コミュニケーションを細分化する

よっしゃ、今日はあの話を書くぞ、と意気込んでいたのですが、何を書こうと思っていたか、忘れました。だったら書かなくてもよいかとも思うのですが、書くと毎回何人かの方はスターをくださるので、それが嬉しくて書いてしまいます。

 

私の文章が好きでスターをつけてくださる方々が、私の描いた絵を気に入ってくださるとは限らないし、私の声を心地よいと思ってくださるとは限らないし、私の顔を見るに堪えるものだと思ってくださるとは限らない、と思っています。

 

先日読み終わった川村元気世界から猫が消えたなら』に、海外旅行から帰る飛行機の中で、となりにいる恋人と電話で話すことができなかったために別れた、みたいな描写が出てきました。読んだときはなんのこっちゃ、と思いましたが、今になって、なんとなく、わかる気がします。

 

なんとなく、友達と、気になる異性と、職場の同僚と、LINEでチャットするみたいにやりとりする時間が、私は好きです。が、その人と電話をしたいかというと、そんなことわざわざしなくていいし、したくもない。というか、絶対イヤ。

 

コミュニケーションというのは、テキストや情報の交換ではなくて、時間を共有することが目的である場合があって、それはその相手との組み合わせによって、媒体が何が心地よいかというのは無限にバリエーションがあるのだと思います。

 

私の母親は、自分の恋愛遍歴を娘の私によく語る人でしたが、彼女が高校生のときだったか、文通しているような交際相手がいて、手紙を書いている間は、会いたいな、会いたいな、と思っていて、彼からの手紙を読むと、ステキな人だな、早く会いたいな、と思うのに、いざデートをするとつまらなくて、早く家に帰りたいな、早く家に帰ってこの人に手紙を書きたいな、と思っていたのだそうです。今になって、なんとなく、わかる。わかるよ、お母さん。

 

電話で話すのがここちよい相手、チャットのようにテキストのやりとりをするのが楽しい相手、食の好みが近くて何時間でも一緒にお酒を飲めるような相手、何を話すでもなく一緒にいて幸せを感じる相手、スポーツで対戦するときに生きる喜びを感じる相手、ただただ見つめているだけで数時間が過ぎてしまうような相手、その人の奏でる楽器の音色に酔いしれてしまう相手、いろいろいると思います。おそらく、すべてが同じ相手でなくてもよい。というか、永遠にすべてを担ってもらうなんて、無理だわー。自分だって、担えないし。

 

で、私がこれまで面と向かっていちばん話していて楽しかった異性って誰かなー、と考えて、なんか、誰と話しても全然楽しくなかったわ、むしろお前らみんな私の話でさんざん楽しんだだろーが、という気がしている。傲慢なおばちゃん。

 

おやすみなさい。