バッターボックスに立てない

世界の片隅で、膝をかかえて、ただただ1日が終わるのを待っていた、そんな日曜日。

 

どうしちゃったんでしょう、私。もしかして、これが精神的にやばい状態だったら、どこで気づけるかしら。もしかして、すでにやばい? 自分で気づいていないだけで?

 

いや…そんなことない、と思う…。ごくごく普通に、会社の売り上げを上げる方法がわからなくて、途方に暮れてるだけ…だと思います。

 

できないのか、やろうとしていないのか、やりたくないのか。意味として全部違う、というのは分かるのですが、今の私にとっては、やっていない、という事実に変わりなく、それは、なんでできないのか、とか、どうしたらできるのか、とか、やる気があるのか、とか、投げ出してしまったのか、とか、そういう問いかけには一切意味がなくて、とにかく、やっていない、ただそれだけで、私はそれを受け止めているのだから、世間の皆さま(って誰やねん)も、受け止めていただければ幸いに存じます。

 

だからいって、じゃあ私は何をしたいんだ? と思って、やっとこさ、今日があと2時間で終わってしまう、という時間帯になって、ノートに書きだしてみました。

 

そしたら、2番目に、「自分の気持ちを文章に書き表したい」というのが出てきたので、今、こうして自分の気持ちを文章に書き表しています。

 

これが癒やしになるとか、自分を鼓舞するとか、それももう、今となっては疑わしいもんだ、と思います。少し前までは、自分を励ます言葉になっていたのだけれど、今はもう、その機能を果たさない。

 

好き勝手やってきて、うまくいっていなかったとしても、だからといって、何もできなくなってフリーズしてしまうくらいだったら、何も知らずにうまくいかないまま好き勝手やってた方が、楽しい人生だったのになあ、と、そんなことを思ってしまう。

 

何も動き出せずにいる私は、失敗もできなきゃ成功もできないんだよ。それを望んでいるわけではないのに。失敗してもいいから挑戦してきたのが私だったのに。

 

今は、バッターボックスにさえ立てない。打席まで歩いていく、そのイメージが持てない。

 

野球は、テレビで、生で、プロの試合を、アマチュアの試合を、いくらでも見てきた。打者が、バットを振るためには、バッターボックスまで歩いていかなければいけないことも知っている。

 

何なら、野球のルールブックも読んだ。ボールを打つためには、バッターボックスまで歩いていく必要がある。

 

でも、その足が、動かない。どちらの足から出したらいいか、わからない。一歩が、踏み出せない。

 

踏み出したくないのか、と言われても、踏み出せないのだから、仕方ない。歩くのなんて、簡単でしょ、と言われて、それは分かる。けれど、歩き方を知っているのと、バッターボックスまで歩いていくというのは、別のことなのだ。

 

だから、ひざをかかえた日曜日になってしまう。月曜日になれば、会社には行きますけれども。

 

最近気づいたこと

ふと気づくと、いろんな人が私のことを褒めてくれるのだけど、そこで考えたことが2つ。

 

1つ目。

みんな本気で褒めているのかしらん? これって社交辞令? お世辞? 大人の世界ってもしかしてそういうもの?

 

2つ目。

私は最近だれかを褒めているだろうか? 仕事で出会う人、家族、友人などを? もしかして、私が誰かを褒める以上に、みんなが私を褒めてくれてるのではないか?

 

1つ目は、なんか、社会人生活を送る上での自信がなくなってきました。もしかして、本気で受け取って気分よくなったりしていたのはバカみたいな話で、現状を見たらいいかげんすべてお世辞だったってことに気づけって話なのか、みたいな。

 

2つ目は、それに気づいたら、私を励ましたり、認めたり、鼓舞したりしてくれてる人の多さに、感謝の気持ちが湧いてきました。みんな、私が生きていくことを、肯定してくれている。

 

そして、1つ目と2つ目に共通する気づきが、私はまわりを褒めているか? ということ。もしかして、褒めが足りない? ビジネスの基本は褒めること? 褒めが足りないから売り上げも足りないの???

 

それは…あるかもなあ。褒めるって、相手をよく観察しないとできないことだもんなあ。もっと相手を観察して、相手が褒めてもらって嬉しい、と感じるポイントでコミュニケーションをとらないといけないのかも。

 

と、これは、ビジネスの話。

 

交友関係においては、どうだろ、褒めてるかな、私。褒めてないかもな。だからといって、無理やり褒めるのもなんだか気持ち悪いしな。

 

もちろん、まわりにステキな友人はたくさんいて、なんか、そういう人たちは、私ごときに褒めてもらう必要なんてないんじゃないか、みたいな意識も働くんだよな。難しいな。

 

でも、これも、素直であることを心がけよう。ステキな人の、ステキなところを見つけたら、言葉にしてみよう。そんなところで、遠慮する必要はない。

 

問題なのは、ステキなところを見つけられない、今のねじくれた心情かも…。そう、これに気づいてしまったのが、もともとのところなんですよ。私、最近、世界を良いものとして受けとれてないな、って。

 

そういう心の持ち方というか、心の在り方が、悲しいですね。もうちょっと、世界を良いものとして受けとめたい。もっと、世界を面白いものとして楽しみたい。

 

下手したら、産卵を終えたシャケみたいに命を終えてしまえたらよいのに…くらい、考えてますからね、最近の私は。

 

決してそれは、死にたいという意味じゃないですよ。まだまだ死ねないなー、どうせ死ねないなら、もっと人生を楽しくしたいなー、と、そんな感じ。ですね。

現実と幻想のうさぎ

昨日の夕方くらいからだいぶ元気になってきました。

 

それでも、自分が何をやりたいのかは、わからないままだけど。

 

このところ、人から「何がしたいの?」「どうしたいの?」と、そればかり尋ねられて、めっちゃ疲弊している。

 

みんな、そんなにやりたいことがたくさんあるの???

 

私が、好き勝手、自分のやりたいように生きてきたのを否定しておいて、それで「何がしたいの?」って言われても、困るんですけど。

 

私は私のやりたいようにしてきたし、それで失敗したり、いやな思いをしたり、困ったりするのを、誰のせいにもしていない。全部、自分の責任として、引き受けてきた。

 

それを、失敗と認めて、自分で自分のケツをふこうとしているときに、まわりからやんややんやと、「それでいいの? うさぎは本当は何がしたいの?」って言われても、うるせー、私はやりたいことやってきて、こんな惨状なんだよ、笑いたけりゃ笑えー、がははー。

 

って、なんだか自暴自棄になっているのは私ですね。

 

いや、自暴自棄になってないからこそ、まわりの声に混乱するんですよ。自分が自分のやりたいようにやってきて、それでは立ちいかなくなったから、自分の望むように方向転換させてくれ、って話なのに、なんでそれをさせてくんないんだ。

 

まわりからどう見えようと、知ったことか。自分に向き合えとか言われても、知るもんか。私は私で、自分に向き合うもなにも、自分を捨てることもできなきゃ自分から離れることもできないんだよ。

 

それを、「逃げちゃダメだよ」だの、「自分の使える力を全部使ってみて」だの、「人は変われるはず」だの、ああああああ、もう。

 

う る さ い。

 

逃げたきゃ逃げるし、力使いたくなきゃ使わないし、変わりたくなきゃ変わりませんよ。好きにさせてくれ。

 

そんなわけで、昨日と今日は、思いっきりサボタージュ。世界から、うさぎという存在を消して、思いっきり、さぼってみました。知らん。いつも前向きで頑張り屋のうさぎさんなんて、お前らの幻想だ。

 

周りが勝手に私に抱くイメージに、疲れる。私はそこまで努力家でもなければ、誠実でもなんでもないし、さぼりたいときにはさぼるし、みんなからちやほやされていい気になって、思いあがって生きていければそれでいいと思ってるのよ。

 

それの、何が悪い。みんな、もっと私を敬え。あがめ奉れ。ひざまずけ。

 

…って、言えたらいいなー。そんな風に言える相手、いますか? いるわけないですよね。私にだっていないです。だから、精いっぱい、誠実に、生きているんです。

 

私の心は焼け野原

昨日の夜までは大丈夫、と思えたのだが…。

 

今日になって、もう、どうにもこうにもならない感じです。私の心が、戦後の焼け野原になってしまった気分。

 

もう、離婚したいと言い出してから2年半になりますが、それより前の12年以上、夫は私にとっての神だったのです。私にとって夫は、私以上に、私自身以上に、私の人生以上に、敬い、崇め、尊重すべき存在だったのです。

 

だから、ひたすら私は仕えた。彼の望む妻になろうと、ひたすら努力した。ただただ、我慢に我慢を重ねた。

 

その神が、人であることに気づいたばかりか、どうしようもないバカで、モラハラ野郎のDV夫だ、ということを、友だちから気づかされてから2年半かけても、私はまだ受け入れられないでいるのだと思う。

 

バカで、モラハラ野郎のDV夫だ、とすべて一方的に認めてしまえるならば、裁判でもなんでも起こして、こてんぱんにやっつけてしまえばいいと思う。

 

だけど、それはできない。なぜなら、私は、神を神でないと気づいてしまったことに、罪悪感を抱いているから。

 

好きで好きで、大好きで大好きで、心の底から惚れぬいて自分の人生をささげてもいいと思った人を、いきなり貶めて容赦なく攻撃するなんてことは、私にはできない。

 

私は、今でも彼のことを好きでなくなってしまった自分を、責めている。それが、たとえ半分、好きでなくさせてしまった彼にも責任があるとしても。

 

彼が私を好きでなくても、私が彼を好きでいなければいけなかった、と、私は責任を感じている。私が、彼の人生を狂わせてしまった、と申し訳ない気持ちをいだいている。

 

だから、フィフティ・フィフティで離婚したい。できる限りの努力はしたけれども、夫婦でいられる時間を使い果たしてしまったのだから、これからは別の人生を歩みたい。

 

ただ、でも、それでも、私が彼の良い妻でいようとしていた10年以上の月日を認めてほしい、と思う。それさえ認められないのが、悔しいし、悲しい。

 

「君は金が欲しいんだよね?」「これでマンションも手に入ったら、金目当てに結婚した君にとってはいい結婚だったんじゃないの」とか、そんなセリフを言う彼も、言わせてしまう私も、悲しい。

 

ああ、悲しい。悲しいけれど、乗り越えなければいけない悲しみなのだ。

 

時間は巻き戻せないのだから。悔しいけれど、どこの時点に戻ったとしても、私は同じことをしたと思うので。後悔は、一つもない。後悔なんかしたら、それこそ自分が可愛そうすぎる。

 

可愛そうな私、って、自分に同情できない厳しさが、自分を苦しめる。

 

…私って、Sなのかしらん。

 

感情のシャッターを閉じる

前述の通り、日曜日の飲み会もキツかったし、月曜日は出社して会社の売り上げを計算してたらこのまま蒸発したろうかってくらいくらいキツかったし、さらには弁護士事務所から連絡がきて婚姻関係のことで片づけなければいけない問題が発生して、もう、ホント、ツラいよ。

 

ツラい、と書きつつ、全然ツラいと思っていない私がいます。こうしてふつうに、平常心でブログ書いてます。

 

なんでかっていうと、感情を味わうレベルを下げているからなんですね。ふだんの私は、わくわくしたり、楽しいっ!って思ったり、あー幸せーって感じたり、そういうのを、感情レベルをマックスに開いて味わっているのですが、最近、わりとツラいことばかりが起きるので、感情のシャッターをかなり閉じています。

 

カメラでいうところの絞りですね。あんまり光が入ってこないようにしている。これで、シャッタースピードも短くすると、暗くて何が写ってるのか分からなくなるんですよ。いいんですよ、悲しみや怒りなんて、鮮明にじっくり味わう必要なんてない。ぼんやりと感じて、あー、なんだかそこにあるなー、でも暗すぎてよく見えないなー、ってやり過ごしてしまえばいい。

 

そして、時間が過ぎて、次の幸せが来たときに、思いっきりシャッターを開ける。私のシャッターは壊れないです。頑丈です。開け閉め自在です。

 

シャッターや絞りというたとえでもいいし、筋肉でもいい。前にも書きましたけど、鍛えた筋肉というのは、制御不能になるという意味ではない。必要なときに、必要な力が出せるというだけであって、優しく触ったり、壊れないように運んだり、ということができなくなるわけではない。

 

恐ろしいのは、非力な人、鍛えていない人の「火事場の馬鹿力」であって、それは制御不能だし、なんで自分がそんな力を出しているのか、本人も分かっていないのでしょう。

 

人間、大切なのはコントロールです。感情が湧きあがるのは当然。人間だもの。だけど、人間であるからこそ、感情もコントロールするべきだと、私は思うのですね。

 

もちろん、コントロールできていない面もありますよ。泣いちゃいけない場面で泣いてしまうこと、私はしょっちゅうありますよ。夫との話し合いで、我慢できずに家を飛び出してしまうこともありますよ。お客さんからの電話でイライラして、声を荒げてしまうこともありますよ。

 

だけど、完全にコントロールを手放してしまうことはしない。手がつけられないほど号泣するなんてことも久しくしていないし、飛び出した家にはほとぼりが冷めたころ帰るし、声を荒げた後には「先ほどは失礼しました」と謝ります。

 

しかしもう、感情を閉ざしたい相手には、ずっと閉ざしていたいのですよね。なので、今日は夕方に弁護士の先生と相談しに行きます。あーもー、めんどくせー。

 

飲み会所感

昨日は大学時代の友人と飲んでいたのですが、まー、人と会って話すと、いろいろ思いが湧きあがりますね。特に昨日は、来ていた女子の一人が「どーしちゃったの!?」と思うくらい、一人でずーーーーっとしゃべっていたので、私はほとんど話せなかった。私は、わりとよく話す方だと思われていると思うのですが、それは、話題がないときや、静かになってしまったときに率先して話すからで、ほかに話したい人がいるときには無理やり割って入って話すようなことはしないし、何より基本的に、人は聞くより話したいものだ、ということを知っているので、それを尊重していると、私はほとんど話すヒマなし、みたいになって飲み会が終わります。

 

そんなわけで、昨日の飲み会は、私にとってはただただ、友達の話を聞く会だった…。

 

しかも、その友人がものすごく酔っ払って、「うさぎは言うこともやることも軽すぎる」とか、「うさぎ、シミソバカスがひどくなったね」とか、「うさぎってこう見えてけっこうゲスなことをしているんだよ」とか、あー、なんか今、こうして文字にしてみて、めちゃめちゃひどいことを言われてますね。途中で帰りたくなったけど、帰ってもよかったんじゃないか、この飲み会?

 

しかし、途中で「帰るわ」って席を立ったら、その場の雰囲気も悪くなるだろうな、と思って我慢してしまった。我慢してよかった、と思っているけど。

 

まあ、彼女が悪いわけではなくて、お酒が悪いんだと思います。飲んだからこその暴言。

 

しかし私も、やられっぱなしではこのまま彼女に対するイヤな思いだけが残ってしまうので、今朝になってちゃんと「あなた昨日はひどかたったですよ」というのを伝えておきました。だから、この話はおしまい。

 

数少ない、彼女の発言以外で、来ていた男性メンバーと交わした会話の中で、「うさぎちゃんは、強い女の人に見えてしまうっていうのは事実だよね」みたいに言われて、ああ、それってなんだか真実を言い表しているなあ、と思いました。

 

私、たぶん可愛くない女性なんですよ。守ってあげたい、とか、心配になる、とか、助けてあげなきゃ、とか、支えが必要なんじゃないか、とか、そういう風に思ってもらえない。

 

別にそれで損してるなんて思わないけれど、だからといって、何を言っても傷つかないと思われたらツラいし、私だって愚痴りたいときもあれば泣きたいときもある。

 

だけど、こうして匿名のブログでしか弱音を吐けないところが、やっぱり「強い女」って思わせてしまう所以なんだろうなー。しっかし、今さらキャラ変なんてできないよ(笑)。

 

黒いうさぎが現れた

自分の書いた文章を読み返して、「なんじゃこりゃー支離滅裂じゃねーか」と思うことしょっちゅうなので、たぶん私も、話し言葉だとさらに支離滅裂なことを言っているのだろうなあ、という気はします。が、「うさぎさんの話は分かりやすい」とか、「うさぎさんが電話で話すのを聞いてると、この人めっちゃ頭キレるなって思う」とか、言われたことがままあって、私はわりとそれを信じています。うふふ。

 

たぶん一定の割合で、私の話を理解してくれる人がいて、おそらくその他の人々は、私の話を分かりにくい、と思っているのだと思いますが、って予防線をがっちり張ろうとしているうちに、めんどくさくなってきました。単に、話の分かりにくい人の悪口を言いたいだけです。すみません、まわりくどくて。

 

好き勝手に話していい、という場で、本当に好き勝手話す人って、私はものすごく一緒にいて疲れるんです。「えーと、私はそれを聞いてどんな反応すればよいの?」とか、「あれあれあれ? いつのまに話題が変わってたの? それ、さっきの話と関係なくね?」とか、「おいおい、私の意見を聞きたかったんちゃうんかーい! いつのまにおまえの独演会になってんねーん!」みたいに思ってしまって、もう、ほんと、まじめに聞くのが疲れます。

 

「えー、そうなんですか、すごーい!」とか、「わー、そんなことも知ってるんですねえ」とか、「いやー、びっくりしましたよ、そういうことだったんですねっ」とか、適当に言っておけば、相手は気持ちよく話し続けるのかもしれないけど、ちょっと待て。なんで私がつまらん話の聞き役をせなあかんねん。

 

悪いけど、私は私の話がいちばんおもしろいと思ってるんで、お前のつまらん話を聞くくらいだったらブログ書くっちゅうねん。本当に、私が、心の底から、「えー、そうなんですか、すごーい!」とか「わー、そんなことも知ってる…(以下略)」と思わせるような話をする相手じゃなかったら、二人で話をする時間がもったいないわい。

 

少なくとも、私に話を聞いてもらって気分よくなりたいんだったら、金払え、金。時給1000円で聞いてやる。時給1000円で、めっちゃ適切な(適当な、ではない)あいづち打ってやる。

 

その代わり、「正直な感想を聞かせて」とか「率直な意見が欲しい」とか言われたときに私が「うーん、端的に言って何が面白いのかぜんぜん分からなかった」と答えたとしても、へこむんじゃねーぞ。それ、私の責任じゃないからな。

 

はあ。思い切り、毒を吐かせていただきました。すみませんね。