人の気持ちは変わる

こんばんは。忙しくも、健康的な生活を送っております。

 

今日は、人間の記憶と気持ちの話。

 

人って、気持ちが変わる生き物だなあ、と思います。個人の人間性が変わるか変わらないかは分からないけれど、1年もたてば環境は変わるし、環境によって気持ちは変わる。

 

気持ちが変わるということは、発する言葉も変わるということで。

 

あの時はこう言ったけど、今はこう思っている、ということはよくあることです。1年前のブログを読み返してみれば、それは歴然としています。「わーお! 私ってばこんなこと書いてたのか! こんな風に考えていたのか!!」とか。

 

なので、1年前の自分と今の自分は違う、ということは実感として分かるのですが、他者に対してそれを実感するのは、わりと難しい。

 

あのとき、あの人からあんなことを言われたから、あの人は私のことをよく思っていないだろうな…と、考えるのは自然なことですが、それが今もそうかどうかは分からないはずなのです。あのときのあの人と、今のあの人は違うのだから。あのときから今までに、その人にどんなことが起こり、どんなことを考え、どんな風に自分のことを思うようになったか、それは確かめてみなければ分からないことです。

 

相手も変わるし、自分も変わる。あのとき頼りない人間だ、と思わせてしまったけれど、そのときから今までに、こんな経験をして、こんなに状況が変わって、今の私は少しは頼れる人間になっています、ということが伝わったとき、その瞬間に、相手の考え方も変わる、かもしれない。

 

イヤなことを言われたり、イヤな思いをしたり、といったすべてを、水に流すことはできないかもしれない。忘れてしまって、なかったことにすることは、できないかもしれない。

 

けれど、人間関係の構築は、いつだって、今、ここから、始めたらよいと思うのです。

 

筋を通すとか、プライドを保つとか、もちろんそれはそれで大切なことだし、大事にしたいことは大事にしたらいいと思うけれども、もしかしたら、時間が経つうちに、筋とかプライドとかには、何の価値もなくなっているかもしれない。大事に大事に握りしめていた宝物が、いつのまにか手汗でサビてしまっているかもしれない。

 

これまで大事に握りしめていた、というところに価値を見出して、サビだらけの鉄のかたまりをそのまま握り続けるのも、それはそれで、人の価値観です。

 

が、自分の価値観が変わるように、他人だって、いつも変わり続けているんだよー、ということを、自戒してみました。

 

おやすみなさい。(ウソです。まだ寝ません。)

 

ずっと挑戦をあきらめていた

この2年ほど、夢や希望を言葉にするのをためらってきました。ためらう、というよりも避けてきた、と言ったほうがいいかもしれません。

 

「〇〇したい」「××になりたい」。こんな夢や希望を語った瞬間、そのための努力をしなければいけない、という恐怖にとらわれていました。

 

悩みを解決するためには、細分化し、具体化すること。行動を起こすためには自分の恐怖を取り除くこと。夢や希望をかなえたあとの自分を思い描いて、そこに至るまでの一歩を踏み出すこと。

 

勉強会に出たり、本を読んだり、ブログで方法を探したりしているうち、知識を身につければつけるほど、それをしなければいけなくなるのが怖くて、もっと言えば、できなかったときの自分がかっこ悪くて、自分が成し遂げたいこと、なりたい人間の姿を、口にするのを控えてきました。

 

不言実行、をカッコいいとは思いません。有言実行。それでいいと思います。それがいいと思います。ただ、有言不実行。これが、カッコ悪い。あくまでも、私の価値観です。私は一貫性や、行動力を重視する人間です。言うことが状況や立場によってころころ変わる人や口だけの人間、思いつきを語るだけで行動力の伴わない人間は、尊敬できません。

 

それで誰かを軽蔑したり蛇蝎のごとく嫌ったり、といったことまではしないまでも、どうしてもそういう人を軽んじてしまう気持ちは芽生えるし、何より、自分がそうならないことを、心がけてきました。

 

だけど、その一方で、それはどんどん挑戦をしなくなっている、ということでもあって。

 

〇〇になりたい、と何かを目指すこと。それは素晴らしいことだと思います。未来の自分の姿を思い描いて、そのために努力すること。その価値には私もおおいに賛同するし、できることなら、私もそうありたい。むしろ、困難な夢であっても果敢にチャレンジするような、そんな人間でありたい。

 

年齢なんて関係なく。やりたいことがあるなら、始めたらいい。今日は、残りの人生でいちばん若い日なのだから。年齢を言い訳にするのは、あまりにかっこ悪い。

 

そう、挑戦を崇めることと、挑戦をあきらめることは、紙一重なのです。挑戦しないことがかっこ悪いからこそ、挑戦をしない、という選択をしてしまう。それが、今日までの私でした。

 

でも、今日、私は決めました。カッコ悪くてもいい。失敗してもいい。私には、挑戦しなければいけないことがある。

 

体重を落とそう。いくらなんでも、太りすぎだってばよ、私。

 

おやすみなさい。

 

コミュニケーションを細分化する

よっしゃ、今日はあの話を書くぞ、と意気込んでいたのですが、何を書こうと思っていたか、忘れました。だったら書かなくてもよいかとも思うのですが、書くと毎回何人かの方はスターをくださるので、それが嬉しくて書いてしまいます。

 

私の文章が好きでスターをつけてくださる方々が、私の描いた絵を気に入ってくださるとは限らないし、私の声を心地よいと思ってくださるとは限らないし、私の顔を見るに堪えるものだと思ってくださるとは限らない、と思っています。

 

先日読み終わった川村元気世界から猫が消えたなら』に、海外旅行から帰る飛行機の中で、となりにいる恋人と電話で話すことができなかったために別れた、みたいな描写が出てきました。読んだときはなんのこっちゃ、と思いましたが、今になって、なんとなく、わかる気がします。

 

なんとなく、友達と、気になる異性と、職場の同僚と、LINEでチャットするみたいにやりとりする時間が、私は好きです。が、その人と電話をしたいかというと、そんなことわざわざしなくていいし、したくもない。というか、絶対イヤ。

 

コミュニケーションというのは、テキストや情報の交換ではなくて、時間を共有することが目的である場合があって、それはその相手との組み合わせによって、媒体が何が心地よいかというのは無限にバリエーションがあるのだと思います。

 

私の母親は、自分の恋愛遍歴を娘の私によく語る人でしたが、彼女が高校生のときだったか、文通しているような交際相手がいて、手紙を書いている間は、会いたいな、会いたいな、と思っていて、彼からの手紙を読むと、ステキな人だな、早く会いたいな、と思うのに、いざデートをするとつまらなくて、早く家に帰りたいな、早く家に帰ってこの人に手紙を書きたいな、と思っていたのだそうです。今になって、なんとなく、わかる。わかるよ、お母さん。

 

電話で話すのがここちよい相手、チャットのようにテキストのやりとりをするのが楽しい相手、食の好みが近くて何時間でも一緒にお酒を飲めるような相手、何を話すでもなく一緒にいて幸せを感じる相手、スポーツで対戦するときに生きる喜びを感じる相手、ただただ見つめているだけで数時間が過ぎてしまうような相手、その人の奏でる楽器の音色に酔いしれてしまう相手、いろいろいると思います。おそらく、すべてが同じ相手でなくてもよい。というか、永遠にすべてを担ってもらうなんて、無理だわー。自分だって、担えないし。

 

で、私がこれまで面と向かっていちばん話していて楽しかった異性って誰かなー、と考えて、なんか、誰と話しても全然楽しくなかったわ、むしろお前らみんな私の話でさんざん楽しんだだろーが、という気がしている。傲慢なおばちゃん。

 

おやすみなさい。

 

ビールを飲んで書いてます

まあまあそれなりにお仕事がんばった1週間で、いったん出かけたのだけどやらなきゃいけない仕事を思い出して事務所に帰り、よい気分で遅い時間になったので、勢いで突発的にビールが飲みたくなって、隣のコンビニで買ってきたけど、やっぱ半分飲んで、もう要らない。

 

ビール、苦いし、心臓がばくばくするし、顔が熱くなるし、誰に見られるわけでもないけど顔真っ赤になるし。

 

どうにもこうにも、行動をとる前に期待していたことと、行動をとった後に起こることが、ちがうの。なんで。分かっているのに、なんで、どうして、何度も何度も、ビール飲んじゃうの? 私。

 

行動をとる前に期待してたことと、行動をとった後に起こることが違う、というのは、たぶん正確に言うと違います。今、酔っぱらってるんですけど、酔っぱらっている状態で、こんなすごいことに気づいた私、すごい。すごいって思ってるところが酔っ払いですが、続けます。

 

行動をとる前、というのは行動をとる前であって1種類ですが、行動をとった後、というのは、時系列で無限に種類があるわけです。

 

たとえば、ビールを飲んだ後、というのは、

 

プルトップを開けて、缶に口をつけて、一口目を流しいれたとき。

 

一口目を飲み込み、その勢いで二口目もごくっと飲み干したとき。

 

はい、書いていて、この瞬間。この瞬間は確かに、あー、仕事の後のビール最高! お疲れ、私!!! って思ってました。なので、行動をとった後、期待していたことを体験しているのですよ、私。

 

問題は、期待していたことと、起こったことが違うことでは、ありませんでした。期待したことが起こったのを忘れて、というか、それを継続させたいと思って、そのままビールを飲み続けてしまうのが、いけないのです。

 

三口目、四口目を飲み干すころには、ビールが苦くなってきます。

 

五口目、六口目を飲み干すころには、顔が熱くなってきます。

 

ビール一缶350ml。これが私にはいかんともしがたいほど、多すぎるのですよ。ほんの、100ccほどで十分なの、私には。

 

アルコール摂取量に関して世の中の標準サイズから思い切りずれている、ということを、自覚していないから、こうなります。いえ、自覚しているはずなのですが、たまに(というかしょっちゅう)それを忘れるからいけないんです。

 

はあ。この後、家に帰らなきゃいけないのもめんどくさい。私にとって、酔っぱらっていいことなんて、あんまりないのに。なのに、逃げたくなるのよね。

 

酔っぱらって、ネガティブになってきましたかね? がんばって、家に帰ろう。うひー。おつかれさまでした。

 

私にとって女性という性は

朝、口紅を塗りながらふと考えました。私は女であることを楽しんでいるかなあ、と。

 

少し前に口紅が欲しい、と書いていましたが、いよいよ前に使っていた口紅をすっかり使い切ったので、2本、赤い口紅を買いました。1本350円。3500円ではありませんよ。350円です。本当は別売りのケースに入れて使うもののようですが、別にケースがなくたって使い勝手は変わらないし、と、本体だけ同じ色を2本買って、使ってます。本当はもう1本欲しいけど、ちょっとだけ節約。

 

先日使い切った口紅は、少しローズっぽい赤でした。年をとって、ピンクとかベージュとかオレンジとか、健康的な色が似あわなくなってきたなあ、と感じていたので、ローズっぽい赤を探してローズっぽい赤を買ったので、そのときはけっこう気に入って、2本を使い切りました。

 

今回買ったのは、かなり濃いピンクのような赤です。子供用のおりがみの、袋のいちばん最初に入っているような赤。つけたては、本当に、真っ赤。印刷用語でキンアカと言うらしいです。マゼンタ100、イエロー100。

 

つけてしばらくすると、落ちてなじんで少しだけピンクっぽくなります。けっこう派手な色ですが、今の私のこの年齢と、この顔と、自分の性格的なこととか服装とかに、合っているのではないかと思います。しかし、それにしても、赤い。

 

真っ赤な口紅を塗る、という行為があまりに女っぽいなあ、と鏡を見ていて思ったので、私はそういう女っぽい行為を楽しんでいるのかなあ、とふと思いました。私は口紅もつけるし、この前ネイルを若草色にしてみたし、毎日ピアスも着けるし、髪の毛もこの前ハイライトを入れて明るくしたし、とそれなりにおしゃれと呼ばれる行為はしている。

 

けれども、それを好きでやってるか、とか、楽しんでやってるか、というと、あんまりそういう感じでもないような気がします。かといって苦痛だと思いながら世間体を気にしてやっているわけでもない。

 

言ってみれば、夜にパジャマを着て寝るように、強制されたわけでもなければ積極的に主体的に選択して行っているわけでもないけれども、特段おかしな行為でもなければ世の中の絶対的多数が行っていると断言できるような行為でもない。

 

 

私にとって性別って何なんだろう、と書いて思いついたのが、心臓に病気のある人の話。心臓に病気のある人は、いつも心臓の存在を気にしている。心臓が苦しくならないように、心臓に負担をかけないように、いつも心臓が自分の体内にあることを意識せざるをえない。

 

手術で心臓の問題がなくなった人が「初めて心臓の存在を忘れることができた」って言ってるのを読んだことがあります。私にとって女性という性は、存在を忘れることができているくらい、問題のないものなのかもしれません。真っ赤な口紅を毎日普通に塗ることができるくらいには。

 

ウソがつけない

いつもいつも正直で、決して決してウソをつかないことが、私にとっては最良のやり方なんですが、それが常に他のだれかにとっても最良かというと、そうでもないのかな、とそんなことを考えています。

 

正直でいることを最良と思わない人がいる、という意味ではなくて、私が正直でいることで誰かを傷つけたり不安にさせたりすることも、あるのかな、とかそういう意味です。

 

いちおう、正直であることと誰かを傷つけないことを天秤にかけて、私が正直でいることの価値がそこまで高くないと判断つく場合には、もちろんわざわざ誰かを傷つけるようなことはしていないつもりですが、でも、だけど、知らず知らずに傷つけてしまっていたり、結果として誰かを不安に陥れてしまったり、ということはあるでしょうね、と。

 

前にもここで書いたかもしれませんが、3,4年前だったか、私が尊敬する友人の一人に「私はいつも正直になんでも言っちゃうんだよねー」と相談の意味合いも兼ねて伝えたら、「それは自分がラクになりたいだけでしょ」と言われてしまったのですよね。図星。

 

だけど人間、だれしもラクに生きたいじゃないですか。それが私の場合は、正直であるという方法であって、たまたま世間的にも悪いとはされていないことなので、そのやり方が認められる場合がこれまでわりと多かったです。

 

正直でいることで、私から離れていった人も、いるのかもしれないけれど、気づいてないんで、私。あはは。

 

だって、ウソって苦しいじゃないですか。ウソをそのまま突き通すって、結局、ウソにウソを重ねなきゃいけないじゃないですか。そんなの、苦しくて耐えられない。

 

と、今書きながら思いましたが、ウソを言った後で、そのウソをウソのままにしないために現実を変えてしまう、というやり方もあるのかな、と思いました。

 

たとえば、「最近、食欲がなくってなんだか体重が減ってきちゃったんですよね…」とまったくもってでたらめもいいところ、むしろ現実は食べ過ぎに食べ過ぎを重ねて、びっくりするくらい体重が増えていたとしても、その後から、それを本当にして食べる量を減らしたりとかしたら、1週間後に「うさぎさん、なんだかどんどん痩せてるみたいだけど、大丈夫? この前うさぎさんがあんなこと言ってたから気になっちゃって」ってなことになれば、それはウソがウソではなくなりますね。

 

もちろん私にはそんなウソはつけませんけどね。ええ、なんだかもう、ものすごい勢いで体重が増えていますけどね。正直なところ。

 

正直言って、泣きたいです。えーん。おやすみなさい。

 

書くかもしれない小説のタイトル

昨日はぐだぐだ、ぐずぐず、うじうじしてましたが、今朝、少し前に始めたテニススクールに行ったら、すっきりしました! ラケットスポーツは初めて。だけど楽しい。全然できないけど、楽しい。体を動かすのは、楽しい。

 

ご近所のママ友とか誘いたい、と思いつつ、すでに仲の良い友達とテニスをするよりも、そこにいる人たちと新しく仲良くなりたい、という気持ちのほうが、私は強い。交友関係を広げたい、というタイミングだったのかも。いきなりコミュニティに入れるわけもないから、ゆっくりと。ゆっくりと。そこに、テニスというルールとスキルの必要なスポーツがあるのは、ありがたい。それが、共通のテーマになるから。

 

先月だったか先々月だったか、ブックオフで文庫本を5冊ほど買ってきて、少しずつ読んでました。年間100冊を目指して実際には60冊くらいしか読めていなかったというのが、私の人生史上最高に本を読んでいた時期で、今はもう、読む気も全然ない、と思いつつ、今年に入ってからもう5,6冊は読んだかなあ。1ヶ月に平均2冊だとして、年間24冊。たいした読書量ではないけれど、まあ、全く本を読まない、というわけでもない、感じですよね。

 

一昨日くらいに桜庭一樹『私の男』を読み終わって、昨日、川村元気世界から猫が消えたなら』を読み始めたら、1時間半くらいで読み終わりました。なんというか…、私、年取ったなあ、と、またそんな感想しか抱けなかった。とほほ。

 

テニススクールで体を動かしてすっきりして、小説の世界にふれて自分が年をとったのを実感して、私ももう、どうせ人生に何の目標もないのなら、小説でも書いてみようか、とかそんなバカなことも考えました。タイトルは『卵巣狂騒曲』。私の人生、これまでずっとホルモンに振り回されてきた、っていう感覚があるのですよねえ。いちおうまだ、自分を女性だと思っているけれど、おそらくもう狂おしいほどの恋愛とか、うっかり妊娠してしまったりとか、そんなことは起こらないと想定していますので、やっと、卵巣の奏でる狂騒曲が終盤に近付いている、という感じがあるのです。

 

曲ががんがん鳴っている中では、それに踊らされていた感覚がなくて、自分は必死に人生を歩んでいるとしか思っていなかったけれど、今思うと、かなりの部分、ホルモンに踊らされてたなあ、と思います。

 

だけど、踊っている間は幸せだったのよ。踊れない人生よりも、踊れる人生でよかった、と思っているのだけれど。それを書きとめることができたらなあ、と、脳みそ妄想曲。