書くことがひたすら好き

ずいぶんと早い時間に息子に起こされて…まだ9時前なのか。すごく、ゆったりした時間を過ごしている。ちょっと久しぶりな感覚。

 

昨日のイラストとデザインの話。

 

これ、文章に置き換えると、エッセイとエディット、つまり「書くこと」と「編集すること」に相当するのだと思う。

 

私はずっと編集者として会社勤めをしてきた。教育系の専門雑誌をやっていたこともあるし、教科書や問題集などの書籍づくりをしていた時期も長い。専門家と呼ばれる人々は、知識はあるけれども、それを読みやすい文章とか、魅力的な書籍にする能力は、ない。中には多少はある人もいて、そういう人と仕事をするのはとてもやりやすいけれど、やはり、書くことと、それを商品として仕上げることは、別の作業なのだ。

 

私は、この編集の能力を、会社勤めでかなり磨き上げたと思う。「人柄はいいけど書く文章がてんでダメ」とか、「専門家としての評価はともかくとしてそつのない文章を仕上げてくれる先生」とか、それはもう、ものすごくたくさんの人と付き合い、大量の文章を、曲がりなりにも商品に仕上げる、ということを、長年してきた。長老のような教授に対して、「どうしてもここの文章は難しすぎると思うんです」と意見して、直してもらうようなこともしてきた。

 

それは、私の技量だし、今でもその能力を仕事で毎日のように使っているし、いざというときに、その能力をほめてもらえることもある。

 

ただ、同時に私は、書く人でもあって、書くことが好きだ。自分の思いを、文字にしていくことが好きだ。書きたいことを、伝わるように工夫して、書いていくことに喜びを感じるし、誰に頼まれなくても、全くもって金銭が発生しなくても、こうしてひたすらテキストを書き連ねていくのが、快楽でさえある。たぶん、これはアートだ。ただただ自由な、アートだ。

 

私は社交的な人間だけれど、人と会うのが本当のところではあまり好きではない。イベントに出かけるのもおっくうだし、旅行にいくのも一人でいいと思う。私が、あまり人に会うのが好きではない、と言ったら、みんなびっくりするだろうと思うくらい、友達も多いし、仕事でつきあう人数も多いのだけれど。

 

だけどそれは、まわりが私を好きなのであって、私が人間が好きなわけではない。だから、こうしてつらつらと文章を書いている時間は至福だし、誰にも邪魔されない、ものすごく贅沢な時間だと思う。

 

書き続けよう。ひたすら、思いを言葉にしていこう。私が生きた証として、世界にほんのわずかな爪痕を残すように、文字を書き連ねていこう。

 

誰にも気兼ねすることなく。自分自身を偽ることもなく。私にとっての真実を、書き連ねていこう。