フリーズとダブル・バインド

昔つきあっていた人が、コンピューターはとにかく高速で物事を処理していくけれど、そのコンピューターが唯一動けなくなるのが、同時に2つの命令が来てどちらを先にしたらよいか分からなくなる時だ、ということを話していて、妙に印象に残っている。

 

妙に印象に残ったのは、人間が、というか私が、動けなくなるのはダブル・バインドのときかな、と納得したので。

 

このダブル・バインドという言葉も別の彼氏が口にしていた言葉でやけに印象に残っていて、私なりの解釈をしているのだけれど、私なりのダブル・バインドとは、例えばこうやって書きながら、「過去にたくさん彼氏がいた女として物事を語る」ことをしながら、「こんな書き方をしたら読者への印象が悪くなるかな、と恐れる」という逆方向の心の指令が出てきて動けなくなること。だった、かつては。

 

今は、そのダブル・バインドが何に基づくものかが分かるというか、自分の中で常に優先順位が明らかになっているので、迷って動けなくなることはない。

 

上の、

A「過去にたくさん彼氏がいた女として物事を語る」

と、

B「こんな書き方をしたら読者への印象が悪くなるかな、と恐れる」

という2つのうち、Bは私の脳内でしか起こらない。恐れていることが事実だとしても、それを私以外の人間が証明する手段はない。そういう時、私はBの優先順位を下げて、Aを優先する。

 

コンピューターのフリーズについて語った彼氏がいたことも、ダブル・バインドの話をした彼氏がいたことも、事実だ。事実を書くことに、恐れはない。

 

私がFacebookで事実ばっかり書くもんだから、「うさぎはそこまで本当のことばっかり書く必要はないと思うよ。うさぎは正直に書いてるだけかもしれないけど、それでうさぎのことイヤな女と思ったり、離れていったりする人もいると思うよ」って言った友達がいたけど、これこそが、彼女の脳内でしか起こっていないことで、私のことをイヤな女と思ったり離れていったりする人がいた、という事実はない。いたかもしれないけど、彼女も私も数としてとらえることはできていない。っていうか、私が困っていないんだから、いいじゃん。

 

で、そんなことを書こうと思ったのではなくて、ですね。

 

今、仕事で残業中なんですが、次に何をやったらいいかが分からなくなってしまったのですよ。やらなきゃいけないことがありすぎて、どこから手をつけていいか分からないときにも、人間ってフリーズするよなー、というのも最近よく考えることでして。

 

何をしたらいいか分からないとき、とにかくブログを書く、というのをこの1ケ月ほどしてきたのですが、はてさて「それでいいのか?」という疑問(脳内にしか起こっていないこと)がわき出てきて、仕事の手を止めてしまったわけです。

 

ブログ書いてるヒマがあれば仕事しろ、って、思うのだけど、じゃあその「仕事」が具体的に何か、ってことが分からないと、人間は動けないのですよねー。

 

ここ数か月、わき目もふらずに仕事してきて、こんな風に思うヒマさえなかったけれど、いろいろ一段落したんだな。ここからは種をまく時期ですよ。がんばれ、私。

 

書きたいことが多すぎる

三連休の最終日、つまり昨日だけど、新宿の大きな書店に行ったのです。休みの日に書店に行くのは久しぶりだったかも。

 

そしたら、ものすごい人が多くて。びっくり。

 

出版不況だとか本が売れないとか言うけれど、こんなに本の好きな人が多いのだなあ、ということに、かなり驚いた。

 

で、ブログを書く人より読むだけの人が断然多いわけだけど、書籍ともなるとその比率はもっと大きいだろうなぁ、と。本を読む人はこれだけいても、それを書く側の人はほんの一握りなのだろうな、と。

 

書いていて、世界の文化遺産のほとんどは、圧倒的な富の格差によって建てられたものだ、と、母が話していたことを思い出した。ピラミッドでも、タージ・マハルでも、ものすごい権力者が、ものすごい数の労働者を動かすことができたから建てることができたのだ、と。

 

それが本を著す人の数と読者の数と、どう関係するのか、よく分からないというか、単に思いついて書かずにいられなかったので書いた。

 

本当は、違うことが書きたかったのだけど、脳のシナプスだっけか? 私の脳内が自由すぎて、制御不能。

 

やりたかったことをやってみた

ここ数週間、「車の運転がしたい!」と思っておりまして、昨日、それを実行してきました。久しぶりの運転で緊張したせいか、なんか今、身体がこわばっている気がする。

 

数年前まで、夫が買ったわりと大きめの車に乗っていました。子供の保育園へのお迎えとか、郊外のショッピングモールに出かけるとか、けっこう頻繁に乗っていて、慣れていたし、車の運転は好きだった。何かを操っているという感覚は気持ちがいいものだし、何より、運転をしている間は子供の相手をしなくていいっていうのが、気分的にすごく楽だったのだと思う。

 

まあしかし、諸々の事情で夫の車に乗れなくなり、このままだとペーパードライバーになってしまう、っていうのもイヤだったし、何かを操るあの感覚も味わいたかったし、気ままに音楽を聴きたかったし、あと、やっぱり子供の相手をしなくていい時間が欲しいなあ、と。

 

子供の相手をしなくていい時間は、数年前と比べたら格段に増えたのだけれど、それでもやはり家にいると子供優先にならざるをえなくて、一緒にいると、それをしてあげられない自分にもイライラするので、精神的には、とにかく離れてしまうのが良い。「見える化」も大事だけど、「隠す化」も大事。本質的な解決は子供が成長して巣立つまで無理だけど、一時的にでも子供から離れる。一時的にでも、子供がいない状態を作る。私にはこれがものすごく大事。

 

だけど、今回いちばん大きな理由になったのは、音楽かなあ。サルサとかレゲトンとか、ラテンっぽい音楽が好きで、聞けるのは主に通勤中にイヤホンで、なんだけど、電車のなかでノリノリになったり、ましてや一緒に歌ったり、できないので。

 

自分の好きな曲がかかってるクラブに行ければ最高だけど、手間もお金もかかるし、目いっぱい楽しむには、たぶん羞恥心を捨てないといけないし、とか、まあ、こんな言い訳をぐだぐだ考えるまでもなく、自動車の車内というのは、好きな音楽を聴いて一緒に歌ったり身体をゆすったりするのに最適な環境だというのが、車の運転をしたい、といういちばん大きな理由だったわけです。

 

で、そのために、カーシェアリングの会員になって、会費払って、車を予約して、スマホをカーステレオにつなぐためのジャックコードも買って、いざ、乗車。

 

今回、2時間だけのレンタルでした。目的地はない。行先も決めてない。とにかく、車を運転して、その間に音楽を聴くこと、それが目的。

 

久しぶりの運転だし、本当は明るい時間にレンタルしたかったのだけど、日中ぐずぐずしていて、それが叶わず、夜の7時から。車種は青いフリード。車の種類とか全然知らないのだけど、青い車、はスピッツファンにとっては嬉しいものです。と思いながらステーションに行ったけど、もう真っ暗で、暗めの青なんて、何色なんだか全然分からない状態だった…。

 

そもそも緊張して、車の色とかかなりどうでもいい状態だったし。初めてのことというのは、恐ろしいものですね。カーシェアリングの仕組みそのものも初めてだったし、車の運転も、少し前まで頻繁に乗っていたとは言うものの、車種が違うとこんなに勝手が違うのかー、と。鞄に入れていた非常用の小さいLEDライトがとても役に立ちました。だってルームライトでは見えないところに、いっぱいボタンがあるんだもん。まず、サイドミラーをうぃーんと横に広げるボタンが見つからない。サイドブレーキがなくてフットブレーキだし。ギアの位置も全然違うし。おたおた、おたおた。

 

パーキングを出られるまで、ゆうに20分くらいは使ったと思います。運転に必要な操作だけじゃなくて、20分くらい使っても、カーステレオのジャックが見つからなかったの!!! わざわざ直前にコードを買ってきたというのに。スマホにつないで音楽を聴くのがこのカーレンタルのいちばんの目的だというのに。

 

しかし、20分も経過すると、さすがに時間がもったいなく思えてきて、ふと、「別にこれ、スマホそのまま聞けばいいんじゃね?」ということにも気づいて、そのままスマホで音楽かけて、ちょっと音量上げて、出発しました。

 

アクセル踏むのにも緊張した~。前に運転していた車と比べると、車体が軽すぎて、おもちゃみたい。小回りが利きすぎて、アクセルもハンドルも、そーっと操作する感じ。車高が、というか、座席の位置が低くて、最初、のぞき込むように背伸びして運転してた。けど、そういうものだ、と思って割り切って考えたら、慣れた。

 

(と、これ書いていて思ったけど、『君の名は。』みたいな身体の入れ替わりのストーリー、あれってきっと、視線の高さの違いがものすごく最初は気になると思うんだよね。見ていなかった世界が見えるというか。私は女性にしては背が高いので、もしかして、背がもっと低かったりしたら、もうちょっとちゃんと男の人を敬う気持ちが強かったのかもしれない…と、本当に関係ないことを考え始めたのでもうやめます。)

 

さて、そんなこんなで走り始めて、とにかく目的もないドライブなので、いちばん慣れている大きな街道をひたすら西へ。思っていたより道が混んでいて、思うようにスピードを上げられなかったけど、走り出してしまえば、ああ、この感覚だったな、と。

 

ちょっとずつ緊張もほぐれてきて、途中、だんだんまわりがトラックばかりになってきて、道路わきにある回転ずしのお店とかが目につくようになって、あー、お腹すいたなー、と。

 

適当なところでなんかちょっと食べて帰ろうか、とも思ったのだけれど、その余裕もなく、走り続けていたら1時間が経過しそうだったので、コンビニに入ってパンを買って、そこでUターンをして、帰路。

 

事前にGoogleプレイミュージックでダウンロードしておいたアルバムをかけていたのだけど、予想以上に好きな曲が多くて、次は歌詞を覚えて一緒に歌える状態にしておこう、と決意。

 

2時間で、かかった経費は2000円弱。映画1本見るのと同じ感じですね。けっこういい感じの趣味なのではないかと。気に入りました。月に1回くらい、やってみようと思います。せっかくカーシェアリングの会員になったし。

 

前野ウルド浩太郎さんの本を読みました

こちらの本です。

 

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

 

 表紙の写真は、著者本人。でしょうね、おそらく。

 

たったこれだけのバカをやるために、どれだけの手間がかかっているのか、と思います。表紙だけじゃなくて、本文中に出てくる写真が、いちいちバカです。「自炊」の写真がコック姿だったり。収入が途絶えて階段で打ちひしがれている「絶望」の写真があったり。

 

サービス精神で自分の写真を撮るのって、時間か勇気か手間か、あるいはそれらの全部が必要なんですよね。いわゆる“自撮り”のように自己満足を狙っているのは、むしろ簡単。写真を見る相手、受け取り手、読者、つまり他者の笑いを狙ってその通りに撮影するって、バカな勢いだけじゃできないと思う。下準備だけじゃなくて、撮ってくれる相手や、タイミングも必要だし。

 

バッタの研究を続けるために、その手段のために、バカをやる。バカができる。そして、研究者であり、本1冊分の文章を書けるだけの頭の良さがある。つまり、本当にバカではない。こういう男の人が、心底かっこいいと思ってしまう。

 

この著者も同じはてなでブログ書いてるんですよねー。婚活中なんですねー。そうなんですねー。

 

d.hatena.ne.jp

 

応援しております。楽しい本を、ありがとうございました。

 

 

読むことと書くことの話

冷蔵庫にクリームチーズがあって、ネット(たぶんツイッター)で「とんがりコーンクリームチーズをすくったツキダシが激ウマ!」みたいな記事を見かけたので、とんがりコーンを買ってきてやってみたけど、実は私はとんがりコーンが好きじゃなくて、いくらクリームチーズが大好きでも、やっぱりとんがりコーンの好きじゃなさをひっくり返すほどにはおいしくなかった。

 

夜中、風の音と、窓にたたきつける雨の音がすさまじくて、うるさくて寝られないと思いながら、これをブログに書くときには〇〇と書こう…と思っていたけれど、何を書こうと思っていたか、忘れてしまった。

 

さすがにこの雨と風では会社に行けないなあ、と思っていたけれど、朝になってみたら風も雨もやんで、晴れている。ほんのちょっとだけだけど、出社する予定。

 

これと言った趣味もない私だけれど、文章を書くのが好きで、よかった。とりあえず、ヒマつぶしになる。

 

文章を書くのが好き、というか、まったくもって苦にならない、というのは、さかのぼると本を読んできたからなのかな、と思わないでもない。これまでのインプットがあったからこそ、アウトプットができるわけで。ある程度、自分の書きたいことを満足に書ける語彙があるからこそ、自分で気持ちよくて書き続けてしまうのだよね。

 

といっても、私のインプットは子供のころからの総量で何とかなっている感じ。テレビをあんまり見ちゃダメって家に育ったので、本を読むしかなかったんだよなー。両親とも本を読む人たちだったので、本を読むのがごくごく自然なことだったし。

 

では大人になってから、難しい本を読んできたかというと、それはもう、全然ダメです。私にいちばんヒットするのは、ベストセラーになる新書レベル。私、あまり小説(物語)を読まないかも。最近は、文庫コーナーにいっても、全然よみたいと思えない。

 

こんな感じなもんだから、少し前まで変態レベルで本が好きな人たちばかりが集まる出版社にいたので、自分の本好きなんて全くもって大したことないと思っていたけれど、それでも世間一般レベルからしたら、まあまあ読む方、なのだろうな。

 

現在中1の長男は、勉強レベルはごく普通。中学生になって、成績がばっちり数字で見えるようになって、残念ながら「頭がいい」と世間に自慢できるほどではないけれど、だからといって、心配するような数字ではないし、何より私は“この子はバカじゃない”と安心している。偏差値とか成績は数字だけれど、頭がいいとか悪いとかは感覚だから、頭がいいと思っちゃえば、それは頭がいいってことなのだ。息子は決してバカではない。

 

そんな長男が、小6のときだったか、私に「母さんさ、オレに勉強のことで『本を読みなさい』しか言わないよね。オレ、今のところそれ、6割くらいしか信じてない」って言ったことがあって、私はうれしかったんだよね。あ、そうか私、息子に勉強しなさいって言ってないんだな、ってこともうれしかったし、息子が6割それを信じてくれてるってことも嬉しかった。そして何より、私の「本を読みなさい」と言っていることが、彼の心の中に残っていることがうれしかった。

 

自分の子供に限らず、人が、自分のやってることで幸せならそれでいいのだけど、お金がないとできない趣味の人は、大変だろうな、と思う。楽器とか、ゴルフとか? というか、そもそもそういう人たちはお金があるからそういう趣味を始めることができるわけで、そういう人たちからしたら、「お金がなくてもできる趣味しかない人はかわいそう」って思ってることでしょう。ははは、そうですね。お金はあった方がいいですね。失礼しました。

 

お金があったら何をしたいって、旅をしたいです。世界のいろいろなところへ、自分の身体を運んでみたい。自分の肌でその土地を感じたい。自分の目で異国の生活を見てみたい。

 

今のところ、興味が国内に向かわなくて、行ってみたいと思う場所は外国ばかりなのだけれど。

 

3年に1回くらい、海外旅行のできる人生が理想。そのために、500円玉貯金と、ユーロ建ての積み立て貯金をしている。今回、抑えきれずに前回の海外旅行から2年でまた別の国に行ってしまったけれど、次は3年後が目標。3年たてば、500円玉貯金も渡航費くらいになることが分かった。がんばって貯めよう。働こう。

 

さらにめっちゃ理想を言うと、ブログからの収入で本を買えるくらいになったらいいなあ。昨日つらつら思い出していたけれど、数年前に別のブログをせっせせっせと書いていたころ、毎日500くらいのアクセスがあったのだった。それは、テーマを絞って、読者対象もとても明確で、伝えたいことがしっかりあって書いていたブログだった。そのころはまだブログでおこづかい稼ぎとか、そこまでメジャーじゃなかったんだよなあ。

 

あ、さらに思い出したけれど、それより前に、私、読書ブログを書いていたこともあった。そうだよ、私、めっちゃ本を読んできたんだよ。そのころ、私は2人目の子供を産んだ後で、家から出るときは、いつも幼児(長男)と赤ちゃん(娘)連れで、世間を私を「母親」としか見なかったけれど、育児書や絵本ばっかり読んでるわけじゃありません!みたいな気持ちで、私はこんな本を読んでます、って書くことで、母親だという以前に、私はこんな人間です、ってことをアピールしたくて、読書ブログ書いてたんだよな。

 

そのころ、猛烈に「こんな本を読んだよ!」ってアピールしたかったことを覚えている2冊。

 

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

 

 

 

暗号解読〈上〉 (新潮文庫)

暗号解読〈上〉 (新潮文庫)

 

 

 

暗号解読 下巻 (新潮文庫 シ 37-3)

暗号解読 下巻 (新潮文庫 シ 37-3)

 

 

2冊じゃなくて3冊になっちゃったけど。両方とも2007年か。おかしいな、娘が生まれた年と合わないな(笑)。

 

脳はいつでも嘘をつく。過去の順番とか、勝手に入れ替えて、好きなストーリーを作っちゃうんだよねー。困ったもんだ。

 

弟よ!

本日4回目の投稿。私、ヒマなのかな? うん、間違いなくヒマだね。

 

少し前に、雨宮まみさんの『女子をこじらせて』を読んだ。今さら。

女子をこじらせて

女子をこじらせて

 

 

なんでこの話を持ち出したかって、今、小4の娘が、遊んでほしくてつきまとう小2の弟がうっとうしくてうっとうしくて、泣くほど嫌がっていて、雨宮まみさんが「雨宮まみの『弟よ!』」というブログを書いていた、というのをこの本の中で知ったところだったので、自然につながってしまいました。 

 

私も子供のころ2歳年下の弟が嫌いで嫌いで、心底いなくなってほしいと思っていて、ちょうどこれくらいの年齢だったなあ、と。

 

弟って、お姉ちゃんに片思いするものなんじゃないだろうか。それって、兄弟で家族で子供だから、その関係性が数年後に解消してしまうけれど、もしかして、血縁関係じゃなくて、成人で、ふとした出会いがあって、男性が年上の女性に片思いしたら、同じような感覚なんじゃないだろうか。家族じゃなくて成人だから、無理やり「僕と遊んでよ!」と泣き叫びはしないだろうけど、遊んでもらってうれしいとか、知らない世界を教えてくれるとか、尊敬しつつ守ってあげたいみたいな気持ちが両方混ざったみたいな、その片思いを、うまくいなすような姉さん女房のカップルだと、うまく行くんじゃないだろうか。

 

姉弟関係と、破綻しない夫婦関係に興味のある私は、そんなことを思いながら、日曜日の午後を過ごしています。

 

 

 

名付け行為に関する駄文

本日、3回目の投稿。

 

プロフィールのアイコンを変えました。本人ですよ。3歳のときの。カゴに入った白いうさぎを抱っこしています。そのころ、ウサギの赤ちゃんを飼い始めたのですって、アルバムによれば。全く記憶にはありませんけどね。

 

同一人物で加工していない写真(紙焼きだからかなり劣化してるけど)というのは事実だけど、ここから39年分の時間を想像で補うのは、かなり難しいでしょうね~。今の私は42歳で、身長170センチちかくあるデカいおばさんですからね。

 

ちなみに、ニックネームとして使った「うさぎ(かも)」というのは、このはてなブログを始めたころ、なんだかヒマで、ヒマっていうのはさみしいってことなのかな、と思って、「ウサギはさみしいと死んじゃう」っていう都市伝説を思いながら、「さみしくなりたくないし、死にたくないので、誰かかまってやってください」という意味で「うさぎ」にしようかと思ったけど、いや、別に私、たぶん死なないし、そもそもさみしくもないよな、ってことで、(かも)を付けました。うさぎ、かもしれない。でも、たぶん違う。

 

架空の名前。加茂うさぎ。ペンネームっぽい?

 

「名前をつける」という行為が、けっこう好きだ。自分にペンネームを考えるとか、そうそうないかもしれないけど、イベントのタイトルとか、団体名とか、考えるのも好き。あー、過去には一世一代の名付け行為である、自分の子供に名前をつけるという大イベントもあったなー、そういえば。ここから先は、家族の人権を配慮して自粛します。

 

名前をつけてやる

名前をつけてやる

 

 

ウサギと言えば、少し前に子供たちと「ウサギを飼いたいね」って話をしていたのだった。そしたら、名前はモコちゃんとつけるつもりだった。モカ色のモコちゃん。しかし、ずぼらな私のことだから、それこそウサギを死なせてしまいそうな気もする。

 

前にも書いたけど、私、ウサギというよりマグロだわ。ヒマだからって、1日3回もブログ書かなくてもいいのにね。

 

usagikamo.hatenablog.com

 

そして、この投稿のタイトルがものすごく付けにくい。タイトルが付けられないって、企画の趣旨がしっかりしてないってことなんですよ。商品的には。すみませんね、こんな雑な文章ばっかり書き連ねていて。