今は酔っぱらってないです
何日前だったか、仕事帰りに魔がさしてビアホールに寄ってしまった。はー、なんかビール飲んで帰りたい気分だからビール飲んで帰ろうっと、ってな感じで。
で、ジョッキの半分くらい飲んで、心臓がばくばくして頭がくらくらして顔がかっかと熱くなって、なんだかもう、とても正気じゃいられない状態だった。私、ビール飲んじゃダメなのよ、もう。20代、30代のころは、まだ1,2杯なら飲めたけど、今はもう、飲んじゃダメなの。
飲んじゃダメって、飲んじゃダメなんだって状態になってから、何度あやまちをくり返しただろうか? 10回は行ってないかもしれないけど、5,6回? は後悔している気がする。でも、ビール飲んで帰る、というその漠然としたイメージから逃れられなくて、それをやってしまうのです。全然楽しくないのに。疲れがとれるどころか、ますます寝るの遅くなるだけなのに。
ビアホールの席で1人、なんだか、情けなくてねー。
ものすごく顔が真っ赤になるから、恥ずかしくて帰るに帰れないし。酔っぱらっててしんどいし、恥ずかしいし、気持ち悪いし、とにかく、帰れない状態で、お店にひとりでいて、仕事のことをちょっとまとめよう、と思ってたノートに、ひたすらそのときの気持ちを書きつづってました。
まわりが騒がしくて。
そのときにノートに書いてたこと。
これまで
居酒屋でつるんで
さわいている酔っ払いを
けっこうバカにしていたが、
今、一緒にさわげる相手もいなくて
さらにはお酒にも弱くて
なんとなくビール1杯飲んで苦しくて、
1人で帰るに帰れない私は
誰よりもみっともないかもしれない
と。
で、すぐその後に、
みっともないところから抜け出したい?
という言葉を、四角で囲んでいる。
自分で自分のことをみっともないと思っているところまではOK。じゃあ、そのみっともないところから抜け出したいと思っているの? 抜け出したいと思っているから、後悔しているの? みっともないから恥ずかしくて帰るに帰れない、席を立てない、と思っているの?
みっともないところから抜け出したい?
抜け出したいのかなー、私は。どうだろうか。抜け出したいかどうかも、どうしたら抜け出せるのかも、何をみっともないと思っているのかも、分からない。
みっともないから、もうやるまい、と思うのか。もうやるまい、と思っていることをやってしまうことこそが、みっともないのか。
じゃあ、どういう状態であれば、自分で自分をみっともないと思わずに済むのか。
とか書きながら、またビアホールに寄っちゃうのかも。寄らないのかも。自分が今後、どんな行動をするかなんて、自分にだって、分からない。
面白く書こうとするのをやめる
考えてみたら、自分のことだけバカ正直に書いていても、そもそもが大して面白くもない人生なのだから、面白いことなんて書けるわけがないのですよ。
ここで考えられる選択肢は2つ。1つは正直であることをやめる。もう1つは、面白いことを書こうとすることをやめる。
これは、私にとって、なかなか苦渋の決断です。なぜかというと、子どものころから、母親から「とにかく正直でありなさい」と育てられたからです。子どものころから、と、母親から、で、2回「から」が重なるのがどうにも気持ち悪いのですが、こういう場合、どういう風に文章を直したら良いのでしょうか。
とにもかくにも、ウソをつくのがどうにもダメなのです。ウソをつくことが、何よりも気持ち悪いのです。
今、起こってもいないことで悩んでいることがあるのですが、それは、もし、もう二度と二人で食事するのはイヤだと思っている人から食事に誘われたら、どう断ったらいいか、ということです。
正直でなければならないという自分の信念にしがたうなら、「あなたと食事に行っても何にも面白くないから、もう行きません」という返事を出すべきです。しかし、それはあまりにひどいということは、私にも分かります。
じゃあ、どうするべきか。
無視すれば良いのでしょうか。誘われるとしたら、たぶんメールです。電話がかかってくるということはないと思います。LINEとかメッセンジャーとかでやりとりをしたことはないので、メールだと思います。メールが来たのを、放っておけばいいのでしょうか。
が、返事をしないというのも、私にはなんとも「ウソ」の態度に思えるのです。自分の言動に、「(1)本当/(2)本当でもなければウソでもない/(3)ちょっとしたウソ/(4)完全なウソ」というグラデーションがあるとしたら、私は、自分に許せるのは(1)だけなのです。メールが来たところで放っておくというのは、(2)に相当します。ウソをつく必要もないけれど、それでは本当を貫いたとは言えない、みたいな。
いやしかし、こうして書きだしてみて、思いました。(2)で逃げるくらいなら、(4)で自分が悪者になってしまった方が、むしろ罪悪感が少ないな、と。なんとなく、いざとなったら(4)の選択肢をとるような気がします。と書いたところで、面白い(4)の見本が何にも思い浮かびません。
そもそも、正直であることをやるか、あるいは面白いことを書こうとするのをやめるか、の話でした。面白いことを書こうとするのをやめるというのは、もしかしたらとっくに選択している話かもしれませんでした。だって、面白いこと書けないもん。
自分がつまらないのはイヤなのです
わりと元気な日々を過ごしているので、うおおおお、これを吐き出さなければ心が病んでしまう!みたいなことがなくて、あんまり書くことがありません。
昔の自分の投稿を読み返すと、あの頃に書いてることは面白かったなー、と思う。かなり心がすさんでいて面白いことを書けていたあの頃と、なんだかとても元気で全然面白いことを書けない今と、自分としてはどっちが幸せかというと、今の方が幸せなのかな、どうかな。ちょっと違う気もするな。
いや、今の方が幸せ、というのは違わないのだけれど、それを、ここに書いてしまうというのが違うな、という感じ。別に、趣味で書いてるブログだし、誰に頼んで読んでもらっているわけでもないのだけれど、曲がりなりにも読んでくださっている方がいることが想定される場所で、「私の書くことって面白くないですよね」って書くのは、すごく失礼な気がするわけです。
面白いことが書けるかどうかは別として、面白いことを書こうとするその意識は大切なんじゃないかと。
だから、「たぶんここに書いてることは面白くないだろうけど、私は元気なんで、今のほうが幸せなんですよ~」なんていう風に書くのは、そんなの読んでくださる方に失礼極まりない話だと、そういう風に思うわけですね、私は。
だからといって、嘘を書くのも性に合わないし、なんだかんだと折り合いつけて書いているわけです。あんまり書かずにいると、書けなくなるだろうな、というのもあって。
実際、私はつい半年前まで中毒かってくらいFacebookに投稿してたのですが、ここ数ヶ月、こんな話題は面白くないかな、こんなこと書いたらどんな風に思われるかな、なんて思い出したら、最近はまったくもって投稿ができなくなってしまったのですよ。スランプってこういうこと? いや、別に書かなきゃいけないわけじゃないから、スランプでも何でもないし、最近では投稿しなきゃっていう気持ちもわいてこないんですけどね。
なんとなく、書き続けることに意味があるような、ないような。別に意味がなくても書き続けたらそれでいいような。
今週1週間、働いたら、夏休みです。夏休みだからといって、休まなきゃいけないわけではないけれど、働かなくていいというのは、なんだか気が楽ですね。1週間、何をしようかな。適度にだらだらしつつ、適度に自分で有意義と思えることをしたいな。1週間が終わって、自己嫌悪だけが残るような夏休みはイヤだな。
と、始まる前から、自己嫌悪に陥らないように用心している、なんだかそれも用意周到すぎてつまんない感じだ。
つまんないの、やだなー。面白く、生きていきたいなー。
おやすみなさい。
コントロールできないから難しい
何かを続けるって…、何かを続けて成し遂げるって…ホント、難しい。
先週は元気なはずだったのだけど、元気であったとしても、全てをうまく自分でコントロールできているというのとはまったく違うのであって、何が言いたいかって、食欲の部分でなんだか自暴自棄になっていて、食べたいものを食べたいだけ食べていたら、見るからに顔がふくらんできて、自己嫌悪に陥っていたのであった。
で、そんな自己嫌悪から抜け出して、先週が食べ過ぎの1週間だったから、今週はダイエットの1週間、というつもりで、夜、家に帰ってから食べる量を減らしていたり、炭水化物はなるべくとらないとうに、と3日ほど心がけたりしていたのだけれど、ついさっき、アイスクリームを食べてしまった。はあ。
良くないわー。ホント、良くない。ダイエットするって決めたのに、守れない自分の意志の弱さも情けないし、何よりダイエットに挫折した話って、世の中にありふれ過ぎてて面白くもなんともないのに、それをこうしてついついブログに書いてしまうという、そういう自分にもつくづく嫌気がさすわー。
嫌気がさすならやめればいいのに、やめられないからこそ、人間っておろかなのよね…。書きたいものを書けばいい、というのはブログの本質だと思うけれど、じゃあ自分の書きたいものってなんだっていうと、私は面白くて本当の話が書きたいのであって、自分の身に面白くて本当のことが起きない限り、面白い文章は書けないのですよ。
面白くもなんともないことを、面白く書けるのがプロとしての書き手であって、そういうことのできる人もたくさんいるでしょう。「たくさん」という表現が適切かどうかは別として、「書くこと」で生計を立てている人がいる限り、とにかく書かねばならぬという人は、人生の何か、あるいは人生の外にある何か、をもとに、文章を作り出すのだと思います。
まあ、私だって、ここにウソ八百を並べたとしても、その真偽の確かめようもないわけだし、ここまで来ると、何が本当で、何がウソなんだか、よく分からない感じもします。
何の話でしたか。ああ、失敗したダイエットの話でした。面白くもない。
面白いことなんて、そうそうないです。今日は、あと1時間くらい仕事したら、とある飲み会に参加します。それも、面白くもないだろうな、ということは分かっているのですが、まあ、付き合いとか、しがらみとか、いろいろです。ああ、やだな。いやならやめておけばいいのにな。
人生を全てコントロールするというのは、まことに難しい。
スリッパほどの重要性
大人になると恋なんてしなくなるかと思ったらそれは大きな間違いで、かといって大人になっても思春期と同じように恋をするかといったらそれも大きな間違いで、なんというか、ひとことで言うと、大人になると自分の人生を構成する要素がものすごく複雑になる。
私はわりと(っていうかかなり)恋をしやすい体質で、小学生のころからませてたというか、いつも好きな男の子がいたし、中学生のときにも大好きな男の子がいたし、高校時代も、大学時代も、まあ、わりと恋愛というのは自分の人生の大きなパートを占めていました。
なんて、冷静に書いてるような状態を突き抜けて、思春期特有の「あなたが全て」みたいな恋に、わりとしょっちゅうずぶずぶ浸かっていた。その頃は、「あなたが全て」っていうのは真実で、他のことなんかマジなんも要らん、それしか考えられん、っていうのが私にとってのふつーでございました。
はあ、書いてて恥ずかしいが、それよりもっと恥ずかしいのは、「大人」と言われる年齢になってからも、まわりと比べてずっと恋愛脳だったことですかねー。それこそ、5年くらい前まで、ずぶずぶと恋愛しておりました。
ここへきて、やっと、やっと、自分の中に恋愛の部分があって、それ以外の部分から自分の恋愛を見つめる、ということができるようになってきた気がします。数年前までは、自分というものが恋愛に食われてしまって、恋愛の中からしか自分を見ることができていなかったというか。
先日の投稿で、今、また好きな人ができてしまったみたいなことを書きましたが、それはそれで事実として自分の中にありますが、自分の人生の重要性のパーセンテージでいうと、どうでしょう、5%くらいでしょうか。
ゼロではない。ゼロではないが、1日24時間のうち、ほとんど忘れている。というか、思い出しても日常生活になんの支障もない。たとえていえば、家の中で履いてるスリッパみたいなもんでしょうか。自分の家にスリッパがあることを忘れることはない。しかし、スリッパがあることで悲しくなったり、嬉しくなったり、それについて思い煩ったりはしない。ただ、はきたいと思ったタイミングで見つからないと探すので、そのときにはちょっとスリッパの大切さを感じるけれども、だからといって、しばらく見つからなくても泣いたりしない。あれー、どこやったっけな。まあいっか、後でまた探そう、と、しばらく素足でいるくらいのもんです。
だけど、スリッパのある生活とない生活だったら、私はスリッパのある生活のほうが快適なんだよなー。スリッパのために何かを犠牲にしようとは思わないけど、私はスリッパをはきたい。そして、スリッパなんてはきたくない、とか、スリッパのどこがいいのか分からない、という人のこともおかしいとは思わない。
うーんと。
恋愛をスリッパのように考えられるおばちゃんは、若者からしたらうらやましくもないだろうけど、それはそれで、私は楽しく暮らしています。
あまりにバカな私の恋の話
好きだった人の夢を見てしまった。そしてまた、その人のことを好きになってしまった。
誰かを好きになるというのは、まったくもって一方通行の、自分勝手な、独善的な行為です。
そこに理由なんてありません。優しいから好きとか、親切だから好きとか、指がきれいだから好きとか、笑顔がかわいいから好きとか、それは後付けの分析であって、原因ではありません。
私の夢に出てきた人をBさんとしましょう。Bさんとは、前の会社で一緒でした。一時期だけ、同じ部署だったこともあります。
なぜか私は、3年くらいをかけて、Bさんを好きになりました。好きになってから2年くらいかけて、恋愛関係になりました。Bさんが私のことを好きだったのか、どう思っていたのか、わかりません。ただ、なんとなくお互いに会いたいと思うことが重なって、定期的にデートする関係がしばらく続きました。
その後、私に他に好きな人ができて関係は終わりました。でも、私はBさんと別れた後で、いろんな男の人に傷つけられて、ふと、これまで私のことを傷つけなかったのはBさんだけだな、ということに気づきました。それに気づいたら、またBさんに会いたくなって、会おうよって言って、その後は会ってもらったり会ってもらえなかったり、最後に会ってくれてからもう、1年以上になります。
っていうか、ついこの間、LINEをブロックされたので、今となってはもう、「私を傷つけたことがない」という描写は正しくないのですが、それでも私の脳みそはウソつきなので、LINEをブロックされたことさえなかったことにして、今でもBさんは私にとって優しいBさんのままです。って書いたそばからめちゃめちゃウソっぽい感じがします。Bさんが優しかったことなんて、1回もありません。ただ、BさんはBさんらしく、普通にふるまっていただけで、私が勝手にそれに惚れこんでいただけです。
惚れこんでいたころから、「なんで私、Bさんのこと好きなんだろ。Bさんが私に何してくれるってわけじゃないのに」と、不思議でした。ホント、付き合っていても、なんのメリットもない人でした。好きで好きで仕方なかったけれど、つらい思いをたくさんしていたと思う。
何をしてくれるわけでもない、好きになったところで何のメリットもない、そしてただつらい思いをするだけ。それは、会えないどころか連絡さえとっていない、今も同じです。何の接点もない人。それでも私は、夢に出てきたというだけで、Bさんをまた好きになってしまった。
人間の脳って、あまりに非合理的にできてると思いませんか? っていうか、私がバカなだけか。とほほ。
おやすみなさい。
リラックスできることが優先
ふと気づくと、なんだか私は元気になっていた。ほんの数ヶ月前だか、数週間前だか、覚えていないけれど、ホントにもう、早く私の人生終わらんかな…とそればかり考えていたのに、ふと気づくと、なんだか私は元気になっていた。
なんで?
不可解なことが起きると、人は、というか私は、すぐに「なんで?」と思ってしまう。けど、たぶんそこに理由なんてない。人は、というか私は、気分が上がることもあれば下がることもあるという、それだけのことだ。理由なんて、ない。
理由がともあれ、元気なのはいいことだ。いいことがあるから元気なのか、元気だからいいことなのか、ああ、また理由を探している。「だから」を捨てろ、私。
理由や分析を捨てて、じゃあ何を書こうか。
先週、Tシャツをもらった。もらったというか、ずいぶん前に応援していたクラウドファンディングのリターンがTシャツで、そのTシャツを受け取ったのだ。それが、えらく着心地がいい。てろてろとした薄い素材で、しかも着やせして見せるし、新しいTシャツだから、外に着ていきたい気もするのだけれど、とにかく着心地がいいので、いちばんリラックスできる家で着ている。なんなら寝るときにも着ている。たぶん、すぐに色があせたり形がくずれたりして、外へ着ていけるような見た目ではなくなると思う。でも、家でリラックスするときに着る、大事な部屋着にするから、それでいいのだ。自慢のTシャツを誰かに見せることより、私は自分のリラックスを優先するのだ。
私は、家の中でのリラックス具合にけっこうこだわりがあるのだなー、ということに、最近気づいた。家では、とにかく究極的にリラックスしたい。化粧なんて絶対したくないし、去年の夏にも書いたけど、外へは絶対はいていけないショートパンツ以外、はきたくない。Tシャツも、心地よいものに限る。デザインはどうでもいい。ただ、着心地のいいTシャツと、短パン。ノーメイク。家の中にいるときには、この格好でいたい。
家の中にいるときに、外へ着ていってもおかしくない程度にきゅうくつな格好をするという、それだけでも許せないのだ。家の中では究極的にリラックスしたいから(しつこい)。ほんっとどうでもいいことだと思うんですけど、もうね、自分に贅沢をさせてあげたいの。
ぜいたくをさせるっていうのは、おいしいものを食べにいくとか、ごうかなドレスを着るとか、高いアクセサリーを買うとかじゃなくて、誰にも迷惑をかけないところで、自分が心地よいと思える時間をとことん心地よいものにするという、それなんですよ、今の私にとって大切なのは。
元気になると、こういう偉そうなことを書くんですね、私は。
おやすみなさい。