真実は明かされない

昨日の夜は久々に仕事が終わらず、夜中まで原稿書きをしてました。ここ以外でも、わりといろいろ文章を書いてます。まあ、書くのが仕事って人は、たくさんいますね。メールでもなんでも。

 

少し前にしてみたチャレンジの話。実は、疎遠になってしまっていた人に、もう一度会えないか、と連絡をしてみたのでした。と書くと、なんだか色っぽい話みたいですが、そんな感じでもなくて、なんというか、仕事と友情とが絡んでしまって、私が仕事を辞めてからなんとなく会いにくくなってしまって連絡を途絶えさせてしまったのだけれど、相手が私のことをどう思っているのかずっと気になっていたので、それで久しぶりに会いませんか、と連絡してみたのでした。

 

連絡が途絶えたとき、私にとっては、連絡が来なくなったのが突然のことで不思議だったのだけれど、後になって、もしかしたら何か誤解があって先方は意図的に私との連絡を断ったのではないか?というのが気がかりでした。

 

会いませんか、という問いかけにはあっさりと、いいですよ、と返事が来たものの、実際に久しぶりに会って、すぐに打ち解けるという感じでもなく、結局、気まずさが残ったまま帰ってきました。明かされた真実!のようなものはなく、意図的に私に連絡をしなくなったわけではないけれど、まあ、たぶんもう、私が感じていた特別な友情みたいなものを、向こうは感じていないのだろうなあ、とそんな感じでしょうか。

 

住む世界が違ってしまったのかな、と思わないではないです。時間もたっているし、お互いの状況も違ってしまっているし、人間性だってそれぞれ変わっている部分もあるのだろうし。

 

変わらない愛とか変わらない友情とか変わらない関係とか、小説や映画の中ではそれがテーマになることが多いですけど、それって、それが珍しいからこそ、作品になっているのでしょうね。現実の世界では、なかなかそうはいかない。みんな、変わっていってしまう。

 

というか、まあ私が変えてしまっているのですけど。なんでこうも、辛抱が足らないのかなあ、と思わないではないです。こらえ性がないというか。粘れない。

 

ここまで来たら、自分を変えるのは無理ですからね。たぶん、このままドアを開け続けるのだと思います。同じ部屋のままでいられない。ここも違う、ここも違う、と部屋から部屋へさまよい続ける。

 

それを自分でよしとしないと、きっとずっと、つらいのだろうな、と思います。自分で自分をダメだと思うのは、つらいので。

 

そして、何枚ドアを開けても、何回住む部屋を変えても、私は私から逃れられないので。

 

いろいろ矛盾をはらんだ文章

おはようございます。昨日の夜、気合をいれたおかげで、よく眠れました。すっきり。あとでスクワットしようと思います。

 

昨日、続けることが難しいと書いたけれど、私にとって、文章を書くことは本当にずっと続いていることなので、これ、なんとかして仕事にならないかなあ、と思っています。楽しくラクしてお金がもらえるって、そんなにありがたいことはないので。

 

もちろん、ラクに書けることが仕事になるほど甘くないってことは、よくよく分かっています。ですが、理想を語るのはタダですしね。あと、そのゴールに向かって考えることもね。いつか、そうなったらいいなあ、と。

 

仕事って、基本的にはいってこい、つまり自分の食べる分だけ稼げばいいのでは、と思うのですが、なんでそういうことになってないかっていうと、自分で稼ぐことのできない人を、社会で支えていかないといけないからですよね。子供や老人、病気の人、障害のある人。

 

「社会」というのをいちばん小さい単位でとらえると、それが家族なのでしょうね。大人は子供を育てなければいけない。子供は老いた親を面倒みなければならない。

 

それさえできない家族を支えるのが自治体であり、さらにそれも大変な自治体を支えるのが国家である、と思うのですが、そのために働けー、働け―、と言われても、働けませーん、すみませーん、という感じ。ホント、自分の稼ぐ分だけでも大変なことなので。

 

もちろん、稼げる人はどんどん稼いでくれたらいいと思います。いい暮らしをしたい人は、すればいいと思います。でも、私は「いい暮らし」というものにあんまり興味がないのですよねー。「幸せな暮らし」とか「豊かな暮らし」はしたいと思うけれど。

 

でも、「いい暮らし」が好きな人にとっては、それが「幸せ」であり「豊か」であるのでしょう。それはそれでよいと思います。私には、人の暮らしをどうこう言う資格はありません。

 

コンビニのサラダが食べられて、夜ゆっくり安心して眠れて、朝起きて好き勝手文章を書いても誰にも怒られない。私にとっては、これが本当に、本当に幸せな生活です。これ以上は何も望まないわ。これを手に入れるまで、長かった。

 

こうして、書いているうちにポジティブになれるときは、ポジティブなときです。当たり前ですが、書いてるうちにどんどん落ち込むときは、落ち込んでいるときです。書いていると、自分の精神状態が如実に分かって面白い。

 

書いて気分が上がることもあれば、書いて気分が下がることもある。文章に罪はない。あなたにも罪はない。書きたければ書けばいいし、書きたくなければ書かなければよい。

 

私の文章だって、読みたければ読めばいいし、読みたくなければ読まなければいいと思います。

 

でも、読んでくださる方には感謝しています。おかげおかげのげで暮らせ、でございます。

 

オムツオムツオムツ。←わかる人だけわかってください。

 

眠るための意気込み

今日は、久しぶりの寝不足で、まいりました。自分の判断が正しいのかどうか、もうろうとして分からない状態で。そんなふらふらの頭で働いて、まともに仕事になっていたのかわかりませんが、日中は眠れないことはわかっていたし、とにもかくにも仕事を進めなければ、明日からがさらに苦しいことは火を見るより明らかなので、まあ、大丈夫、大丈夫、たぶん正しい、いやいやちゃんと正しい、と自分に暗示をかけながら仕事してました。大丈夫か、おい。

 

今も眠いです。早く寝ればいいのに。今日は朝までぐっすりと眠りたいと思います。睡眠、大事です。

 

睡眠と、食事も大事です。が、食事は最近、この年になると、もう1日1食でいいんじゃないか、っていう気がしてきました。以前からすでに朝食は食べていないのですが、お昼ご飯のタイミングを逃したりして、ランチが2時とかになってしまうと、そのまま夜までお腹すかなくて、8時くらいに、どうしようかなあ、なんか食べたほうがいいかなあ、という気がして食べるのだけど、ここでごくごく軽く、夕食ではなく軽食にしてしまうと、たぶんそれが1日の摂取量としては適当で、夜に空腹で寝られないなんてこともなくて、ちょうどいいのではないか、と思います。

 

問題は、食べ始めるとどんどん食べたくなることで、8時くらいに軽く食べるつもりで、ついついそのあともだらだらいろいろ食べてしまうのですよね。だらだら食べ続けるのが健康的なものであれば問題ないのかもしれないですけど、クッキーの類とかを食べてしまうと、これはテキメンに太る。ような気がする。

 

今日も、軽食のつもりで食べたコンビニサラダ2種のあと、枝豆味のハッピーターンを食べ始めたらやめられなくて、「おお、これはまさにやめられない、止まらない、だな。あれ、待てよ。やめられない、止まらない、ってハッピーターンじゃなくてかっぱえびせんだぞ」と、自分突っ込みをしながら、ハッピーターン食べてました。ハッピーターン、おいしいですよね。私、子供のころから大好きでした。

 

えーと、何の話。

 

健康的に暮らす話。

 

今朝、やっぱり運動はしませんでした。寝不足でくらくらしてたので。さすがにできなかった。

 

今日、今からぐっすり寝て、明日の朝、すっきり目覚めたら、スクワットしようと思います。スクワット、欠かさずに毎日ちゃんと続けたら、けっこうな運動になると思うのですが、どうにもこうにも、続かない。数週間で「やらない時期」が来る。

 

こういう波さえなければいい線行くのになー、ってたぶんそれは誰でもみんな、そう。パフォーマンスを出し続けるのが、大変なのです。

 

おやすみなさい。寝るぞっ!

執着を手放す

最初からその存在を知らなかったもの、あるいは自分には無縁のものだと思っていたもの。

 

知識、物体、人間関係、お金、地位。

 

そういうもののうちの何かが、ふとしたことで手に入ってしまうと、人間ってそれに執着してしまうのですよね。

 

なければないで、さみしいとも悲しいとも悔しいとも思わなかったはずなのに。

 

手に入れてしまうと、なくなったときに悔しいと思う。なんとかして手放さずにいたいと思う。なくさない方法を必死で考える。

 

この、執着から逃れたいなあ、と思うのです。執着がみっともないからではなくて、苦しいから。苦しみたくない。安心していたい。

 

穏やかに、健やかに。私の願いはそれだけなのですが、なぜ、それが難しいのでしょう。

 

ふとした心の隙間に、執着が入り込む。過去の亡霊が。描けたはずの未来が。

 

今を、今だけを、見る。今ある事実で、前を見る。

 

体を動かす。頭を動かすときには、手も一緒に動かす。言葉がわいてくるなら、それを口にする。

 

支離滅裂な思考は、形を作らずに心と体をむしばむので。形にして、追い出す。吐き出す。

 

吐き出したら、吐き出す前には戻れない。吐き出すことで、前に進む。吐き出したことで生まれた現実を受け止める。

 

手放す、手放す、手放す。

 

大切なものだけを、手元に残す。そこに、意志の力は働かなくても、描いていた未来とは違うものが現れても、それを見つめる。

 

すみません。寝不足です。本当は、もっと眠りたかった。だけど、早朝からもう一度眠ることはできないと知っている。眠れないと知っているのに、もう一度眠りたいと思って目をつぶる。眠れないのが苦しい。

 

眠りへの執着。健康な生活への執着。きちんと体力を回復した日中への執着。自分でコントロールできる肉体への執着。健やかなセルフイメージへの執着。

 

そういうものが、今、私を苦しめています。あーもう、悔しい!!! 悩みなく、ぐーぐー眠ってしまいたいよ!!! でも寝られないのは私のせいじゃないんだよー!!!

 

体重が増えるのも体型がくずれるのもイヤ。だけど、お腹はすく。ストレスを感じるとなにか食べたくなる。食べることで自己嫌悪に陥るようなことはだいぶなくなってきたけども。

 

あ、もしかしたら、最近あまり運動をしていないので、それでちょっと不健全なのかもしれません。運動、大事。体を動かさないと、メンタルが落ちるのです。メンタルが落ちているから運動できない、となると、ますますメンタルが落ちて這い上がれなくなるのです。

 

うおー。寝不足でつらいけど、スクワットするかー。

 

1000字書いて、だいぶ上がった。いつもお読みいただき、ありがとうございます。皆さまにおかれましても、よい1週間を。

 

映画『8月の家族たち』

ずっと見たかった『8月の家族たち』を見ました。

 

 

想像を超えて、すさまじい映画だった。

 

メリル・ストリープ老いた母親。父親、つまりその夫の失踪をきっかけに、3人の娘たちが集まる。

 

毒親、というレッテルを貼ってしまえば、毒親なのだろう。しかし、レッテルに至るまでの彼女の長い人生と、その半分ほどではあるかもしれないけれど、決して短くはない娘たち3人のそれぞれの人生がある。それぞれに、どうしようもない事情があり、扱いきれない感情があり、必死に駆使する理性と良識があり、ああもう、人生って…という気分をこれでもか、と味わいました。

 

人生って、当たり前かもしれないけれど、生きた分しか味わえない。10歳には10年分の人生しかわからないし、20歳には20年分の人生しかわからないし、もうすぐ43歳になる私には43年分の人生しかわからない。多くの人が70年、80年ということは知っているし、子供が成人したり、孫が生まれたり、老いて病気になったり、ということが高い確率で起きることは分かっているのに、いざ、その時になってみないことには、その人生に対処できない。

 

こんなはずじゃなかったのに、と自分の人生にだって思うのだから、他人の人生に対してだって、どうしてこんなことになってしまったのだろう、と思うのは致し方ないことだと思う。それは、家族の人生でも、同じこと。

 

ままならないのが人生。そして、その人生は、とてもとても、長い。

 

だけど、今日は「映画は終わっていいなあ、私の人生は終わらないからしんどいなあ」とは、あまり思わなかった。

 

この頃やっと、自分の人生が続いていくことに慣れてきた。人生がなかなか終わらないということに、覚悟ができてきた。

 

この3年ほど、それまで思い描いていた人生から大きくそれすぎて、バランスをとるだけで必死だったのかもしれない。

 

なんだか、この道が普通に思えてきた。この道はこの道で、もちろん悪くないし、先を急ぐ必要もないし、逆に必要以上にゆっくり歩く必要もない。

 

たんたんと、歩んでいけばいいのだ。というか、歩んでいくしかないのだ。過去には戻れないのだから。時間は巻き戻せないのだから。

 

ユアン・マクレガーがかっこよかったです。14歳の娘役の女の子、どこかで見たけど誰だったかな。また今度調べよう。

 

おやすみなさい。

 

別れず分かれて暮らす

これを書いているのは早朝なのですが、どうも、いびきの音が聞こえてくる気がします。私は一人で暮らしていますので、これが私の勘違いや幻聴でない限り、別の住居から聞こえてきているのだと思います。

 

その人も一人暮らしでしょうか。家族や同居人がいるとしたら、その人たちは、迷惑していないのでしょうか。

 

今、あまりにも気になるので、ベランダの窓を開けて、確認してみました。思いっきり、マンションの隣の部屋の人がいびきをかいていました。きっと、向こうも窓を開けているのでしょう。それにしても、隣の部屋で、こっちは窓をしめても聞こえてくるいびきって、すごい。

 

もし、自分が一緒に住みたい相手がこんなにいびきをかく人だとしたら、私はものすごくイライラしてしまいそうです。だって、隣の部屋でもこんなに聞こえてくるんですよ。同じ部屋で眠るなんて絶対無理だし、腹が立って、蹴っ飛ばしてしまいそう。

 

一人暮らしが快適すぎて、この先、誰かと暮らすことが想像できない。離れたいのに離れられない、という状況を、うまくやり過ごせる自信がない。

 

生活も一人、仕事もほとんど一人、で行っているので、どんどんわがままになっていますね、私。大丈夫かなー。このブログを始めたころは、一人で生きていくなんてさみしすぎる、とおもってこのタイトルをつけたのに、いつの間にやら、誰かと一緒に生活するなんて大変すぎる、と思うに至ってしまった。

 

私は両親のことが大好きなのですが、両親も、それぞれ一人暮らしをしています。別居です。でも、めちゃめちゃ仲が良くて、二人の住居は車で30分くらいのところなのですが、父はほとんど毎日のように、母のところに遊びにいって、一緒にごはんを食べたり、そこで昼寝をしたりしているそうです。父は生まれ育ったその田舎の家が好きで、母は虫が出たり歩いていけるところにお店がなかったりというその田舎暮らしがイヤで、老後資金をはたいて駅に近いところのマンションを買い、そこに住んでいます。

 

お互い、相手の住みたい場所が嫌いなだけで、相手が嫌いなわけではない、ということです。そこは、きちんと分けている。だから、二人は「夫婦は同居するもの」という常識にとらわれずに、別居してそのまま夫婦でいます。

 

あ、そうか、私も同じなんですけどね。別居して夫婦のままなんですけどね。でも私は、夫とすぐ近所に住んでいますが、これは住んでいる場所は嫌いではないが、夫のことが嫌いだからです。夫のことは、顔も見たくないくらい嫌いなので、ばったり顔を合わせてしまったら、という恐怖といつも隣り合わせではありますが、私はもちろん子供のことも嫌いではないので、あえて近くに住んでいます。

 

物事は、いろいろ分けて考えないと、自分が本当に大切なものを失ってしまうのですよねー。

 

矛盾しすぎておめでたすぎる

今日もまた、もっと休むべきなのか、もっと働くべきなのか、よくわからないまま、日中すこしイライラして過ごしてしまった。

 

しかしです。振り返ってみれば、かなり仕事をしました。このパソコンを、私が買ったのはいつですか? 自分のブログをさかのぼればわかるはずですが、それさえめんどくさい。たぶん今月ですよね。GW過ぎてから、じゃありませんでした?

 

あ、いいですよ、調べなくていいですよ。それくらい、自分でやります。このブログを読んでくださっているだけでもありがたいのに、余計なことにまで時間を使っていただいたら、申し訳なさすぎます。

 

思いつくのは簡単だし、口にするのは簡単なんですが、実際に手と時間を使ってそれをやるのって、めんどくさいものなのです。

 

何が言いたかったかというとですね、このパソコンを買ってから、動画編集ということを始めたのですが、それを駆使して、一つ売り込みをかけてやろう、という商品のパイロット版みたいなものができあがったのですよ。全然具体的に書かなくてごめんなさいね。とにかくこのブログの最重要課題は匿名を貫くということなので、書きたいこともろくに書けないような文章で、ごめんなさいね。

 

謝ってばかりでごめんなさいね。とにもかくにも、働いて、そのパイロット版ができあがったのだから、ちゃんと今日は働いたじゃないか! と、自分を叱咤しているのです。

 

どうにも記憶力が悪すぎて、自分のやったことを忘れてしまうので困ります。ちゃんと働いていたのに、働いたことを忘れて、「ああ、今日もまた何もできなかった…」と落ち込んでしまうのです。しっかりしてください、ほんとに。

 

動画編集、楽しいです。こんなものがあったらいいなー、というのが、自分でできてしまうので、楽しいです。できあがったものの価値を、他人が認めてくれるかどうかはわからないし、さらにはお金を出してくれるかどうかは、まったくもってわかりませんが、とにかく自分が楽しかった、という実感は消えませんので、それだけでも人生もうけもんだと思うのですよね。

 

みなさん、お気づきですか、上の文章の大きな矛盾。動画編集をしたという「働いたこと」はすっかり忘れているのに、動画編集をしたという「楽しかった実感」は消えない、と言っている。

 

事実は、動画編集をした、ということだけで、それが働いたことになるのか、楽しんだことになるのか、すぐに忘れてしまうものなのか、決して消えない実感となるのか、すべては言葉の上でころころ変わるのです。こういう、ほんとに都合のいい脳みその人間は、憎たらしいほど幸せに生きていくのだろうと思います。

 

ごめんなさいね、憎たらしくてほんとごめんなさい。