今の私がやりたくないこと

最近、自分に対しての認識があらたまりつつある。認識があらたまっているのか、本当に自分が変わっているのか、それはどちらなのか分からない。とにかく、自覚する自分、というものが変わってきているのを感じる。

 

私は、自分で自分をよくしゃべる人間だと思っていた。おしゃべりが好きで、話して人を楽しませるのが好きだと思っていた。

 

実は違った。あるいは、さいきん違ってきた。

 

私はしゃべるのが好きではない。そうではなくて、しゃべったら面白いだろうということを、自分が経験するのが好きなのだ。

 

たとえば。

 

夏にした旅行の話を、誰かに聞かせたいと思わない。「旅行の話、聞かせてください!」と言われても、「え、旅行は面白かったけど、あなたが旅行の話を聞いて面白いと思うのかどうか分からないし、私も旅行の話をするのは面白くないです」と思ってしまう。

 

もちろん、話して面白いと思ってもらえるという確信があるなら話す。そこには二つの可能性があって、経験そのものが面白かったという可能性と、してきた経験を面白く話す技術があるという可能性だ。

 

たとえば。

 

スカイダイビングをしたという人に対して、「どうだった?」と聞いて、「怖かった!」と言われたら、やっぱり怖かったんだ、と思うし、「楽しかった!」と言われたら、やっぱり楽しかったんだ、と思う。これは…話す技術がないと、いくらスカイダイビングという経験が大きくても、話としては何にも面白くないパターン。

 

なんていうか…これは…私が話すのを面白いと思えないという話ではなくて、私が誰かの話すのを聞いても面白いと思えない、という話だな。

 

旅行でも何でも、「どうだった?」と聞かれるのも嫌い。「どうだった?」と興味をもってもらえるくらいには大きなイベントだったり経験だったりするわけだから、一言で言えるわけないのだよ。あえて、正確に自分のなかでどう解釈したかを話すとしたら、「経験した直後は〇〇と××という感情が入り混じっていた感じで、肉体的には△△だなあと思っていて、でもその間もずっと□□だったんだけど、肉体の△△を感じているうちに〇〇のことは忘れていって、一緒に行った友達が××だねーって言うからホントだねーって話してたけど、でも次の日にはやっぱり〇〇かなあ、って感じになってきて…」っていう感じで、一言で、言えないし、こんな風に話したところでめんどくさがられるだろうな、ってことも、わかる。

 

旅行のことを、人に話すのがめんどくさい、と思うようになってきたのと同時に、書き留めておくのもめんどくさくなってきた。昔は、経験することを必死に書き留めていた。旅行にいって、たくさんのことを経験すると、夜にそれを書き留める時間が足りなくて困るくらい、経験するために旅行してんだか、日記を書くために旅行してんだか、分からない感じだった。

 

結局、今の私は自分が今という今を味わうことが何より大事、ということに尽きるのだと思う。他人との共有や、未来の自分への記録よりも、今の自分の感覚が、すべて。

 

おやすみなさい。