スリッパほどの重要性

大人になると恋なんてしなくなるかと思ったらそれは大きな間違いで、かといって大人になっても思春期と同じように恋をするかといったらそれも大きな間違いで、なんというか、ひとことで言うと、大人になると自分の人生を構成する要素がものすごく複雑になる。

 

私はわりと(っていうかかなり)恋をしやすい体質で、小学生のころからませてたというか、いつも好きな男の子がいたし、中学生のときにも大好きな男の子がいたし、高校時代も、大学時代も、まあ、わりと恋愛というのは自分の人生の大きなパートを占めていました。

 

なんて、冷静に書いてるような状態を突き抜けて、思春期特有の「あなたが全て」みたいな恋に、わりとしょっちゅうずぶずぶ浸かっていた。その頃は、「あなたが全て」っていうのは真実で、他のことなんかマジなんも要らん、それしか考えられん、っていうのが私にとってのふつーでございました。

 

はあ、書いてて恥ずかしいが、それよりもっと恥ずかしいのは、「大人」と言われる年齢になってからも、まわりと比べてずっと恋愛脳だったことですかねー。それこそ、5年くらい前まで、ずぶずぶと恋愛しておりました。

 

ここへきて、やっと、やっと、自分の中に恋愛の部分があって、それ以外の部分から自分の恋愛を見つめる、ということができるようになってきた気がします。数年前までは、自分というものが恋愛に食われてしまって、恋愛の中からしか自分を見ることができていなかったというか。

 

先日の投稿で、今、また好きな人ができてしまったみたいなことを書きましたが、それはそれで事実として自分の中にありますが、自分の人生の重要性のパーセンテージでいうと、どうでしょう、5%くらいでしょうか。

 

ゼロではない。ゼロではないが、1日24時間のうち、ほとんど忘れている。というか、思い出しても日常生活になんの支障もない。たとえていえば、家の中で履いてるスリッパみたいなもんでしょうか。自分の家にスリッパがあることを忘れることはない。しかし、スリッパがあることで悲しくなったり、嬉しくなったり、それについて思い煩ったりはしない。ただ、はきたいと思ったタイミングで見つからないと探すので、そのときにはちょっとスリッパの大切さを感じるけれども、だからといって、しばらく見つからなくても泣いたりしない。あれー、どこやったっけな。まあいっか、後でまた探そう、と、しばらく素足でいるくらいのもんです。

 

だけど、スリッパのある生活とない生活だったら、私はスリッパのある生活のほうが快適なんだよなー。スリッパのために何かを犠牲にしようとは思わないけど、私はスリッパをはきたい。そして、スリッパなんてはきたくない、とか、スリッパのどこがいいのか分からない、という人のこともおかしいとは思わない。

 

うーんと。

 

恋愛をスリッパのように考えられるおばちゃんは、若者からしたらうらやましくもないだろうけど、それはそれで、私は楽しく暮らしています。