1週間ぶりにただいま

皆さま、こんばんは。お久しぶりです。お元気でいらっしゃいましたか。

 

私が気まぐれにしか更新せず、更新したと思ったら好き勝手なことを書き、他に何をしてるとか、よそでどんなことしてるとか、余計な詮索をせずに、ただ、黙って、私の駄文をお読みくださり、本当にありがとうございます。

 

ただ、私が好き勝手やってる姿を認めて、黙ってスターを差し出してくださる皆さんは、たぶん、私にとって、家族みたいなものです。って、前にも書きましたけど、家族の定義には、何ひとつ当てはまらないけれど、気分的に、心理的に、私にとって、「こうあってほしい」と思う、家族の姿みたいな感じです。

 

家族って、何でしょうね。血のつながりとか。役割とか。家庭とか。身の置き場所とか。同じ苗字とか。法律とか。年齢とか。構成とか。

 

そういうものを、ぜーんぶ抜きにして、心理的に家族とは何か、というのを私が定義してよいとしたら、ありのままを認めてくれる存在のこと、です。ただ、生存確認だけをして、生存していればそれでいいよ、と受け止めてくれる存在のことです。

 

私はとうに還暦を過ぎた両親のことを、家族だと思っていて、もう、離れて住んでいるし、しょっちゅう連絡をとりあうわけでもないし、なんならめちゃめちゃドライな親子関係なので、お盆も年末年始も帰省とかしないし、それでも、両親がそれなりに自分たちで生活して、生きていてくれたら嬉しいし、両親も、私に対してそう思ってるはず。

 

私の子どもは、まだ小さいけれど、勉強ができなくても、何の習い事もしていなくても、毎日毎日YouTube見てゲームばかりやっていても、生きていてくれればそれでいいし、そのままを受け止めて、彼らの生存そのものが、私にとっての家族だと、そういう風に思っている。

 

なんとなく、彼らも私のことを、そういう風に思っていてくれるんじゃないかな、と思う。世間でいうところの母親らしいことは、何ひとつ、していないけれど、それでも母さんは母さん、と思っていてくれてると思うし、そうだとしたら、それは私の理想の家族の姿だから、嬉しい。

 

名前も知らないし、どこに住んでいるのかも知らないし、顔も見たこともないし、ましてや血のつながりなんて何代さかのぼったってきっとないんだろうけど、でも、なんとなく、私のこのブログを読んでいてくださる人たちは、私にとっては家族みたいなもの、なんだよなー、と思うのです。

 

何の役にも立たない文章を、そのままに受け止めてくださっている皆さまのことを。

 

書き留めて言い聞かせる

わおー。しばらく書いてないな、とは思ったけど、1週間も空いてしまったか。人間、変わるもんですなあ。1年前は、毎朝毎晩、せっせせっせとここに通っていたのに。

 

今、別のところで、せっせせっせと書かなくてはいけない文章があって、ついついそちらに時間を使ってしまっております。文章を書くだけじゃなくて、まあ、いろいろいろいろやることがあります。

 

やることがあるって幸せです。何も考えなくていいから。考えるのはしんどいです。考えると、余計なことばかり考えてしまいます。考えて考えて考えて、いい方向に進んだ試しがありません。考えるより動く。動いている間は、考えなくて済む。

 

人間、考えるから不幸になるんです。何も考えなければ不幸にはならない。

 

困るのは、何も考えていないように見える人を、人はあまり敬わないということです。考えることができる人のことを、頭のいい人だと言って、尊敬したり、尊重したり、ありがたがったり、群がったりする。

 

頭がよくて褒められるのって、人間くらいのもんですよ。あ、そうでもないか。頭のいい犬も褒められますね。「よしよしよくできたね」って。頭がいいって褒められるなんて、犬と一緒ですよ。

 

私は、どうせ褒められるなら、野生の動物のように、自分の食べるものを自分で狩る、その能力で褒められたい。いや、野生の動物は褒められるために狩りをするわけじゃないから、褒められなくていいんだな。自分の食べるものを自分で稼ぐ。まかなう。手に入れる。そういう、動物的な生き方で、誰からも褒めてもらわなくていいから、何も考えずに、生きていきたい。

 

なんて、理想ですけどね。今日だって、美容院の女性誌を読みながら、あーモデルさんたちほっそいなー、いいなー、もうちょっとメイク道具ほしいなー、髪の毛どうしたらいちばん若くかっこよく見えるかなー、って考えてましたからね。

 

でも、いいの。自覚してるから。そういうのも、自分。誰かから認められたいのも自分。褒められたらうれしいのも事実。何も考えずにいられるのは今、たまたまそういう状況なだけ。すぐにまた悩む。それもまた自分。

 

だけど、今は、何も考えずにただひたすらにやるべきことをやっている、そういう自分に満足している。この、満足をしっかりと握りしめて、生きているぞって感覚を、忘れないで、この先も人生を進めていきたい。私の人生いつもダメダメだ、とかいう勘違いをしないように。ちゃんと、充実してるよ、うさぎ。今の感覚を、忘れないで。自分で、自分に。

 

伝わらないかもしれないのだけど

まー、毎日毎日、せっせせっせと文章を書いてはいろいろなところに送ったりネット上にアップしたりばかりしていて、なかなかここに自由気ままにだらだら垂れ流して書く、ということができずにおります。

 

しかし、書くのは好きだ。書けなくて困る、ということはあまりない。まあもちろんそれは、書けることしか書いてない、ということなんだけれども。

 

ただ、これを書きたい、と思ったことは、ある程度書けている。これを書きたいけれどもどう書いたらいいか分からない、ということはあまりない。

 

しかし、書きたいことを書いたところで、伝えたかったことを読み手に分かってもらえるかどうか、というのはまた別の問題。

 

個人的に(仕事ではなくて)たまーにTwitterもやっているのだけれど、個人事業主というか自営業というか自己ブランドで仕事してる友達が、つぶやくごとにいちいち絡んできて、要らんなー、と思ってしまう。あんたに向けたつぶやきじゃない、みたいな。あと、絡んでほしくて絡んでくるんじゃないよ、みたいな。

 

たぶん、先方はよかれと思っているのだろうけど。あー。これ、この前の会社からとある物品が送られてきた事件と同じだなあ。

 

なんかさ、こっちは恥をしのんで、怒られることも覚悟して、それでも誰かのために、みたいな感じでやったことを、「売名行為」みたいに思われるのって、悲しいよねえ。思われるのは悲しいのだけど、ときどき私はそういう風に思ってしまう。そういう風に思ってしまうと、その相手のことをあまり好きになれない。

 

だから、あまり、見えないものは信頼していないのです。どういうつもりでやった、とか、なんでそんなことをした、とか、後からいくらでも解釈を変えることはできるし、人によって受け取り方というのは全然ちがうのだし。

 

一緒の職場で働いている人たちがとある男性にものすごく腹を立てていて「あの人、本当にキライ」と言っているけれど、私はそこまで思わない。だって、人にはできることとできないことがあるのだから。悪口を言っている同僚たちにだって、私にだって、できることとできないことがあって、とある場面では、とある人たちに、ものすごく腹の立つ思いをさせているかもしれないから。

 

それでも、誤解されるかもしれないけど、傷つくかもしれないけど、思いは言葉にしないと伝わらないのですよねー。好きだとか、応援してるだとか、一緒にいたいだとか、元気になってほしいだとか、悲しまないでほしいだとか。

 

「お前に言われたくねえよ」って思われてしまう、その可能性はあるとしても、それでも、言わなかったら、絶対に、伝わらないのですよねー。

 

おやすみなさい。

 

私が今めっちゃ眠い、ってことも、書かなきゃ伝わらなかったでしょ。

 

見た目の女らしさを捨てたくない話

せっせせっせと更新していてもあまり読者は増えないのに、しばらく放置してると読者が増えているのはなぜなのだろう? 登録してくださる方、ありがとうございます。

 

今日、とあるイベントに参加して、主催者の方が写真を撮って送ってくださったのだけど、自分がイメージしていた自分と、写っている自分が、わりとかけ離れていたのでまあまあショックを受けています。

 

男性っぽい恰好をしていたので、イメージとしては、マニッシュな、とか、カッコいい、とか、ハンサムな、とか、そういう感じの形容詞を思い描いていたのですが、写っていた私は、なんだかたくましい、ごつい、男っぽい、という感じでした。マニッシュな、と、男っぽい、って英語か日本語かの違いだけじゃん、って思うのだけど、イメージです。イメージ。

 

なんていうか、男なんですよ。そのまんま、男。おしゃれだとか洗練だとかって、ギャップやサプライズにあると思うのですけど、例えば髪の毛がベリーショートなのって、髪の毛は短いけれども明らかに女の子だったり女性だったりということがわかるからこそカッコいい。見た目で「え、男の人かと思いました(汗)」っていうのは、女性のベリーショートではなくて、男の人のスポーツ刈り。そのまんま、男。

 

ひっさびさに胸の話をしますけど、バストにもうちょっとボリュームがあったら、シルエットがだいぶ違うのかも、という気はしました。あと、私はお腹を前に突き出すくせがあるので、それもおっさんぽさを増長している。腰に悪いからよした方がいい姿勢のクセなんですが。

 

このまま、男になってしまうのは、イヤだなあ。私は、女性性を捨てたくはないです。内面とか、行動を、「男前!」って思われるのはうれしいけど、見た目の女性性は、捨てたくないんですよね…。

 

もしかしたら、女性っぽい装いをしてみたら、気持ちが切り替わるかもしれないですね。今、いつもパンツ姿ばかりなので、スカートをはいてみるとか、ワンピースを着てみるとか。

 

人間って、内面から変わるよりも、環境とか身の回りにあるものから影響を受けて変わるってことが大きいのではないか、と思っているので、身の回りから変えてみるというのは1つの手かも。

 

あとは、ダイエットですかねー。やっぱり。女性はきゃしゃだというイメージがありますから。きゃしゃであれば女性性は強調されるだろうな、という気はします。

 

少し前まで食べたいものを食べたいだけ食べる、というのをやってましたが、そろそろ本気で体をしぼろうかな、という気になってます。

 

おやすみなさい。

 

料理ができないわけではないが

キャベツを千切りにして、ツナ缶を開けて乗せて、クレイジーソルトとオリーブオイルをふりかけるだけで、めちゃめちゃおいしい。

 

今日、職場の人と「料理はされますか?」という話をしていて。相手(男性)は全くもってしない、と答えていて、その話も面白かったのだけれど、じゃあ誰かが私に「料理はされますか?」と尋ねたら、私はなんと答えるだろう。

 

料理は、しないわけではない。下手なわけでもないと思う。基本は押さえているつもりだし、どんな料理も大きく失敗することはない。

 

だけど、好きかと言われたら、まるで好きではない。私にとって、料理が好きかどうかって、おかしな質問なのだ。

 

「おしゃれが好きか」と聞かれれば、洋服をいろいろ組み合わせたり着飾ったりすることはそれほど好きではないけれど、朝、寝間着のままで外出するわけにはいかないから、普通に着替えはする。

 

私の場合、料理は着替えみたいなもので、おしゃれに該当する料理には、まるで興味がない。個性を出したり、流行を追ったり、絶妙な組み合わせを探したり。そんなおしゃれをするみたいな料理は、まるでする気が起こらない。

 

たんたんと、毎日、着替えて家を出るように、たんたんと、毎日、食事を作ることはできる。毎日、着るものを考えるのが少しだけめんどくさいように、毎日、食べるものを考えるのはめんどくさい。けれど、だからといって、いつも着るものが何かおかしい、ということはないくらいには、料理はできる。

 

今日の夕飯は、キャベツとツナのサラダに、キャベツとベーコンのコンソメスープが余っていたので、そこにレトルトカレーを入れて、スープカレーにして食べた。キャベツをまるごと買ってきたので、ひたすらキャベツを食べ続けている。

 

夕食は夕食で満足したけれど、少ししたらお腹がすいてきたので、イングリッシュマフィンを割って、はちみつを少したらして、その上にとけるチーズを乗せてトーストして食べた。何度も書いてますが、私ははちみつが好きなのです。そしてチーズも好きなのです。ハニーチーズトースト、最高。

 

この程度の料理ならするし、チャーハンだって作れるし、トン汁だって作れるし、なんならカレーだってレトルトじゃなくて作れる。

 

ただ、工夫してみたり、ちょっとオリジナリティを加えてみたり、そういうことはしない。だって、カレールーはプロが知恵と労力と時間をふり絞って作り上げた最強のコスパの味付けになっているはずだし、チャーハンだってトン汁だって、普通に作れば普通においしいのだ。

 

ちょっとひと工夫、とか、オリジナルの隠し味、とか、やりたい人は勝手にやればいいけど、それで本当においしくなるかっていうと、単なる自己満足なんじゃないの、と思う。

 

こういう意地悪なことを考える人は、あんまり料理に向いてないんじゃないかという気がしますね。

 

おやすみなさい。

 

やろうと思っていたことができなかった

今日は朝からわりと元気で、予定をさくさくとこなし、午後は仕事をしなければいけないけれど、それが終わったら8時まではこれをやって、8時になったらDVDを見て、10時には寝よう、と思っていたのに、8時までにやりたかったこともできず、見たかったDVDも見られず、眠りたかった10時にも寝られず、こんな時間。

 

夕方から予定が狂って、落ち込んで、ふさぎこんで、寝っ転がって、2時間くらいが過ぎてしまった。予定が狂ったときに、だったら何をしよう、という風に気持ちを切り替えることができない。気持ちは切り替わるのだけれど、やりたかったことができなかった、というだけで、寝っ転がってしまう。寝っ転がる、ということしかできなくなってしまう。

 

それはそれでよいのかもしれないけれど。代わりに何かしなければいけない、という思い込みこそが自分を苦しめているだけなのかもしれないけれど。

 

一人でいたい。子どもたちのことは大好きだけれど、子どもと一緒にいると、私は子どもを最優先にしなければいけないと思ってしまう。それが、苦しい。幸せで、うれしいことなのだけれど、苦しい。

 

優先順位を決めて、最優先のことだけを遂行できれば、悩みなんてないのだ。2つ以上のことを大切にしたいとか、自分以外の人を大事にしてあげたいと思うからこそ、悩む。思うようにいかない、と苦しむ。

 

一人でいるのは気楽だ。だけど、一人になってしまうのはさみしい。

 

好きな人と一緒にいるのは幸せだ。だけど、好きな人が自分の思い通りになるなんてことは、絶対にありえない。

 

だれかに甘えたい、と思う一方で、甘えてしまう自分が許せない。

 

自分に厳しくありたい、と思う一方で、どこまで厳しくすればいいのか分からない自分が歯がゆいし、自分に厳しくできない自分が情けない。

 

どこまで頑張ったらいいのか分からない状況が苦しい。自分で頑張っていると思えない。その一方で、こんなに私は頑張っているのに、と周囲への怒りも沸く。

 

自分に対して素直に感情を出すことも大切だけれど、他人の前で感情を抑えてしまうのが素直な自分だ、という気もする。

 

これだけ疲れていたらきっと今日はあんまり上手に笑えないだろうな、とか、あの人のことあんまり好きだと思えないからきっと顔に出ちゃうだろうな、と思うこともあるのだけれど、いざその場面になると、私は明るくふるまっていることが多い。多い、というよりも、必ずといっていいほどそうしてしまう。

 

何がいけないのかよく分からない。たぶん、何もいかないことなんてないんだと思う。脳がすべてを作り出している。

食べることは幸せなのだけど

ここ1か月半ほど、食べたいものを食べたいだけ食べる、というのをやっていて、本当にもう、お腹はみっともないことになっているし、気になるのが首のまわりの肉。なんか、あごがなくなってきているのと、頭を動かすと背中と後頭部をつなぐ部分の肉が邪魔な感じ。今月下旬に美容院を予約しているのだけれど、美容師さんに首に肉がついたなーって思われるのもイヤだし、髪を切ってもらっている間、あごにたっぷり肉のついた自分の顔を見ていなきゃいけないのも苦痛だなあ、と思う。

 

思うのだけれど、食べるのがやめられない。さっき、さしてお腹もすいていないのに、とんこつラーメンを食べて、その後で明太子ごはんまで頼んでしまった。ラーメンの汁まで残さずたいらげて、明太子ごはんは大きめのお茶碗だったのに、ぺろりとお腹におさめてしまった。

 

こんなに、食べたいだけ食べているのは久しぶりだ。食べたいだけ食べたら、太りたくないだけ太るというか、老けたくないだけ老けるということがわかっているので、太ったり老けたりする代わりに、食べることを我慢していた。たぶん、ここ5、6年くらい。

 

抜群のスタイルとか、魅惑のプロポーションではないにしても、それなりに年齢のわりには体型を維持していたと思う。1ケ月半ほど前までの私は。

 

だけど、今の私は違う。

 

食べたいだけ食べるのは、正直、気持ちがいい。食べちゃダメ、食べちゃダメ、と思いながら生きているよりも、生命を謳歌している感じがする。食物を口に入れ、お腹におさめ、肉として蓄える。生物的に、幸せだ。

 

だけど、人生を謳歌している感じかというと、ちょっと違う。「生命」って、生物的な命だ。「人生」って、人の生き方だ。

 

食べたいだけ食べて、理性とか知性とか見栄とか賞賛とか、そういうものから無縁なのは、生命としては幸せでも、人生としてはあまり嬉しいものではない、という気がする。

 

少なくとも、私は。

 

なんだかんだ言って、人からの見た目って大事なのだ。見た目だけじゃなくて、どう思われているか。

 

人からの視線だけを気にしていてるのもバカみたいだけれど、結局、私にとっては、誰かが私を認めてくれることが、自分で自分を認めることにもつながるのだ。

 

今月末で、今とりくんでいるストレスフルなプロジェクトが終わる。そしたら、もう一度、自分の人生を、自分の手に取りかえそう。人から美しいと思ってもらえる=自分で自分を認められるような、私の人生を、もういちど手中に、コントロール下に、取り返そう。

 

あー、満腹、満腹。