時間と父親の話

人を動かすのに使えるものは、お金、言葉、体の3つかと思っていましたが、もう1つあるかな、ということに気づきました。それは、時間。

 

お金と言葉と体はそれぞれ足し算もできるけど、それに、時間をかけたら最強。

 

(お金+言葉)×時間

例:(家賃+挨拶)×契約期間

 

(言葉+体)×時間

例:(セリフ+演技)×上映時間

 

言葉×時間+お金

例:くどき言葉×3年+婚約指輪

 

みたいな。

 

なんだけど、時間だけを使うことも、もしかしたらできるのかなー、って。

 

「1年間だれかを思い続ける」とか。「忘れていたへそくりが出てくる」とか。

 

何も行動することなく、時間が効果的に感情を動かしてくれることってあるよなー。

 

だけど、時間がいちばん得意なのは「忘れる」ことでしょうね。何の行動も見返りもなく、1年間だれかを好きでいられるのは難しいし(あ、私の場合は、ですけど)、へそくりのことってなかなか忘れられないし。

 

だからこそ、時間の効能が逆に働いたときというのは、うれしかったり、喜ぶことができたり、するのかなー、と。

 

このブログも、大したことは何にも書いてないですけど、とりあえず時間だけは使っているというか、まー、よく続いていますね。大したことを書かないから続けられるんですよね。

 

私は前向きな人間ですけど、いつもいつも前向きなわけではなくて、そういう「前向きキャラ」で書かなければならないというのは、非常にしんどいです。真面目な人間だと思っているけれど、ふざけることもあるし、難しいことを書きたいときもあれば、くっだらないことを書きたいときもある。

 

そして、いつものように話が脱線してますね。

 

時間の話。

 

1日は24時間。これだけは誰にも平等だ、と父親から言われてて育ちました。「人間が平等だなんていうのはうそなんだ。生まれながらにして、お金のある家に生まれる人もいれば、お金のない家に生まれる人もいる。運動能力のある人もいるし、お父さんみたいに走るのなんて大嫌いで体力には全然自信のない人間もいる。かっこいい人もいればぶさいくな人もいる。だけど、1日が24時間だっていうのは誰にも平等なんだ。その24時間をどう使うかで、どんな人間になるかが決まるんだ」って、幼いころに言われました。

 

そんな父さんは、小説家になりたかったのだそうです。今なら、いくらでもその発表の場があるんだから、書いてみればいいのに、と思います。きっと、書けないよ。めーちゃめちゃ本を読んで、めーちゃめちゃ頭のいい父さんだけど、無から文字を生み出すうことでいえば、私のほうが数十倍、経験があるから。書けるのは、むしろ私だと思う。

 

ふふふ。パパ、大好き。(なんの話だっけか?)

爪の話を書くつもりが

爪のことを書こうかと思います。キーボードに置いた手を見ていて、思いつきました。いつも、脳内のことを、だらだらと垂れ流すだけなので、脳の外にあるもの、そして、目できちんと見えて、触れて感触の確かめられるもののことを書こうかと思いました。

 

私の手は大きいです。女性だけれど身長が170センチ近くあるという大柄な体格なので、手も大きくて当然と思われるかもしれませんが、そんなことはありません。手足が長く、手も大きいのです。手足が長いというのは自慢です。私より3センチほど背が高い友人は、手足が短くて、手も私より小さい。

 

この、身体のバランスのことを考えると、いつも思い出す人物がいて、昔の会社で一緒に働いていた、15歳ほど年上の男の人のことなのですが、ものすごく紳士で、言うことも面白くて、読んでいる本のセンスとか、休日の趣味とかも素敵な人で、仕事もできて完璧にかっこいい、と言えるくらいかっこよくて、あ、顔も好きでした。メガネをかけた知的な感じの人でした。

 

が、この人、身体バランスが非常に悪い人だったのです。顔が大きくて、手だけ長くて、足が短い。背は低くないのに、顔が長いので肩の位置が低く、足が短いので腰の位置が低いという、なんというか、パーツは悪くないのにバランスですべてが台無しになっているという、とても残念な人でした。残念な人、とまとめては失礼ですね。とにかく、かっこいいけどバランスが悪い、バランスが悪いけどかっこいい、そんな人でした。

 

でも、その人のことはすごく好きでしたけどね。恋愛的な意味ではなく、人間として。一緒に仕事していて、とても楽しかったし。今でも年賀状のやりとりをしています。

 

すでに600字も書いてしまいましたが、爪の話がいっさい出てきません。誰も私の爪の話なんて期待していないのでいいと思うのですが。

 

私は爪に何も装飾をしていません。伸びたらすぐ切る。昔、ピアノを習っていたことが関係するのかどうかわかりませんが、1週間に1回は爪を切らないと気持ちが悪いのです。旅行も、5日を超えるようなときは爪切りをもっていきます。

 

昔はネイルを塗ったり、すこし伸ばしたりしていた時期もあったけれど。今はもう、飾る気はさらさらないです。指輪もしていないし。

 

でも、たぶん指先って見られているのだろうなあ。女性らしい手先かというと、全然そんなことないです。醜くはないつもりだけど、一言で形容するなら、たぶん、たくましい手、という感じだと思います。

 

右手の人差し指には切り傷の跡があります。小学生のころに、缶詰の切り口で切りました。私のこの傷跡を、覚えていてくれる人は、世の中にいるのだろうか。私以外にこの傷跡を見て、これが私の右手だと認識できる人はいるのだろうか。

 

いないような気がする。私だけの認知にもとづく、私だけの身体。

 

ぜんぜん、爪の話じゃなくてすみません。右手の人差し指に傷のある中年女性を見かけたら、「もしかしてうさぎさんですか?」と声をかけてみてください。

アドリブで生きていく

自分と他人を切り離す。切り離しつつ、相手の立場に立つ。

 

人間関係を良好に保つ秘訣も、読みやすい文章を書くのも、基本は同じかな、と思います。

 

自分と相手は違う。ここが大前提。これが押さえられていないと、何も始まらない。

 

と、ここまで書いて、文章のことを書くか、私の破綻した夫婦関係のことを書くか、迷いが生じています。

 

文章であれば、ここで考えるべきは読者のこと。読み手はどちらを読みたいか。まー、「文章の書き方読本」の中で、筆者がいきなり自分の失敗した結婚生活のことを語り始めたら、読者はふつう「なんじゃこりゃあ!」って思いますよね。

 

そこが、自分ファーストのブログのいいところ。

 

いいところ? ほんまかいな。いいところなんだか、悪いところなんだか。

 

こんな自分ファーストのブログにお付き合いくださっている皆さま、本当にありがとうございます。うさぎはこれからも自分ファーストで突っ走ります。

 

前にも書いたかもしれないけれど(と、ここでまた話がめちゃめちゃ脱線する)、以前、気の置けない友人から、「うさぎさんを見てると、だんなさんとも別居してるし、彼氏はいないし、だれからも愛されてないのによくこんなに前向きでいられるなあと思う」みたいなことを言われました。わはは。この人はこんなことを言ってくれる時点でめちゃめちゃ私のことを信頼してくれてるし、私の自分好きをしっかり理解してくれてるし、私は今でもこのせりふがおかしくて、ときどき思い出しては楽しんでいます。

 

自分と相手を切り離す。

 

私は、結婚生活でこれができていなかったなー、と思います。自分と相手をごっちゃにして、とにかく自分のことはないものとして扱ってきた。カウンセラーには「共依存」だったと言われました。

 

子供のことでさえ、自分とは別だとわかっていたのに。夫のことは、私の人生を捨ててでも、大事にするべき人だと思い込んでいた。

 

はあ。

 

過去のことをぐじぐじと書くのはやめよう。なんだか今日はまた、書き始めたときとどんどん気持ちが変わって、書こうと思っていたことからもどんどん離れてしまった。といっても、何を書こうかなんて、いつも考えずに書き始めているのですが。

 

ジャズのセッションってこういう感じなのでしょうかね。即興で曲を作り出すとか、できない人間にとっては神業としか思えないのですが、できる人にはそれができるわけなので。きっと、毎日毎日、音楽に触れている人はそれができるようになるし、毎日毎日、お芝居のけいこをしている人は役者同士、あうんの呼吸でアドリブができるようになるのでしょうね。

 

あー、ほんとに私は何を言い出すのか、まったくわかりません。即興で人生を生きている。とにかく今週も1週間、生き延びた。おつかれさま、私。

 

大切にする順番

おはようございます。なんだかとても忙しいです。忙しい、忙しい、と言っている人を、私はあまり好きではありませんが、今、私はたぶん確実に忙しいです。

 

昨日の夜、次男となんだかたくさん話をして、「お母さん、お風呂入らないの?」と言われ、「入ってるよ」「いつ?」「朝」「なんで夜には入らないの?」「めんどくさいから」「ええええ、そうなの?」「このお母さん、めちゃくちゃだよね」「まあ、いいんじゃないの」という会話がありました。

 

まあ、いいんじゃないの、と母親のことを許してくれる次男がすごいな、と思います。ああいうお母さんがいい、こういうお母さんがいい、だれだれちゃんのお母さんはすごい、だれだれくんのお母さんは優しい、とか言わず、この私を、家から出てしまってほとんど何も母親らしいことをしていない母親を、まあ、いいんじゃないの、と認めてくれる次男よ、ありがとう。

 

以前にも、娘に「◎◎ちゃんのお母さんはいいね、優しくて、いいお母さんだね。このお母さんはごめんね。料理も苦手だし、何にもしてあげないお母さんでごめんね」と言ったら、「ええ、お母さんは料理つくらないだけで、普通にいいお母さんだよ」と言ってくれたことがあって、まー、そのときは本当にありがたいことだな、と思いましたね。

 

きっとそのうち、よその家庭と、自分の家庭環境を比べて、不満や不平や、疑問やもしかしたら、怒りとか悲しみも生まれてくるのかもしれませんが、それはそれで、それらを受け止められる年齢になったからこそ生まれてくる感情だと思うので、私はそれに真摯に向き合うだけかな、と思っています。

 

私たち夫婦の状況を、子供たちはとても的確に理解していて、次男は、1年生のときだったか2年生のときだったか、「お父さんも、お母さんも、大人のくせに仲悪くなりやがって」と言っていたので、笑ってしまった。

 

私はわがままな人間だし、いつも自分ファーストだし、自分を満足させることしか考えていないけど、だけど、それが常にいつも100%の私ではなくて、我慢するときにはするし、誰かを優先させるときにはするし、その瞬間には私より大切だという人のために頑張れることだってたくさんある。

 

それでもやっぱり、自分が犠牲になっているとか、自分に嘘をついているという状態だと、力を出せないということはあると思うのですよね。

 

まずは自分。自分の次に大切な人。大切な人の次に、まわりの人。私の順番は、これです。

 

間に合った

さて、あと8分で1000字が書けるかどうか。今朝、いちど投稿をしたので、連続日数が途絶えることはないけれど、どうせ今日のうちに書き始めたのなら、今日のうちに投稿まで済ませてしまいたい。そして、誰に決められたわけでもないけれど、1000字のノルマを達成して、投稿したい。

 

迷ったら、たぶん時間切れ。今朝、もやもやしていたことの続きを書こうかと思うけれど、もやもや考えていたら、1000字書けないので、吹っ切る方向で。そう、文章も、気持ちも、迷っている時間はもったいないのだ。吹っ切る。忘れることはできないけれど、忘れる努力をする。少しずつ、少しずつ、自分の気持ちを離す。それ以外のことを考える時間を増やす。

 

それでも考えてしまう自分を責めない。忘れることはできないのだから。知ってしまったこと、経験してしまったこと、気づいてしまったこと、すべて、過去に戻すことはできないのだから。

 

そして、人は人で、ずっと同じでい続けることなんて、できないのだから。何を誓っても、どんな金品を使っても、いくら制度で縛っても、人は変わってしまうのだから。

 

私が、このブログを書き始めたころと、どれだけ心境が変わっていることか。まだ1年は経っていないけれど、去年の8月の終わりに書き始めたころ、どんなことを書いてたかって、読み返すと自分で笑ってしまうほど。血迷っていた、と、今になっては思うけれど、そのときは、必死だったのだし、真剣だったのだし、それしか正解が見つけられなかったのだし。

 

きっと、今、こうしていることだって、今、こんな風に考えていることだって、数か月もすれば、「あのときはどうかしていた」となるのだろう。過去においての現在と、今から振り返った過去は、必ずしも同じではない。今、自分がいるこの状況と、未来から見た今とでも、全然違っているのだろう。

 

人間の解釈はどんどん変化するから。日々、刻刻の体験によって、どんどん上書きされていくから。次々に影響を受けるから。

 

どんな影響を受けるか、どんな記憶を脳に残すか、それを選ぶことができるとしたら、自分を幸せにする体験を選びたい、とは思う。けれど、それさえも、今考えて選ぶ体験と、未来から見て、あのときあれを選んでおけば、と思う体験は、違うかもしれない。

 

だけど、それを言っても詮無いこと。人は一瞬一瞬を、そのときしか生きられないのだし、過去は変えられず、時間は前にしか進まないのだから。

悩みのドアを開ける

人間関係は、ガラス玉なのか。いちど手放して落としてしまったら、もう割れてもとには戻らないのか。

 

先日、久しぶりに会って、なんだかぎこちないまま帰ってきてしまった人のこと、私はやっぱりもう一度、仲の良かったことに戻りたい、と思っているようで、あきらめがつかず、また連絡していいものなのかどうなのか、なんでこんなにもやもやするのか、悩ましい。

 

新しく始めた仕事で分からないことがあって、その人の専門分野なものだから、その人に聞くのがいちばん私にとっては簡単で確実な方法なのだけど、それさえ向こうが迷惑に思っていたら…と、ぐるぐる余計なことを考えてしまう。

 

特別な感情がなければ、さらっと、何も考えずに、連絡できるのに。だけど、この前に会ったときの感じからして、向こうはもう私に変な義理みたいなものは感じていないだろう。超絶忙しいのは分かっているし、わざわざ私のために、お金にもならない質問に答えるのは時間の無駄だと思うかも。

 

たら、だろう、かも、と、不確実なことばかり考えていても仕方ない。聞いてみなければ答えは分からない。分からないからこそ、この前、勇気を出してもう一回会ってみた。会ってみて、答えが出たはずなのに、私はまた、同じことでぐるぐる悩んでいる。

 

このドアを開けたら苦しみから逃れられる! このドアを開けたら悩みが晴れる! と思って、ドアを開けることは得意なのに、開けたドアの先で、また新たな悩みを見つける…それが私だ。学ばないなー。

 

仕方ない。人間、そう簡単には変わらないので。私はずっと、こんな私と付き合っていくしかない。

 

あ、そうか。仕事のことを聞こうとしているのも、口実に過ぎないのだよなー。聞ける人は、他にもたくさんいるし。逆に、この前、別の人から誘われて、「ちょっと仕事のことで相談したいこともあるので」って言われて一緒に食事したけど、「それ、絶対私じゃなくてもいいですよね? っていうか、むしろそれ、私には何の知識もない話ですよね?」っていう案件だったし。

 

まー、そんなものです。人間関係なんて、すべては一方通行で、「通じた」とか「分かり合えた」と思っているのも、しょせんはその人の思い込みにすぎないのです。

 

人間が分かり合えるなんて幻想です。なまじ言葉があるから、人間は誤解にもとづく社会を作り上げてしまった。

 

言葉がなければ私はいっさいの仕事ができなくなりますが(まあそれは誰でもそうか)、言葉があるがゆえの不幸って、あるよなー、と思います。

 

もっと、動物的に生きていこうっと。

 

キーボードが大好き

過去と他人は変えられない。変えられるのは未来と自分。

 

そう分かってはいるものの、他人を変えたい、過去を変えたい、と、ぐじぐじ悩むのが人間というもの。変えられるはずの自分だって、ままならないのだから、もう、人生なんてほんと、ままならなさの塊みたいなものです。

 

こっちがどんなに心を砕いたとしても、相手がどんな風に思うかまではコントロールできない。親切を、うれしがってもらえるか、うっとおしいと思われるか、それは相手にしかわからない。

 

さっきまでうとうとしていたので、なんだか頭がもうろうとします。なんで、最近はこう、いろいろなことでペースが乱されているのか。悩ましい。

 

決まり切った毎日だとつまらなくて、違いすぎる毎日だと不安になるのだから、勝手なものです。勝手に一喜一憂している。落ち着け、私。

 

思い出しました。うとうとする前に、ブログ書いたら、この仕事だけやってしまおう、と思っていた書類があったことを。うとうとしていたおかげで、ブログ書くのも遅くなったし、なんだかもう、たぶん書き終わった時点でめっちゃ眠いし、なんなら今もすでに眠いし、仕事はしないだろうなー。

 

精神世界のことじゃなくて、現実的に、物理的に、今日、何をしたか、考えている。考えているけれど、思い浮かばない。頭が働かない。あ、そうだ。少し前からまた膀胱炎になって、薬を飲んでいるのだった。体力が落ちているのかも。

 

冷蔵庫にレタスが入っている。レタスがあると、幸せ。とりあえず、野菜が食べられる幸せ。

 

明日は何を食べようか。今日、現実に行ったことを考えていたはずなのに、明日のことを考えている。なんだか、酩酊しているみたいだ。まったくもって酔っぱらっていないのに。

 

あー、やろうと思っていて、できなかったことを、また1つ思い出してしまった。落ち込むなー。今日できたことじゃなくて、できなかったことを思い出して、凹むなー。

 

自分で書いていて、支離滅裂で、よくわかりません。あ、思い出した。今日、仕事しながら、人様の文章を直す仕事の続きで、読みながら頭のなかで考えたり、鉛筆でコメントを書いたりしているときには、どうしたもんかなー、ともやもやしているものが、Wordの画面で「こうこうこういうことでしょうか」「こうこうこういう書き方に変更してはいかがでしょうか」とキーボード入力していると、相手に伝えたいことがさらさらと言葉になっていく感覚があるのですよねー。

 

やっぱり私は、キーボードとの相性がいいらしい。

 

ちょっと目が覚めてきた。でも1000字となったので、寝ます。おやすみなさい。