また腹の立った話
基本的に私は温厚な性格で、めったに声を荒げたり、人に感情をぶつけたりすることはない人間だと思っているのだけれど、なんでこうも、腹の立つことが続くのか。
腹の立つことが続いてはいるけれども、それを吐露するのはここ、匿名のブログだけなので、「めったに声を荒げたりしない」「人に感情をぶつけたりしない」というのは、リアルの私を知っている人にとっては事実なんですよね。
つまり、このブログを読んでくださっている人は、どこにも存在しないはずの私という人間を知ってくださっているということで。
なんだか儚い話だ。私が、もしかしたらどこにもいないかもしれないなんて。
なんて、ポエティックなことを言ってる場合じゃなくて、昨日、とある男性から、電話越しに切々と失礼なことを言われまして。
かなりご年配だとはいえ、それなりに社会的立場も、教養もおありの方ですので、「あーあ、この人は…こうして私に対して失礼なことを言っているという意識は、かけらもないのだろうし、私が《その言い方は失礼ですよ》と言ってみたところで、みじんも伝わらないのだろうなあ…」と思い、「うーん、そうですかー。そうなんですねー」と、ひたすら私に投げかけられる失礼な言葉の数々を浴びていました。
はあ。あのなー。
ボランティア(無償)で仕事を投げかけておいて、しかもその時のメールの文面で「できる範囲で構いませんので、もしお仕事の都合で難しいようでしたら、その都度おっしゃってください」って言ってきたから、80%くらいの仕事をして返したら、その後で、「どれくらいやってくれるのかと思って、いわば小手試しのつもりでいたら、半分もやってもらえなかったのでね。これでは合格とは言えないと思って、有償は無理だから、次も無償で引き受けてもらいたいと思ってたんですよ」って。
意味、分かりますか、これ???
分からない方、ありがとうございます。あなたの共感を糧に、私はこれからも生きていきます。
上記のセリフを吐いた方は、私に対して何が失礼なのか、どう伝えても分からないと思いますよ。伝わらないことを、伝えようとする努力こそが、空しいというものです。そんなことに人生の貴重な時間を使うのは、あまりにバカらしすぎます。
話の通じない人からは逃げるに限る。うん。逃げるぞ。バーカ、バーカ。
なんだかパソコン画面に怒りをぶつけていたら、体温が戻ってきた感じがします。私は、やっぱり生きている生身の人間です。画面のこちら側にいるのは、それなりに人間らしく生きているおばちゃんなのですよ。
とにかく面白くなかった
先日感じていた怒りについて、その理由が分かりました。
私は、面白くなかったのだ。
とある人と会って、食事して、話して、別れたという、それだけのことなんですが、なんだかやたらに腹が立って、何がそんなにいちいち私の気に障ったのだろう、と自分でもよく分かっていなかったのですが、とにかく全体として、面白くなかったから、腹が立っていたのでした。
言葉にしてしまえば、単純なことです。楽しいかと思っていたけど、楽しくなかった。楽しくないんじゃないかと思っていたら、やっぱり楽しくなかった。前提は、どちらでもいいです。いずれにしても、楽しくなかった。
あー、楽しくなかった。面白くなかった。
たとえば、もっともっと腹が立ってぶち切れて、相手にわめき散らしたり、泣き出したりして、そんな風に自分で感情の動きを感じることができていたら、それはそれで、不快な一日にはなっていたかもしれないけれど、面白くなかった、という感想にはならなかったでしょう。
良くも悪くも、感情さえ動かなかった、それくらいに、面白くなかったのです。
ひとつひとつが気に障ることもありました。詳しくは書きませんが、しかし、それらのひとつひとつよりも、全体として、面白くなかったことが腹立たしい。
これは決して腹立たしいから面白くなかった、ということではないんだな、今回の場合。気に障ることについて、あれ?と思う瞬間はあったけれど、そのときも、うーん、と思う程度のことで、その場で頭にかっと血が上った、ということではない。
基本的に私はもう、一人でいることで十分楽しいわけです。私が1人でいること以上に、誰かが私を楽しませてくれるのって、けっこう難しいことになってるわけです。そうなると、誰かと会うこと、誰かと一緒に時間を過ごすこと、誰かのために時間を使うこと、それらがもう、圧倒的につまらない時間になってしまう。
それはそれで、ものすごく不幸な気もしますが、仕方ないじゃん。面白くないんだから。
「誰か私と一緒に老いてくれないか」って、ブログのタイトルつけたころは、こんな気持ちになるなんて、思ってもみなかったなー。すべてを一人で請け負わきゃいけない人生は、なんて孤独なんだろう、と思っていたけれど。
孤独でいることと、面白くないことを比べたら、孤独でいることを選んでしまうようになった。少なくとも今の私は。
今の私は、面白くない相手でも一緒にいてほしい、とは、ま、っ、た、く、も、っ、て、思わない。ぜんっっぜん。
はあ。それでも、いつか誰かが私を楽しませてくれるのでは、という希望は捨ててないんですけどね。
怒りの解釈
まあ、なんとなくいろいろ書きたいような、しかしどう書いたらいいのか分からないような、まあ、いつもの感じです。自分の身に起こったことって、すぐには書けないのですよ。時間は、力。時間が経つことで、自分が経験したことを解釈できるようになり、解釈を言葉にできるようになる。今はまだ、経験したばかりで、解釈ができていない状態です。
解釈ができていない状態で何を受け止めているかというと、怒りです。今の私の中には、怒りが渦巻いています。
あ、今ひとつ、わかりました。受け止めているものが喜びだったり幸せだったり楽しさだったりしたら、私はすぐにそれを言葉にできるのだと思う。
だけど、怒りをそのまま言葉にすると、誰かを悲しませたり、傷つけたりするかもしれないから、それをためらってしまう。誰も傷つけないとしても、怒りを感情のままに表現するのは、よくないことだという意識が、私の中に強くある。
考えてみれば、私の身に起こった何か、その何かが起こった時点でも、私は怒りを感じていました。が、それを表現することはしなかった。目の前にいる相手に対して、怒りをぶつけたり、嫌みにしてチラ見せしてみせたり、そんなことも、しなかった。相手にはもちろん、何も伝わらなったと思う。
そうだ。私は怒っていたのだ。そして、今も怒っているのだ。
その怒りの表現方法が、分からないのだ。かろうじて適切かと思っているのが、時間をおいて、解釈に変えることなのだ。
時間をおいても、その怒りが変わらなかったら、きっと私は、自分に怒りの感情を許すと思う。時間をおいて、その怒りが悲しみに変わったら、ああ、私は悲しかったんだな、と解釈すると思う。時間がたって、怒りを笑い飛ばせるようになったら、まああれはあれで面白い経験だった、と振り返ることができるのだと思う。
今は、まだ怒りを出すことを自分に許せない状態。相手に悪気がなかっただけに、余計。
はあ。
腹が立つというか、情けないというか。口汚く、すべてを暴露してののしることができたら、それはそれですっきりするのかもしれないですけどねえ…。
すべてのことにはタイミングというものがあって、タイミングというものは物事の60%くらいを決定しているのではないか、というのが私の考え。25歳のときに出会う人と、45歳のときに出会う人では、出会うことの意味が全然違うのよね。って、20年はちょっと長すぎかもしれないけど。43歳のときに経験することと、44歳のときに経験することだって、大きく違うわけで。
ま、そのうちなにか書くかもしれないし、書かないかもしれない。
おやすみなさい。さすがにまだ寝ません。
ソーリー・アンド・ヘルプ・ミー
ごめんね。と、ふと誰にともなく謝りたくなった。がっかりさせているかもしれないことに対して。これからがっかりさせるかもしれないことに対して。傷つけてしまっているかもしれないことに対して。これから不意に傷つけてしまうかもしれないことに対して。
生きていくのは難しい。人を傷つけずに生きていくのも、自分が傷つかずに生きていくのも難しい。
最近、泣いてないなあ、と思う。たぶん。覚えていないだけで、泣いてました? 私?
2年くらい前は、毎日、毎日、泣いていたのに。ふとしたことでものすごく感情が動いて、その感情を味わうことが、毎日奇跡のようで、すぐに涙が出ていたのに。
特段、、面白いこともなければ、めちゃめちゃに悲しいこともない。腹が立つことはたくさんあるけれど、怒りをため込むことは自分にとって損だと思っているから、なるべく、はいはい、とやり過ごすようにしている。
つまんないなあ。人生が、つまらないよ。なんでだよ。
今日、久しぶりに銀行口座の残高を見て、ちょっと、現実的に、いっそう感情が冷え込んだ感じがある。
これ…このままだと、もう、私は自分の好きなことを人生でできなくなるんじゃないのか?
自分の食べたいものを食べるとか。自分の着たい服を着るとか。自分の会いたい人に会うとか。自分の出かけたい場所に出かけるとか。
そういう全部が、できなくなるんじゃないのか、と。
と、書きながら、じゃあ食べたいものってなんだ、着たい服ってどんなだ、会いたい人って誰だ、出かけたい場所ってどこだ、と考えると、それもない。
ああ、これって…まさに悪循環では?
したいことのために頑張って働くこともできなければ、頑張って働いたところで全くもってやりたいことをするためのお金はたまらない。
悪循環というか、無限ループ? 負の連鎖? ひょええええ、書いてみると、恐ろしいな。
なんだよ。私はどうすりゃいいんだ?
冒頭、ごめんね、と謝ったのは、自分自身に対して、かもな。つらい人生で、ごめんね。生きる活力が途絶えがちで、ごめんね。お金を稼ぐ知恵を授けられなくて、ごめんね。
自分で自分に謝ることは簡単だ。自分で自分を許すことも簡単だ。
絶望するのは、許したからといって、状況がよくなるわけではない、ということだ。
なんだかなー。
そのうち時間が過ぎて、状況が変わるだろう、と思っていたのだけれど、どうやらこのままずっと変わらない、という可能性も出てきた、気がする。
当たり前か。天は自ら助くる者を助く。まずは自分を助けなきゃなんだよな。
うおおおお、ヘルプ!
私はどういう人間か
昨日はなんだかあんまりよくない精神状態、って感じだったのだけど、今朝になったら元気になっていて、がーっと会社来て、がーっと仕事して、なんだか燃え尽きて、これからどうしよう。今、7時過ぎです。まだ家に帰ることはできないので、何か仕事をしようと思えばできるのだけど、もうしたくないような気もするし、だけど、まだまだやるべきことはたくさんあるし、うーん、どうしようかな。
机の左側にはファイルが、右側にはメモ用紙が、積まれております。この積まれた山を、いちどリセットしたい。すべてデスクの上がきれいになるまで、仕事を全部片づけてしまいたい。しかし、リセットできたところで休めるか、というと、決してそんなことはなくて、次から次へと仕事は続く、というのもまた事実なんですが。
私はたぶん、タスクごとに仕事を区切るのがすごく苦手で、時間で区切ったり、場所で区切ったり、そういうことでしか、仕事を管理できない人間なんだと思います。時間で区切るのは、今日はもうここまで、と決めたらその先は仕事しないとか、寝不足には絶対にならないようにしか仕事しないとか。場所で区切るのは、持ち帰り仕事をしないということかな、基本的には。これ、休みの日に家でやろう…と思っても、絶対やらない。それだったら、腹くくって、会社に来ちゃったほうが、仕事が進む。
あと、基本的に気を遣う誰かが近くにいると、仕事ができません。私、やりたいように人生の舵を切ってるように見られていると思いますが、決して自分ではマイペースだと思っていなくて、たとえば仕事に不慣れなバイトさんが事務所にいたりすると、その人に仕事をあてがっておいて自分は別のことする、とかいうのができない。だって、バイトさんが、困ったことがあったときに私に何か聞きたいな、と思っても、忙しそうにしてたら聞きづらいだろうな、とか思うから。あと、他の誰かに話しかけられると、「後にしてください」とか、「そろそろその話は打ち切りましょう」とか、そういうことができない。相手の、話したいタイミングとか、話したいボリュームとかを、優先してしまう。
それで、ストレスになるなら面倒だけれど、私の場合はそういう風に仕事するのが私なんだ、と、もうわかっているからストレスはない。やりたいようにやっているし、やりたいようにやれているのが私なのであって、マイペースじゃないような部分も含めて自分のペースを作ることができているのが私なのである。
はー、こういう超ポジティブなことを書けるって、昨日と今日で、私の何が違うんでしょうね。きっと理由なんてないんでしょうね。その瞬間、瞬間の、私があるだけなんでしょうね。
あんまり良くない状態
なんだか忙しかったのと、なんだか落ち込んでいたのとで、記事が書けなかった。うわー、そういえば、とある男子から食事いきませんか、って誘われてたんだった。それも忘れるくらい、余裕がないわ、このころの私。
いや、違うんだよな…たぶん、ホントは。誘ってくれた男子のこと、嫌いではないけれど、わざわざ二人で食事して、話題に気を使ったり、割り勘で余計な出費したり、その後に誘われない程度に距離を保ったり、そういうのがめんどくさいくらいには、嬉しくない相手で、だから余計に、落ち込んでいたのだった。こういうの、すぱっと断ってしまえばいいのだけれど、なんだか断るもの、自意識過剰な感じがするし、それなりに理由がいるし、めんどくさ…。
カッコいい男性と付き合いたい、とか、勝手なことを書いていて、本当にやな女ですね、私。
あの後、というか、いっこ前のヒゲの話の後、考えて、わかりましたよ。女性にとってヒゲにあたるものって、ロングヘア―なんじゃないかと。髪の毛も、ヒゲと同じく放っておけば伸びるけれど、手入れしないで長くなっている髪と、毛先までしっかりケアして計算されたロングヘアは、全然違うものだな、と気づきまして。
つまり、手入れされたヒゲが、ナチュラルとアート、自意識と客観性のバランスの良さを表してカッコよく見えるように、手入れされたロングヘア―は、女性の動物的なところとお洒落なところ、自己認識と他者への気遣いと、そういうものを総合的に表しているからかわいく見える、とそういうことなんではないか、と。
まー、今、ちょうど髪の毛を伸ばしてるところなんですけどね。そろそろ白髪も交じってきましたしね。つやつやのロングヘアをこの年で保つって、けっこう難しいことではあるわけですよ。髪の毛の重さで、根本がへたってぺしゃんこになりますしね。
今日は1日、Tシャツに短パンで、もちろんメイクもせず、朝シャワー浴びたあとの生乾きの髪の毛を一つにぼさっとしばってそのまま、なんちゅーか、まー、めちゃめちゃだらしのない格好で過ごしましたよ。雨ふってるし、家から一歩も出ず。
格好だけじゃなくて、だらだらして過ごしましたねー。かろうじて掃除機かけたけど。あ、洗濯もしたけど。しかし、たぶん合計4時間くらい、スマホをいじってごろごろしてたなー。
日曜日に4時間くらいごろごろしてるって、別にそれほど責められるべきことでもないとは思うんですけどね。けっこう私、自分に厳しいので。だらだらしたなー、って自己嫌悪しちゃうんですよね。
なんか、よくない。この精神状態。早く浮上したいわー。
おやすみなさい。
女の人でひげに相当するもの
きっと、もうこの先叶うことはないだろうな、と半分あきらめているけれど、それでもやっぱり希望として持ち続けている夢の1つに、「カッコいい男の人と付き合いたい」というのがあります。「うさぎの彼氏、カッコいいよねえ」と言われてみたい。っていうか、これを書いてる時点で、四十路すぎてる私が、四十路すぎてる友達たちから、「彼氏、カッコいいよねえ」とか言われるシチュエーションが、もうありえないから、たぶん叶わない夢だってわかってるんですが、いいんですよ。夢は夢ですから。
まあ、そんなわけでそんな夢を持っているものですから、どういう男の人がカッコいいか、ということはわりと常日頃から考えているわけです。っていうかね、私がパッと見て「あ、カッコいいな」って思う人と、そういう人と付き合いたい、と、そういうことなんですが。
で、私がどういう人を「あ、カッコいいな」って思うかというと、ひげが生えててメガネかけてる人なんですよ。んでもって、たぶん年齢は30代後半。自分より下手したら10歳くらい年下ですが、たぶん私、同年代の男性を見ても、「あ、カッコいいな」って思えないんじゃないかと思います。ぎょえー。そんなの、向こうからしたって、私のことを「あ、かわいいな」ってずえっっったいに思ってもらえないでしょうけどね。
ああ、なんだか卑屈になってきました。書きたかったのは、そんなことじゃないんです。
私がカッコいいと思う人って、ひげが生えててメガネかけてる人なんですよ。というか、ひげをはやしてメガネかけたら、たいていの男の人ってカッコよくなりませんか? これは、どっちが鶏でどっちが卵なんでしょうか。カッコいい男の人がみんなひげを生やしてメガネかけてるのか、それともひげを生やしてメガネかけてる男の人がみんなかっこよく見えるのか。
すみません、書きたかったのはこんなことでもないんです。
男の人の、ひげに当たる物って、女の人の、何?
これが私にしか当てはまらない法則だとしても、ひげを生やした男の人がかっこよく見えるとしたら、女の人がかわいく見えるためには、何をしたらいいの? 化粧? 化粧がひげなの? え、そうなの?
ひげって放っておいたら生えるものじゃないですか。ナチュラルでワイルドなものじゃないですか。
女の人がナチュラルでワイルドな方向に向かってかわいくなるものが知りたいんです。
え、もしかして天然ボケ? ナチュラルにワイルドに世間知らずだったりするのがかわいいわけ? 見た目の話じゃなくて???
うーむ。
女の人のひげに当たるものってなんだろう、というのが、ここ数か月の疑問なんです。
おやすみなさい。まだ寝ないけど。