2時間前になっても、まだ会社にいるのだああああ。

 

もう、着る服がないよ。困った。

 

5,6年前に買った服が、さすがに似合わなくなってきて、もう今年こそは服を買おう、と決めているのに。うーむ。今週も、来週も、また、この年齢に似合わない服を着つづけなければいけないのか…憂鬱だ。

 

仕方がない。今年は仕事をする、と決めたのだ。仕事だけが私の人生じゃない、と思って、好き勝手やってきた一昨年とか、去年とか、あんまり気分が上がらなかったのだ。もちろん仕事だけが私の人生ではないけれど、それでもやっぱり、最優先に仕事をして、仕事、やりきった!と思える状態じゃないと、人生そのものが楽しくないというか、私自信が私を認めてあげられない感覚があるのだ。

 

だから、今年は仕事をする。仕事、楽しい。イヤでやってる仕事じゃないし。この人と一緒に仕事したい、と思う人に、応えてもらっている感覚があるし。

 

もちろん、まだまだ勉強不足だし、力不足だし、ふがいないことこの上ないのだけれど。それでもまあ、自分でやれるだけのことはやろう、と思っている、今日このごろ。

 

しっかし、明日から着る洋服がないよ。困ったな。

 

こんなこと書いてないで、さっさと帰るなり、仕事を片付けるなり、すればいいと分かってはいるのだけれど。おっと、そういえばやり残した仕事がある。えー、どうしよ。やるか…。せめて、それだけはやって帰るか…。

 

仕事のできる、できないって、何で決まるのかな、というのが、5年前くらいの悩みでした。自分が、「仕事のできない人間」なんじゃないか、っていうのが、ずっと、ずっと不安でした。仕事の成果が目に見えて数字として表れる業種ではなかったため、自分が会社の売り上げに貢献しているのかどうか、チームの成績に影響を与えているのかどうか、社会に役立っているのかどうか、いつも不安でした。いろんな会社の友達に、「仕事ができるってどういうこと?」「どういう人が仕事のできる人材なの?」と聞いて回っていた。

 

今、自分で仕事のできる人間かどうかって問われたら、うーん、どうかな。やっぱりその不安はなくならないけれど、それでも自分のやりたいことをやりたいようにできている、っていう意味では、仕事ができている感覚は、ある。

 

あとは、売上なんだよなー。数字、数字、数字。数字が全てではない、けれども、数字はおそろかにできない。

 

はい、文字数が1000という数字を超えました。あとひとつだけ仕事を片付けて帰ります。

また1年分の特権を手に入れた

なんだかとても忙しい1週間でした。毎日、家に帰る時間が遅くなって、寝不足が続いて、それでも仕事が終わらなくて。

 

焦りよりも、寝たい気持ちが強いです。しっかり休まないと、きげんが悪くなったり、イライラして余計なものを食べてしまったりするのがイヤです。あと、仕事のクオリティが下がるのも避けたいです。

 

忙しい=仕事がある、というのはありがたいことなのですが、なかなかこのバランスが難しい。せめて、がーっと仕事して、あー、帰るのが遅くなってしまったなー、という次の日には、早めにかえって、ゆっくりできる日がほしい。今週は、それが1日もなかった。

 

ま、贅沢な話、なのかもしれませんが。

 

少し前に、誕生日が過ぎまして、44歳になりました。母親から「もうアラフォーと言うにはおこがましいね」とかメールが来て、うるさいわー(笑)、と思いました。私、年を取ることは怖くないし。

 

年上の女性で、誕生日をお祝いすると「めでたくないですよ」とか、「言わないでください、誕生日が来るのイヤなんです」って言う人がいるのだけれど、私はこれがあんまり好きじゃない。年を取るのを否定するのって、なんだか女性は若い方が価値がある、という評価を肯定するみたいで、イヤだ。

 

私だって、若い女の子を見て、かわいいなあ、と思うし、ああ、もう私はあの若さを失ってしまったのだなあ、ということは分かる。そして、若い女性しかもてないものを求めている人に対して、私がそれを与えることができない、というのも分かる。

 

だけど、若さだって、美しさだって、もっと言えば、強さだって、賢さだって、さらに言えば、才能だって、お金だって、ないものを欲しがるって、不毛なことだ。

 

私には、あるものはあるし、ないものはない。あるものを大切にして、ないものは欲しいなら努力するけど、手に入らないと分かっていて、他人がもっているものを恨んだりねたんだり、ただ単純にうらやましがったりしても、自分は幸せにならない。

 

44歳になって、これから何が手に入るのかは分からない。自分で手に入れたいものが手に入るのか、それともどんどん無欲になっていくのかは分からない。

 

要らないものばかりが増えていく、というイメージはない。要らないものは要らない、と拒否したり、避けたりすればいいだけの話だと思っているから。

 

何度も書いてるけど、欲しいものを欲しいと言って、要らないものを要らないと言えるのは、おばちゃんの特権だ。これこそが、今の私が手に入れているものなのだから、この特権を使って44歳も生きていくよー。

 

やりたかったことができた割合

うひょひょー、あっついですねえ。東京はこの週末、すごい暑さです。そして、しばらく投稿していませんでしたが、元気に生きてます。なんだか今日も、夜は書けなくなる気がするので、まだ日の高いうちから書いてます。

 

気温が上がったせいか、私の気分が急に上がってきました。ここ数日、自分でもちょっと不思議なくらい、生きたい気持ちがよみがえってきました。少し前まで、なんだか何も手につかず、ふわふわ、そわそわしていたのですが、なんでこんなに落ち着かないんだろう、と思って、自分のやりたいことを紙に書き出してみたのです。

 

書き出したら、20個くらい、やりたいことがありました。「台湾行きたい」とか「花を愛でたい」とか、「フライパン買いたい」とか。

 

がーっと書き出した後で、じゃあその欲求を満たすために、次に自分が何をするか、を書いてみました。前だったら、「花を愛でたい」って思ったその日に花を買って帰って、それが続いてしまって経済的に苦しくなる、みたいなことがよくありました。

 

なので、いったん欲求を言葉に置き換えて、自分で解釈できるようにしたのです。

 

今回、花を買うのは3ヶ月に1回くらいでいいな、と思いました。3ヶ月に1回かー、お、それってちょうど夏至とか春分とかのタイミングにしたらいいんじゃん? と思いつき、具体的な今後の行動としては、次の夏至の日に、自分に花を買うことにしました。

 

あと、フライパンはまだもうちょっと我慢、とか、台湾はひとりで行くのもつまらないから、まずは誰かを誘うところからだな、とか。

 

その中で、「アイブロウが欲しい」というのがあって、これは、前にものすごい節約モードのときに買っためちゃめちゃ安いアイブロウが、ものすごく濃く眉が書けてしまうので、毎朝ちょっとしたストレスだったのでした。もう、このストレスいやだ、と思って、アイブロウを買おう、と決心したのですが、ちょっとだけ我慢して6月になったら買おう、と思っていたのに、もう買ってしまいました。

 

なんだか衝動が抑えられなかった。

 

でも、自分ではこの衝動を、良いことなんではないかと思っています。昨年末とか、ほんとに、もう何もしたいことが思いつかなくて、生きていくのがつらい、とさえ思っていたので。

 

やりたいことがあるのはいいことだ。やりたいことができるのもいいことだ。やりたいことと、できることを重ねていって、人生において、やりたかったことができた、という経験の割合が増えていくなら、それはそれで素晴らしいことだ。

 

ふう。書きたかったブログも書けて、満足です。