本質ではなく多面がある

先日、営業というかなんというか、かつておつきあいをしてくださっていた大手企業のところへ、本当に久しぶりで恐縮ですがご挨拶を…という感じで訪問したら、こてんぱんというかけちょんけちょんというか、とにかく箸にも棒にもかからないという感じの対応をされ、心の底から「貴重なお時間を無駄に使わせてしまって申し訳ありませんでした」と言って退散してきた。

 

にこりともせずにビジネスの上でのぎりぎりご意見、すれすれダメ出し、みたいなお言葉を浴びせかけてくださり、こ、怖い…とも思ったし、きついわー、とも思ったし、これはかなり凹むなあ、とも思ったけど、その後、凹むか?凹むか?凹んでるか?、と自分の心を観察してみても、意外と傷ついたり凹んだりということが、ない。

 

上でも書いているように、ぎりぎりご意見、すれすれダメ出し、をされただけで、にこりともされなかったのは事実だけれど、別にその人からしたら私はにこにこする必要もない相手だし、ただただご意見をくださった、と受け取ることもできるのだ。罵倒されたとか、バカにした発言をされた、とかでもないしね。

 

そういう態度を目の当たりにして、「めっちゃ見下された!」と受け取ることもできれば、「こうなることは分かっていたのに会っていただけてよかった」と受け取ることもできる。事実はひとつの解釈に過ぎない。

 

そしてもしかして彼が、私を貶めようとか、傷つけようとか、威圧的に接してやろうとか、そういう意図をもって話していたのだとしたら、わざわざ相手の思うつぼにはまることはない。相手を貶めようとして話す相手なんて、こちらから願い下げですからね。つまり、その場合は私は傷つく必要は、ない。

 

翻って、彼に私を傷つけるつもりなどみじんもなかったとしたら。これまたやっぱり、私は傷つく必要はないわけで。勝手に傷ついた、傷ついた、って自分をかばったところで、一人芝居みたいな感じじゃないですか。

 

だから、どっちにしても、傷つく必要はないわけです。

 

しかし、こういうふてぶてしい態度が、気に入らないおじさんたちもいるんだろうなあ。私の見た目こそ、謙虚さのかけらもないというか、のんきで偉そうで世間知らずのくせに図々しい、みたいに映っている可能性は、かなり大きい。

 

人の本質なんて、ない。あるのは多面だけ。人には無限にいろんな面があって、人によって、時によって、見せる面はころころ変わる。

 

私には私の多面があって、とある男性には生意気で無知な女に見えてるだろうし、また別の男性には頼りがいのある落ち着いた女性に見えているだろう…と書きかけて、そんな人いるんかな、と。いてほしいな。いたらいいな。

 

おやすみなさい。

 

 

 

強い色を身に着ける

突如としてネイルカラーへの衝動が抑えきれなくなってしまい、数週間ほど、マニキュアを塗っている。今日は、昨日の帰りが遅くて、睡眠時間が短くてもう、会社でも眠くて、早く帰って早く寝たい、早く寝たい、と思っていたのに、出しっぱなしになっていたネイルカラーをしまうときに、どうしても塗りなおしたくなってしまって、さっき、ネイルをしたものだから、まだまだずいぶん寝られない。マニキュアが完全に乾くのって、けっこうな時間がかかるのだ。

 

そんなわけで、マニキュアを乾かしながら、ブログを書いています。本当はもっと他に、やることあるんですけどね…。

 

マニキュアって、お店にはほんっとにほんっとにすごい種類の色があります。今塗っている(乾かしている)のはネイビーなのだけど、暗いネイビー、グレーっぽいネイビー、青に近いネイビー、紫に近いネイビー、と、言葉では表しきれないほどの種類があるし、あとはそこにラメが入っていたりパールが入っていたり、完全に不透明じゃないものとか、なんだかよく分からない質感だったりとか、とにかく、種類がすごい。

 

しかし、種類があればあるほど迷う。ぴったりこれだ!ってものが、なかなかない。微妙に色が違うからこそ、2本の間ですごく迷ったり、見た目は好きな色でも塗ってみたらイメージが違うかも、と考えたり、けっこう、けっこう、迷ってしまう。

 

ま、その迷うところが楽しいのかもしれないけど。

 

なんとなくネイビーのネイルがしたい、と思って、迷って迷って先日買ったのを、さっき初めて塗ってみたわけですが、けっこういい感じの発色で、気に入りました。よかった。ネイビーなんだけど、見ようによっては紫みたい。地味なんだけど、強い色だから、派手。地味派手。派手地味。いい感じ。

 

女性の年齢は手に出ると言いますが、口紅もそうだけど、くすんだ色が似合わなくなってきたなあ、と思います。思い切って派手な色をつけたほうが、元気に見える。若い女の子がくすんだ色をつけるのは、シックに見えたり大人っぽく見えたり上品に見えたりするのかもしれないけど、中年になると、くすみがくすみを助長してしまうのかもしれない。

 

強い色を身に着けている女性は、自信があるようにも見えますよね。堂々としているというか。堂々としているから強い色の服を着られて、強い色の服を着ているから堂々として見える、という好循環なのでしょうね。

 

えーと、何の話でしたっけ。ネイル、乾いたかな。本当は眠いんです。寝たい…けどまだ寝られない。おやすみなさい。

 

 

私が傷つくこと

はいはいはいはい、久しぶりに来ました、この感覚。仕事が忙しくて、何からやったらいいか分からなくて、現実逃避でブログに来ちゃう感覚。久しぶり。

 

仕事が忙しいのはいいことだ。ただひたすらにやることがある、というのはいいことだ。それさえやってれば会社が安泰、という状態だったらもう、何も言うことはないのにな。そうはならないのだ。働けど、働けど…という感じで、じっと手を見てしまう。

 

しかし、じっと手を見たところで不安になったりいじけたりするばかりなので、ただただ降ってきた仕事をばさばさと片付けるのみです。繰り返しますが、降ってきた仕事をばさばさ片づけるのはいいです。嫌いじゃないです。というか、むしろ、好き。仕事はいい。自分が社会の役に立っている、という感覚が得られるから。

 

私が不安を覚えるのは、人と比べられるときです。「前の担当者はこんなじゃなかった」「◎◎さんはもっと☓☓してくれた」などと言われると、とても凹みます。その人よりも自分が劣っていると感じるからではなく、比べられたその人なら、その相手を満足させてあげることができたのに、私では満足させることができなくて、本当にふがいなくて申し訳ありません、という、卑屈な気持ちになるのです。

 

相手が幸せになってくれることが、私にとっては仕事の醍醐味なのかもしれません。社会の役に立っていると感じること、それってつまり、誰かの役に立っていること。私が仕事をすることで、誰かが満足したり、ちょっと幸せになったり、やりたいことができたり、そのまた他の誰かに認められたり褒められたり、しているのだとしたら、それはとてもとても、幸せなことです。

 

私のしている仕事で、誰かが不幸になっているとしたら、そんな悲しいことはありません。私と誰かを比べることで、欠落に気づいてしまう。そんな人がいたら、本当に申し訳ないと思います。

 

申し訳ないけれど、仕方ないんだよなー。私は私だから。私は私にできることをするしかないいんだから。

 

分かっちゃいるが、へこみます。へこんだところで仕方がない、というのも分かっているけど、へこむんですよ。

 

ああ、そういえば。

 

昨日、会社のスタッフと話していて、私が傷つくなあ、と思ったのがもう1つ。私、強い女だと決めつけられるのがイヤです。私は決して弱くはないし、たぶんかなりタフな人間だと思いますが、だからといって絶対に傷つかないとか、これくらい大丈夫だろうとか、そういう風に思われるのがイヤ。もしこの先パートナーを見つけるなら、私、たぶん、私のことを心配してくれる人がいいです。私が自分で自分を大丈夫だと思うことと、誰かが私のことを大丈夫じゃないかもしれないと思うことは、ちゃんと両立するのです。それが両立する世界で生きていきたい。

 

はい、お仕事に戻りまーす。

 

当たり前にできることとできないこと

中2の長男が、貸していた1000円を返してくれました。えらい。すごい。これ、できない人はできないし、ましてや親子なんだし、なあなあにしちゃうこともできたのに、ちゃんと「はいこれ、借りてた1000円」と渡してきた。えらいよ、息子。これで私は、ますます彼を信用するようになった。

 

だいたい私は、いつ貸したかも覚えていない。3日前だったか、先週だったか。貸したときの場面はよく覚えていて、翌日に友達とカラオケだかボーリングだかに行くけど、お金が足りないから貸して、と言われたのだ。しかし、そのときの私の財布の中には1600円しか入ってなかったのですよねー。1600円ぜんぶ貸しても友達と遊ぶには足りないか、と思い、「あ、そういえばずーっと前のキミのおお年玉をここに入れてたままだから、これ使っていいよ」と貯金箱に入っていた1000円渡して、「え、じゃあ2600円もらって、いくら返せばいいの」と言ったから、「1000円はもともとキミのお年玉。600円は私からのお小遣い。1000円だけ返して」と言ったら、本当に1000円返してくれた。息子、えらい。

 

あと、私が子どもたちのことをえらいな、と思うのは、私が何かしてあげたときにちゃんと「ありがとう」と言うこと。「お茶ちょうだい」「はいどうぞ」「ありがとう」みたいな。

 

当たり前のようで当たり前じゃないこと。

 

私は子どもたちに「勉強しなさい」と言わないけれど、「ちゃんと友達作りなさい」とも言ったことがない。子どもたちみんな、ちゃんと自分で友達を作っているから。これ、できない子はできないというか、難しい子もいるんじゃないかな。勉強ができるよりも、友達がいることの方が、人生には助けになる。だから、子どもたち、すごいと思う。

 

私が、当たり前のようで当たり前にできていないことは何かな。毎晩ちゃんと食器を洗うこととか、洗濯物をたたむこととか。

 

…忙しいとか時間がないとかじゃなくて、本当に本当に家事が嫌いで苦手で、こういうのがちゃんとできない、私。いつもいつも、夕飯食べたあとの洗い物ができなくて、寝るときにシンクに汚れた食器が重ねられたままなのだけど、最近ではもう、夜のうちに洗うことをあきらめて、翌朝に洗うことにした。やらなきゃ、やらなきゃ、でもなんかできない、と思っているのって、ストレスなのだ。もう、夜には洗い物、しません。

 

その代わりといっては何だが、朝にはちゃんと洗い物をするのです。なんだか知らないけど、朝にはちゃんとできるの。だから、それでいいの。

 

こんな私はきっと、このままずっと一人暮らしなんだろうなー。ま、いいけど。

 

おやすみなさい。

 

悩みのない髪の毛と悩ましい人

髪の毛が伸びてきて、ちょっと嬉しい。

 

2年弱前の夏に、「思い切り短くしてください」とショートカットにして、職場の人にも「おおお、切ったねえ。いいじゃん、ベリーショート」と言われるくらい短くしたのだけど、1年くらいで飽きて、伸ばし始めて1年弱で、今もうすぐアゴに届くくらいのおかっぱ頭になった。ボブとも呼ぶこのヘアスタイルが、私はわりと好き。

 

というか、私は自分の髪の毛がすごく好きなのだ。白髪がだいぶ増えてきたけれども、きちんとドライヤーさえかければ、髪の毛がさらさらと流れるストレートヘア。スタイリング剤もつけずに一日いられる、手のかからない髪の毛なのだ。

 

スミマセン、特に何のオチもありません。さっき、お風呂を出てドライヤーで髪を乾かした後でパソコンの前に座ったので、髪の毛のことを書いてみただけです。

 

本当は、仕事のことでちょっとやっかいな悩みが発生して、どうしたもんかなー、と思っている。どうしたもんかなー、と言っていても仕方ないので、どうにかしなきゃいけないのだけれど、その突破口が見つけられずにいる。

 

平たく言うと、私は直接にはかかわっていないとある場の雰囲気を壊す人間がいて、私にそれをなんとかしてほしい、と別の人から訴えられたのだけれど(ってこの説明、全然平たくないな)、私が悩んでいる理由は2つ。1つは、困っているのが私ではないから。もう1つは、人間の行動を変えるのって難しいと思っているから。

 

1つ目の、困っているのが私だとしたら、自分で解決する方法はある。面と向かって直接対決するとかね。だけど、私が困っているわけではないので「あの人がこんなこと言ってたんだけど」とやるのは、なんというか私はこれを本当の問題解決ではないと思っているのだよなー。

 

2つ目の人間の行動を変えるのが難しいと思っているというのともつながるけれど、人って、誰かから何か言われたところで行動って変わらないと思うのだ。「変えたほうがいいですよ」って言われて、素直に「ああそうですね」って従うような人間なら、最初からそんな問題行動を起こしてはいない。

 

人間の行動を変えられるのは自分自身しかいない、と私が思っているから、悩ましいのだ。だから、私が変えるのではなくて、何とかして困った人が自分で問題解決しなきゃいけない、と気づくか、あるいは困らせている人が自分が誰かを困らせている、と気づいてくれるしかない、と思っている。

 

ここまで整理できただけでも今晩はよしとするかなー。悩ましいけど。

 

おやすみなさい。

 

完璧ではなくて最良を目指す

突如として偉そうなことを言いますが、私、子どもの頃は神童だったんですよ。小学校では同級生、というか、同学年には9人しかいなくて、9人の中で、作文を書いてもポスターを描いても習字をやっても理科の研究をやっても代表に選ばれるのはいつも私だったし、校歌を歌うときのピアノ伴奏ができるのは学年で私しかいなかったし、児童会長は前期も後期も私でした。ついでに体も丈夫で、健康優良児に加えて良い歯の児童にも選ばれていました。「趣味は賞状を集めること」って、無邪気に言ってましたからね。

 

なんというか、人生のデフォルト(?)がそれなので、一番でないことは大したことではない、とか、選ばれないことには意味がない、みたいなのが、なんとなくしみついていました。それで、自分を責めるとか、自己肯定感が低いとか、自虐的とか無気力とか、そういう方向に向かうのではなくて、なんとなくいつでも、完璧を目指さなければいけない、という感じだったのですよね。仕事を始めてから。

 

私は出版社で書籍を作っていた時期が長かったのですが、完璧な書籍を作る、ということができなくて、いつも苦しんでいました。いや、苦しんでいた、というのは言い過ぎか。自分の担当した製品について、最後までこれでいいのか、と思う気持ちと、もうこれでいいや、という気持ちと、これならいいだろう、という気持ちと、そういうのが混ざり合った感じで、世に出していました。よっしゃ完璧、見てみろどうだ!みたいな気持ちで製品を手放したことは、正直、ない。

 

3年ほど前から会社を経営する立場になって、完璧な経営、理想とする経営に、ちっともちっとも近づけなくて、わりと苦しんでいました。最近まで、これならいいだろう、と思えず、これでいいのか、いやよくない、という気持ちばかりで、これでいいや、と思うこともできず。

 

なんですが、この3ヶ月ほどで、苦しみを抜けて、完璧ではなくて最良を目指す、という風に考え方が変わりました。私は私で、できることをやる。私は私の、最良を目指す。それは、経営という理想のだれかの最高の形ではなくて、私自身の最良。

 

事業は縮小するかもしれない。人員も減らさなければいけないかもしれない。手放さなければいけないタイミングがあるかもしれない。

 

だけど、それは私にとっての最良であって、やるだけのことはやった、と思えるならそれでいい。というか、結果がどうあれ、私はやれることしかやれないのだ、と、思えるようになりました。

 

苦しみを抜けたからといって、会社が儲かるようになるわけではありませんがね。でも、苦しそうな経営者と一緒に働くの、まわりの人はイヤだろうと思うので。

 

そんなわけで、やれることをやって、最良の経営を目指します。

 

おやすみなさい。明日も働くぞ~。

 

 

クレープを焼いていた休日

久々の休日。夫は仕事で出かけてしまったらしく、子どもたちがみんな遊びにきて、1日中クレープ作ったり、リゾット作ったり、なんだかんだと食べるお世話ばかりしていた。子どもと一緒の暮らしって、こんな感じなんだよな…。とにかく、食べさせることが、生活のメイン。

 

一人でいると、寂しいな、子どもたち遊びにこないかな、と思うのに、子どもたちが来たら来たで、あー、やりたいことが全然できない! という気分になる。今日、つくづく人間って、できていないことをしたがる、なっていない状況をほしがる、そういう「ないものを欲望する」生き物なんだ、と思いましたね…。

 

それって、人間に時間の感覚があるから、なのかな、と思います。過去の記憶があったり、未来への期待があったりするから、今とは違う状況の今を、願ってしまう。

 

たとえば雨の日に、動物たちが「今日が晴れてたらよかったのに」とか、「この前の晴れてた日は楽しかったな」とか、「いつになったらこの雨はやむかな」とか、考えないんじゃないですかね。考えるんですか? どうなんでしょうか?

 

雨の日は、雨の日であって、それ以上でもそれ以下でもない。雨の日を、雨の日として過ごす。そんな生き方ができたらいいのに、と思います。

 

子どもが来たら、子どもが来た状態で楽しく過ごす。子どもが来なければ、来ない状態で楽しく過ごす。なんで、そんな単純なことができないのかなあ、なんで私の心はこんなにないものねだりなのかなあ、とちょっと不思議に思いました。

 

繰り返しますが、ホットケーキミックスを使って、ただひたすらにクレープを焼いていた1日でした。基本、一人暮らしで牛乳は置いておけないのですが、ホットケーキミックスと、コーヒーとかに入れる粉末のミルクと、卵1個と、お水400ccをまぜて、1枚ずつ1枚ずつ、フライパンで焼いて、いちごジャムをぬって巻いて、YouTube見ている子どもたちのところへ、せっせせっせと運んで、1日の半分くらいが終わりました。子どもたちが、おいしいおいしいというので、まあ、それに応えたいんですよね、私としては。しかしホットケーキミックス2袋を焼き続けて、さすがに飽きました。疲れたし。

 

繰り返しますが、本当に久しぶりの休日で、昼間からビール飲みたくなりました。つい先日、ビール飲んでやっぱり苦いし要らない、と書いていたばかりなのに、「お疲れー、私」っていう場面で、アイコンとしてビールが欲しいんですよね。

 

でも、我が家にはビールも置いてなくて、わざわざ買いに出かけてまで飲みたいわけでもなくて、そのまま1日が過ぎました。

 

映画も見たいけど、お正月以来、全然見てない。この3ヶ月ほどは、やたらと真面目に働いてばかりいます。お疲れー、私。

 

おやすみなさい。まだ寝ませんが。