悩みのドアを開ける

人間関係は、ガラス玉なのか。いちど手放して落としてしまったら、もう割れてもとには戻らないのか。

 

先日、久しぶりに会って、なんだかぎこちないまま帰ってきてしまった人のこと、私はやっぱりもう一度、仲の良かったことに戻りたい、と思っているようで、あきらめがつかず、また連絡していいものなのかどうなのか、なんでこんなにもやもやするのか、悩ましい。

 

新しく始めた仕事で分からないことがあって、その人の専門分野なものだから、その人に聞くのがいちばん私にとっては簡単で確実な方法なのだけど、それさえ向こうが迷惑に思っていたら…と、ぐるぐる余計なことを考えてしまう。

 

特別な感情がなければ、さらっと、何も考えずに、連絡できるのに。だけど、この前に会ったときの感じからして、向こうはもう私に変な義理みたいなものは感じていないだろう。超絶忙しいのは分かっているし、わざわざ私のために、お金にもならない質問に答えるのは時間の無駄だと思うかも。

 

たら、だろう、かも、と、不確実なことばかり考えていても仕方ない。聞いてみなければ答えは分からない。分からないからこそ、この前、勇気を出してもう一回会ってみた。会ってみて、答えが出たはずなのに、私はまた、同じことでぐるぐる悩んでいる。

 

このドアを開けたら苦しみから逃れられる! このドアを開けたら悩みが晴れる! と思って、ドアを開けることは得意なのに、開けたドアの先で、また新たな悩みを見つける…それが私だ。学ばないなー。

 

仕方ない。人間、そう簡単には変わらないので。私はずっと、こんな私と付き合っていくしかない。

 

あ、そうか。仕事のことを聞こうとしているのも、口実に過ぎないのだよなー。聞ける人は、他にもたくさんいるし。逆に、この前、別の人から誘われて、「ちょっと仕事のことで相談したいこともあるので」って言われて一緒に食事したけど、「それ、絶対私じゃなくてもいいですよね? っていうか、むしろそれ、私には何の知識もない話ですよね?」っていう案件だったし。

 

まー、そんなものです。人間関係なんて、すべては一方通行で、「通じた」とか「分かり合えた」と思っているのも、しょせんはその人の思い込みにすぎないのです。

 

人間が分かり合えるなんて幻想です。なまじ言葉があるから、人間は誤解にもとづく社会を作り上げてしまった。

 

言葉がなければ私はいっさいの仕事ができなくなりますが(まあそれは誰でもそうか)、言葉があるがゆえの不幸って、あるよなー、と思います。

 

もっと、動物的に生きていこうっと。