私が誰かを心配させているのは

なんだかひたすら謝る日が続く。

 

私が、先方の気遣いに無頓着で、好き勝手やって、呆れさせてしまった、という感じ。

 

目上の人なので、謝る。呆れてしまっている相手に、謝る。

 

「それでは安心できない」と言われる。安心させるために、説得するために、私は資料作りをしないといけないのか?

 

心配をかけているのは分かる。分かるんだが、それは私が悪いのか?

 

悪いと思えないから、行動も改まらない。謝る言葉も途切れてしまう。

 

離れたい、と思ってしまう。私を心配して、気遣ってくれている人から。それって、私が悪いのか?

 

「楽しい」という感覚は本物

何が正しいか、というのは、人によって、時によって、環境によって、変わってしまう。誰にとっても正しいこと、というのが不変不動であるとしたら、裁判だって戦争だって起こるはずがない。

 

正しいことをするのは、時に疲れてしまう。正しいと思ってやっていたのに裏切られた、とか。正しいと思ってやっていたのに、結果が出なかった、とか。正しいと思っていたのに、人から否定された、とか。

 

 

自分で正しいと思ってしていたことでさえ、そうなのだから、世間や、他人や、世の中の空気や、そんなことに知らぬあいだに押し付けられた正しさに基づいて行動したら、もっともっと疲れてしまう。

 

だけど、楽しいと思ってしたことは、無駄にならない。「楽しかったんだからいいじゃん」。何も得られなかったとしても、後に誰かから批判されたとしても、楽しかった過去は、消えない。

 

誰かのために、正しいことをする。

自分のために、正しいことをする。

自分のために、楽しいことをする。

誰かのために、楽しいことをする。

 

この4つは下に行くほど強い、と、私は思っている。

楽しくないことって、続かないんだよ。いくら、正しくても。

そして、人間って、自分のためより、誰かのためのほうが、頑張れるんだよ。

 

見守っていてほしいけど見張られたくはない

もう、私はいい大人ですが、そして、母親との関係はごくごく良好ですが、やっぱり、母親ってうっとおしいなー、って思うことがあって。

 

え、私のFacebook、そこまで見てるの?とか。 会社のブログも全部読んでるの?とか。

 

それは、彼女の愛情だと思うので、ありがたいのです。うれしいし、私を応援してくれてるのもわかるし、正直、私が完全に孤独にならずにいられるのは母のおかげだというのがすごく大きい。

 

けど、やはり四六時中見張られている感覚というのは、ちょっとコワイのです。好き勝手やらせてくれ、という感じ。

 

だから、匿名でこんなブログも始めちゃうし、何もかも実名だしての活動に息苦しさを感じてしまうのだよなー。

 

これまでの人生から解放されたい。でも、切り離されて孤独にはなりたくない。

 

わがままで勝手だってわかっているけど、正直に書くと、そういう感じ。

 

 

映画『ゼロ・グラビティ』

見た。

 

なんて、なんて悲しい映画。

 

ジョージ・クルーニー演じるマットは、本当に、本当に、身を挺してしまうのか。お約束のように、再会が叶ったり、しないのか。サンドラ・ブロック演じるライアンが、悲しすぎる。孤独すぎる。そして、その孤独を引き受けて、生きていかざるをえない人間が、悲しすぎる。

 

こんなに孤独になるくらいなら、生きていないほうがマシだと、あきらめた方が楽だと、私は思ってしまった。

 

それを生き抜いたライアンが、強いのではなく、希望なのではなく、悲しさと、絶望を感じた。

 

それにしても、ほとんどが無重力状態のシーン。どうやって撮影したんだろう???

 

あ、あと、邦題は『ゼロ・グラビティ』つまり、重力がないというライアンたちの状況がタイトルになっていると言えるけど、原題は、“Gravity”、つまり重力そのもの。

 

重力がないと、生きていけない私たち。重力から、逃れられない私たち。重力を、求めてしまう私たち。それがまた、悲しい。私たちをしばりつけるものでありながら、そこから逃れられない私たちが悲しい、と思った。

 

私の子供たちは幸せか?

幸せな家庭の図として、食卓とかリビングとかに家族が集まってる絵があるじゃないですか。ご飯を一緒に食べるとか、一緒にテレビを見るとか。

 

でも、なんか、完全にただのイメージですけど、中世のヨーロッパとかで、貴族って、子供も1人ひと部屋あたえられてそうじゃないですか。親は子供の相手なんかしなくて、遊び相手は執事とか侍女とか、お世話する係がいて、で、食事はむしろ、親と一緒にしなければいけない義務みたいな感じじゃないですか。ただのイメージですけど。

 

それを考えると、人間、許されるなら大人は子供と遊びたくなんかないんじゃないかと思いますね。で、子供は子供で、家族団らんというより、自分のペースで遊べるのがいちばん嬉しいのではないかと。

 

なんでそんなこと考えるかって、私がパソコン2台もってるのだけど、今、娘と次男に1台ずつとられて、二人は別々のYouTube見てて、私はそれを見守りながらスマホでブログ書いていて、「幸せな家庭」のイメージからは、全くもってかけ離れているけれど、でも、実際には大人も子供も本当に幸せな時間を過ごしてるのではないかと思うわけです。

 

世間や時代に理想を押し付けられてそれに従って安心するより、自分が幸せでいるか、子供たちが楽しそうか、自分の目で見て、自分の頭で考える方が大事じゃね? と思うわけです。

 

そして、子供たち、「おやすみ」と言って、去っていきました。娘が帰ってきて、「言い忘れた。運動会のリレーの選手になったよ」ですって。

 

ああ、愛しい。愛しすぎるぞ、我が子たち。

 

今日のお昼と夕ご飯

考えたことだけじゃなくて、行動も少しだけ書くとしたら、今日はお昼に「ぎんなんと小エビのかきあげ冷やしそば」というのを食べました。めっちゃ美味しかった。私、エビが好きです。小学校のころから、ずっと。

 

なんか、少し前まで、お蕎麦なんて全然好きじゃなかったのに、最近よく食べてる。食べたくなる。年をとったのかしら。いやーねー。

 

夜は、さっき帰ってきて、パプリカとエリンギを薄く切って、オリーブオイルとにんにく、クレイジーソルトで炒めて食べてる。うーん、もうちょっとにんにく入れてもよかったかな。チューブのおろしにんにくだけど。

 

炭水化物はあまり取らないようにしてるけど、きっとあとでトースト焼いて食べちゃうんだろうな。

 

痩せたい、と漠然と思ってはいるけど、私は42歳にしては悪くない体型だし、健康的にも問題ないので、本気で体を絞ろうとも思ってないから、たぶん、このまま。いや、このまま維持できれば御の字。きっと、ゆるゆる太っていくのだろうなー。

 

ま、それでもいいや、と思ってしまうのは、年をとったってことなのかしら。いやーねー。