ハイヒールを買いたい
家に帰ったらきっとまたぐったりで、書かずに寝てしまうだろうから、今のうちに書く。
なんだかんだで忙しい1日だった。6年くらい履いているハイヒールが、もうがばがばのゆるゆるで、足に全然フィットしないものだから、ヒールのついてるサンダル、ってそれをミュールと呼ぶのか? とにかく、ヒールのついてるサンダルをひっかけて都内を歩き回っているようなものなので、ものすごく脚が疲れる。靴が脱げないように、変な方向に筋肉を使っていると思う。
ハイヒールを買わなければ。いいかげん、そろそろ新しいハイヒールを買わなければ。
あるいは、ハイヒールを履かなくていい仕事に切り替えなくては。
ハイヒールを履く自分と、履かない自分と、どちらが好きかというと、履く自分の方が好きだ。スニーカーや、男っぽい靴ばかり履いているのは、楽ちんかもしれないけれど、あんまり楽しそうだとは思わない。
女っ気を全面に押し出して、100%女っぽく生きていくのは、私にはなんだかとても恥ずかしくて、したいと思わないのだけど、だからといって、女っ気を全然使わずに生きていくのも、それはそれでつまらない、という気がする。
私は1年365日のうち、363日くらいパンツスタイルで、スカートはめったにはかない。ホントに、ホントにはかない。1年のうち2日、はくかな、どうかな。もしかしたら、去年は1回もはかなかったかも。
髪の毛はショートカット。未だに白髪があまりないのと、もともと髪の毛が茶色っぽいので、染めてもいないし、パーマもかけていない。ものすごく安上がりな髪質である。
だけど、ピアスをしている。ピアスは好き。なくさないし。邪魔にならないし。指輪もしないし、ネイルもしないけれど、ピアスは好き。
カジュアルな格好でサマになるような年齢でもなければ、そんなセンスもないのだ。わりと普通に、きちんと品よくしているのが、いちばん好きな自分の姿だ。
ほんの数年前まで、冬の間はショートパンツにロングブーツが好きだった。とにかくロングブーツが好きで(なぜなら温かいから)、それに合わせるとショートパンツがいちばん快適だったので、そういう格好ばかりしていた。ショートパンツにロングブーツを履いていたころの私は、可愛らしかった。タイツは履いていたけれど、それなりの年齢でも足を出せるだけの体型だったし、ある程度の数の洋服を買うお金もあったし、あの頃の私は、とても魅力的な見た目をしていたと思う。
今、夏の間は、足首の出る丈のパンツに、ひざ下丈のストッキングをはいて、ハイヒールをはいている。素足は苦手。これも、少し前はストッキングが嫌いだったけれど、今は、ひざ下丈のストッキングがいちばん快適。
ハイヒールを買いたいな。自分のことを好きだと思えるようなハイヒールを2足くらい、買いたいな。
大好きな14歳の彼のこと
こんばんは。お久しぶりです。といっても、2日間ここのブログを書いていないだけですが。
月曜日はとにかく頭が痛くて、昨日は勉強をして帰ってきたら遅くなってしまって、で、今日はまだ会社にいます。今週はまた、なんだか超絶忙しいのです。なんでかなー。
でも私、元気です。メンタル、全然落ちない。落ちるのは身体的なしんどさだけ。不必要に自分を責めたり、自分を無能だと思ったり、そういうことを、していません。
もちろん、自分が万能だとも、超優秀だとも、思ってないし、だれよりがんばってるとか、何の落ち度もないとか、そんなことはいっさい思っていません。ただただ、普通に、そこそこ頑張って、いい感じに休んでいる。それだけの毎日だと思ってます。
小さいことで新しいことに挑戦して、よっしゃうまく行った、と思うこともあれば、これまで通りやってなんとかなるだろう、と思ったことがうまく行かなくてうーん、てなることもある。感覚的に、毎日プラマイゼロ、って感じで生きてます。
私のことを好きでいてくれる人(同僚とか、友人とか、子供たちとか、母親とか)がいるのをひしひしと感じる一方で、私が今、べた惚れに惚れているのが中2の長男。もちろん、生まれてから14年間、嫌いになったことなんてないし、ずっとずっとかわいいわが子だったけれど、数年前、14歳の彼がこれほどカッコいい男子になるなんて、全然予想もしていなかった。
勉強はまるでダメだけど。友達がたくさんいて。先生にも信頼されていて。毎日楽しそうに学校へ行って。毎晩友達と嬉しそうにLINEでやりとりして。
正直、私は中学校時代、かなりの優等生で、成績も女子では常にいちばんいいくらいだったけれど、そんな私の現在よりも、息子の将来の方が、安心できる。彼は、むやみにまわりを傷つけることはしないし、社会の中で自分を役立てることを考えられる大人になると思う。大それたことを考えたり、大冒険をしたりしなくても、きっと自然に、人とかかわりながら生きていくと思う。
それだけ、私は彼を信用しているし、信頼している。それを私が言葉に出して、「あんたは大丈夫よ」と言うと、彼は「母さんがそう言ってくれるからオレもそれを信じてるんだけどさ」と言う。(これ、前にも書きましたかね?)
そんな彼から頼られるとうれしいし、彼が学校のこと、部活のこと、塾のこと、友達のこと、好きな音楽のこと、見ているテレビのこと、話してくれると、なんでもうれしい。私の知らない世界を、彼が知っているのはうれしい。それを私に知らせてくれようとするのがうれしい。
大好きな息子のこと、書いてたら元気になってきた。よっしゃ、あとちょっと、仕事するかー!
ふてくされてます
おっと、もう11時半か。
今日はなんだかまた体調が悪くて、一日中布団のなかでぐずぐずしていた。午前中は、体がだるくて重い、という程度だったのが、夕方から頭が痛くて、薬を飲んで寝てしまおう、と思ったものの値つけず、なんだか何もしていない、かといって休めた気もしない、そんな週末になってしまった。
なんだか、ダメだ。このところ、あんまり前向きになれていないですね、実は。
やるべきことをノートに書きだして、淡々とこなしていけばよいのだと思うのだけど、それができない。
気分が乗らないことを言い訳したくはないし、何かバイオリズムみたいなことで理由を求める気もないのだけど、とにかく体調があまりよくない。体力は生活のすべての基本だというのに。
疲れていて、ストレスがあると、何か口に入れることでそのストレスを紛らわそうとするので、それも本当によくない。明日、きっとまた体重が増えているに違いない。ちょっと減っては、すぐにまた戻る。なかなか減っていく、ということがない。
何を目指しているのだろう、私は。どんな生活がしたいのだ、私は。
何も問題がないならないで、悩むことなく、生きていきたい。問題があるならあるで、それを解決する方法を知りたい。
体力の衰えは、仕方ないよな…。アンチエイジングとか、するつもりないわー。年齢には抗わず、加齢を受け入れつつ、生きていきたい。
眠い。寝よう。睡眠、大事。
一眼レフのカメラの話
頭の中のことをごちゃごちゃ書くのは意味がない気がしているので、目で見えて、手で触れるもののことを書きます。
私は、一眼レフのカメラをもっています。3年前(4年前になるのか?)、会社を辞めるとき、私は実はライター(物書き)になりたいと思っていて、文章は書ける、編集もできる、あとは写真が必要だ、と思って、退職金でカメラを買ったのでした。
初心者用のモデルだし、それほど高いものではなかったけれど、それまで使っていたデジカメとは全然撮れる写真が違って、どはまりしました。毎日、毎日、いろんなところ、いろんな人、いろんな場面の写真を撮って、少しでも自分のイメージに近い写真が撮れるように、カメラにくっついているいろんなダイヤルを回しまくって、完全オートのお任せモードよりも、自分で調整した写真のほうが好きになれるところを目指していました。
しかし、いつの間にやら、その熱意は冷めてしまった。去年、外国へ旅行したときにはもっていって、それなりにいい写真が撮れたので、満足していたけれど、それ以外のときは、最近はほとんどカメラに触っていない。
もったいない、とも思うものの、これを極める時間的、精神的な余裕がない。
趣味でも仕事でも、私には、「とにかくこれが好き」と言えるものがない。と、書いてすぐに思いつくのが、「とにかく書くことが好き」なのは確か。あー、そうか。
とにかく書くことが好き、だから、ライターになりたくてカメラを買ったのだったよ。ははは、素で忘れてた。自分の書いてる文章でこんな流れが来るとは思ってなかった。
写真を撮る練習をしているとき、空と、自分を撮っていた。なんでこの2つかというと、いくら撮りなおしても、何度撮っても、いつ撮っても、文句を言わないから。
空は季節によっても、時刻によっても、天気によっても、いつもいつも違う表情をしていて、そして、いつもいつも、美しかった。不動の美しさだった。不動でありながら、千変万化の美しさだった。だから、そのときそのときの美しさを、できる限り再現できるように、私はカメラのダイヤルを回し続けた。
それに対して、私を美しく撮るのは、できる限りだろうと何だろうと、とにかくそれはもう、めちゃめちゃ難しかった。自分だから、文句は言わない。けれど、自分だから、理想が高い。もっと美しいはず。あとちょっと美しく撮れるはず。ありもしない幻想の自分に、少しでも近づいた瞬間を切り取るために、私はシャッターを切り続けた。
この文章を書いている途中で、ふと家にあるスピッツのCDの歌詞カードを開いたら、歌詞が天才すぎて、泣けたのと同時に、ちょっとだけ刺激受けた。ああ、文章力を、磨けたなら。
今の人生の目標
今日は、ちょっと舞台を見に行ってまして、帰りの電車の混むのがイヤで、遠回りプラス各駅停車で帰ってきたら、こんな時間になってしまった。
夕方にサンドイッチとコーヒーゼリーを食べていたので、帰り道でお腹はすいてないな、と思っていたのですが、家に帰ると何かしら食べてしまう。食べ始めると、もうちょっと食べたいな、あと少し何か食べたいな、と、結局食べ過ぎてしまう。最初に食べ始めなければいいのだけど、それが難しい。
ブログも同じです。同じかな? 逆かな? 書き始めれば、書けるのです。ただ、書き始めるタイミングを逸すると、書けずに終わってしまう。
何事も、始めるというのは大変です。始めるのも大変だけど、続けるのも大変。そして、終えるのも大変。世の中に、大変じゃないことなんて、ありません。みんな、ほんとによく生きてる。すごいよ。えらいよ。私は世の中の人を尊敬しますね。みんな、どうやっていろんなことを始めたり続けたり終えたりしてるんでしょうか? 私にはさっぱりわからないです。
言われたことを、言われたままに、やっていけたらよいのに。なんで人は、反抗したり、独立したり、離脱したり、したくなってしまうんでしょうか。人は、っていうか、私は、か。私があまのじゃくなのか。
とことん、自分がマイノリティだ、という自覚はあります。華やかなもの、きらびやかなものに、惹かれない。かといって、質素なもの、最低限のもの、が好きなわけでもない。
普通なんです。普通すぎて、マイノリティというか。いや、違うなー、なんか全然言いたいことが言えてないぞ、今日は。
脳内のことをぐるぐるしているからいけないのですね。手で触れるもの、目で見えるもの、耳に聞こえるもの、舌で味わえるものの話をしましょう。
あー。
最近、自転車用に雨の日のためのポンチョを買ったんですよ。駅まで自転車で行くのがものすごく快適で、慣れすぎてしまって、雨の日でもバスに乗るのがめんどくさくなって、それだったら、少々濡れてもポンチョで自転車で行ったほうがいいかも、と思いまして。
なんとなく、ポンチョを着て自転車に乗っているママたちにあこがれもありました。雨にも負けず、自転車に乗る、自転車に乗る以外の選択肢に逃げたりしない、そんなママたちがなんだかかっこいいと思って。
で、ポンチョを買ってみたわけなんですが、着ているときはいいんです。前の部分を広げてハンドルと一緒に握ると、足も濡れない。快適。
問題は、着るときと、脱ぐときです。ポンチョって、普通の洋服と違って、脱ぎ着が難しい…。いつも荷物を置いたり、ぐるぐるまわったり、途中で脱げなくなって前が見えないままじたばたしたり、大騒ぎしています。そのうち、スマートに脱ぎ着ができるようになるんだろうか。
ポンチョの脱ぎ着に慣れたい。しばらくは、これを人生の目標にします。
ばらんばらんでお腹が痛い
書くことがひたすら好き、と書いておきながら、ぱたりとブログへの興味がなくなってしまいました。興味がなくなったわけではない。今もこうして書いているのだし。
ただ、何となく毎日必ずやること、という位置からいつの間にか滑り落ちていた、という感じ。滑り落ちるのに、何の摩擦もなくて、ふと気づいたら、落ちていた。
理由はないです。ただ、ふと書かなくなったという、それだけのこと。
最近の私は、思いとか、意図とか、意志とか、希望とか、期待とか、そういうものを全然当てにしていません。人には行動があるのみ。ブログを書かなかったというのは、書かなかったということで、それ以上でも、それ以下でもない。
やる気というのも信じていない。やる気を出すのではなくて、ただ、やる。ひたすらやる。やれないのは、やらないだけ。できなかったのは、どんな言い訳をしてみたところで、やらなかった、というそれだけのこと。
少し前に恋をした友人からピロンピロンピロンピロンLINEが来てブログが書けない、みたいなことを書きました。その友人は失恋した今でも苦しい思いが続いていて、時間帯によってはピロンピロンLINEがきます。
失恋、というのは彼女の理解であって、それをつらいと思っているのは彼女自身なのだよなー。「今あなたを苦しめているのは誰? 誰も苦しめていないよね? 自分で苦しんでいるんだよね?」と言いたいけど、言わない。彼女を傷つけたいわけではない。
失恋の苦しみから抜け出すのは彼女の問題であって、私の問題ではない。だから、何も言えなくて、「何も言えなくてごめんね」とLINEを返す。
うう、お腹が痛い。今日は会社を出るのが遅くなって、途中でコンビニのおにぎりとゆで卵食べたけど、9時過ぎて会社を出ると、つい「お疲れ、私」って思ってビール飲みたくなるんだけど、今、お酒はやめてるので、まあその代わりに、と思って隣の駅にあるサイゼリアでサラダとソーセージ食べながらトニックウォーター飲んでたのだけど、ソーセージがけっこう脂っこくて、途中で「はっ、これ夜中に嘔吐コースだ」って気づいて3分の1くらい残したのだけど、遅かったかも。お腹が痛い。
とにかくこの年になると、疲れないことを目指すのが健康、って何かで読んだなあ。あーもーやだー、そんなの。どんだけ年をとってしまったんだ、私。っていうか、どんだけ中身が成長してないままなんだ。いつまで若いつもりでいるんだ、私。
人生って、切ないわあ。
書くことがひたすら好き
ずいぶんと早い時間に息子に起こされて…まだ9時前なのか。すごく、ゆったりした時間を過ごしている。ちょっと久しぶりな感覚。
昨日のイラストとデザインの話。
これ、文章に置き換えると、エッセイとエディット、つまり「書くこと」と「編集すること」に相当するのだと思う。
私はずっと編集者として会社勤めをしてきた。教育系の専門雑誌をやっていたこともあるし、教科書や問題集などの書籍づくりをしていた時期も長い。専門家と呼ばれる人々は、知識はあるけれども、それを読みやすい文章とか、魅力的な書籍にする能力は、ない。中には多少はある人もいて、そういう人と仕事をするのはとてもやりやすいけれど、やはり、書くことと、それを商品として仕上げることは、別の作業なのだ。
私は、この編集の能力を、会社勤めでかなり磨き上げたと思う。「人柄はいいけど書く文章がてんでダメ」とか、「専門家としての評価はともかくとしてそつのない文章を仕上げてくれる先生」とか、それはもう、ものすごくたくさんの人と付き合い、大量の文章を、曲がりなりにも商品に仕上げる、ということを、長年してきた。長老のような教授に対して、「どうしてもここの文章は難しすぎると思うんです」と意見して、直してもらうようなこともしてきた。
それは、私の技量だし、今でもその能力を仕事で毎日のように使っているし、いざというときに、その能力をほめてもらえることもある。
ただ、同時に私は、書く人でもあって、書くことが好きだ。自分の思いを、文字にしていくことが好きだ。書きたいことを、伝わるように工夫して、書いていくことに喜びを感じるし、誰に頼まれなくても、全くもって金銭が発生しなくても、こうしてひたすらテキストを書き連ねていくのが、快楽でさえある。たぶん、これはアートだ。ただただ自由な、アートだ。
私は社交的な人間だけれど、人と会うのが本当のところではあまり好きではない。イベントに出かけるのもおっくうだし、旅行にいくのも一人でいいと思う。私が、あまり人に会うのが好きではない、と言ったら、みんなびっくりするだろうと思うくらい、友達も多いし、仕事でつきあう人数も多いのだけれど。
だけどそれは、まわりが私を好きなのであって、私が人間が好きなわけではない。だから、こうしてつらつらと文章を書いている時間は至福だし、誰にも邪魔されない、ものすごく贅沢な時間だと思う。
書き続けよう。ひたすら、思いを言葉にしていこう。私が生きた証として、世界にほんのわずかな爪痕を残すように、文字を書き連ねていこう。
誰にも気兼ねすることなく。自分自身を偽ることもなく。私にとっての真実を、書き連ねていこう。