悩みを解決したい

私は迷ったり悩んだり愚痴ったりするのが嫌いで、そういうことをなるべく減らしていくのがよい人生の送り方だ、と思っていたのだけど、もしかしたら、それって少数派の考え方なのかしらん。

 

みんな、けっこう迷ったり悩んだり愚痴ったり、してますよね。本気で悩んでいるなら、しかるべきところに相談に行けばいいと思うのですが、そうしないでいるということは、悩んでいる自分が好きなんだってことかなあ。

 

って、こんな書き方をするとものすごく容赦なくて、ベリーベリーストロングな女みたいですけど、そんな風に思われるのは本意ではありません。私はちょっとやそっとのことでは傷つかないだろう、みたいに思われる見た目だし、話し方だし、立場だし、まあ実際のところ、わりと傷ついてもへこたれずに立ち直りますけど、傷つくときは傷つきますよ。1日中布団から出られないくらいには、しっかりと。

 

心にとめておかなければいけないのは、私は悩みたくないけれども、悩むことに価値があると思っている人もいるわけで、そういう人を卑下してはいけないということですかね。悩みを打ち明けてくれる人は、たぶん悩みを解決してほしいわけではなくて、悩みを抱いているというその瞬間のその人をまずは受けとめてほしいのではないか、と思うので。もし、誰かが私に悩みを打ち明けてくれるとしたら、まずは、悩んでいるんだね、というところを受けとめないと、その先、心を開いてくれることはないでしょうね。

 

で、私の悩みだ。はい。悩んでいます。というか、迷っています。困っています。自分でなんとか答えを出したい。なぜなら悩んでいる自分は好きではないから。

 

 

私が悩みを解決するために必要なのは、時間と場所。自宅では無理なんだ。場所の力ってすごく大きくて、その場所でしか解決できない悩み、その場所だから出てきた解決法、というのがある気がする。遠くへ行く、というのはそういう効果もあるのだろうなあ。ふだんの生活圏を離れてリフレッシュする。きっと、脳が受ける影響が変わるのではないかなあ。

  

しかし、次から次へと悩みは出てくるはずなので、1つ解決してもきっとまた、次の悩みが出てくるには違いない。

 

あー、いかんいかん。この「しかし」をやると堂々巡りなのだ。昨日の朝に書いた投稿は、えんえん「でも」「しかし」「だけど」でなにひとつ、話が前に進んでいない。「しかし」は、話を戻してしまうのだ。話は、一つの方向へ進めていかなければ。堂々巡りの人生は、私は好きではないのだ。あくまでも、私は。

 

 

 

連休中の食べ物の話

連休が終わる…。

 

もしかして、明日から五月病になってしまうかもしれない、と思うくらい、しっかり休んでしまった。ぜーんぜん、仕事しなかった。意図的に。

 

GWの前半に書いた「やりたいことリスト」に11の項目があって、ちゃんとできたのが6つ。やろうと思ったのだけど実はその前にやっていたことに気づいたのが1つ。途中までできたのが2つ。まったくやらなかった2つが、仕事の仕込みと、毎日のストレッチ。

 

ストレッチは、まあいいや。筋トレとバランスボールを、ゆるゆるとだけど続けていたから。

 

仕事の仕込みは、リストの中にある、ということは分かっていたのだけれど、どーしても、手がつけられなかった。身体が仕事を拒否していた。

 

まあ、いいでしょう。連休が始まるまで、「休みたいなあ、休みたいなあ。全然ちゃんと休んでないもんなあ。疲れてるはずだよなあ、私」と思いながら働いていたので、連休が明けたら、「休んだよな? 休んだよな? 連休ちゃんと休んだよな? 疲れはとれたはずだよな、私?」と自問しながら働きます。うおお、それはそれでつらいぜ。

 

連休は、かなりの時間を子供たちと過ごしました。特に、何をしたわけでもないけれど、一緒の空間にいて、お茶を出したり、お菓子を出したり。やかんで何杯も麦茶を作って、何回もペットボトルに入れた。1日3リットルくらい飲んでしまうよね、子供って。

 

おやつは、ホットケーキミックスでチーズナンを作ったり、ミニアメリカンドッグを作ったり、炊飯器でスポンジケーキにしてみたり、いろいろ作った。ホットケーキミックスは常備できて、水さえあれば子供たちの食料になるから便利なのだけど、難点は、どれも作りたてが美味しそうすぎて、私がついつい食べてしまうということだ。小麦粉…テキメンに太るのに。

 

その他にも、りんごを向いたり、ポテトチップスやポッキーを出したり、せっせせっせと子供たちのおやつを用意していた連休だったけど、食事は一度も一緒にしなかったかなー。子供たち、律儀にその都度、父親のところへ帰っていた。

 

私の食事は、ひとりでもまあまあまともに料理していて、とは言え、ごはんとおかずと汁もの、なんていうスタイルはとっくに放棄していて、レタスをちぎっただけのサラダになめたけオムレツ、とか、豆腐とキムチとわかめと卵のスープ1品、とか、そんな感じ。

 

だけど、私にはこれくらいの生活がちょうどいい。ああしなきゃ、こうしなきゃ、っていうのが何もなくて、自分の身体を大切にしている感覚もあって、それでいい、と思う。

 

これで仕事さえなければ…って、それじゃあ生活できないんだよねー。はー。がんばろ。

 

おやすみなさい。

 

この胸の中の気持ち悪いもの

自分のしたいこと、やりたいことが、うまく行かないことを、他人のせいにはしたくないのだけど、でもやっぱり、他人に振り回されることって、たくさんあって、そのときの心の安定の保ち方が、難しいなあ、と思う。

 

私は、怒りたくなくて、たぶん、今はものすごく温厚で、それはなぜかというと、怒りを沈める技術を身につけてしまったから。誰にもその人の正義があって、その人の言い分があって、だから私からしたらものすごく腹の立つ言動であっても、その人にとっては自分が傷つかないための必死の言動かもしれなくて、そういうことを考えると、怒ることができない。

 

なんだか、そんな風に考えると、誰とも接したり言葉を交わしたり一緒に何かに取り組んだり、しないほうがストレスフリーなんじゃないかと思うのだけれど、それはそれでつまらない。

 

私はリーダーになるのが好きだけれども、それは、自分のやりたいことをやるための手段としてリーダーになるのが好きなのであって、誰かから祭り上げられたりおだてられたりしてリーダーの役につくのは、全然好きではないのだよなー。

 

だから、プロジェクトが終わってしまうとそこで満足して、その後もその位置にいようとは全く思わない。プロジェクトの成功はうれしいけれど、その打ち上げとかは、わりとどうでもいい、と思う。

 

今、私のやりたいことって、何なんだろうなあ。今のところ、自分のやりたいことが、一人でもできることのような気がしてしまって、あまりまわりと接しなくてもよいと考えてしまっているのかも。

 

たぶん、錯覚なのだけど。人間、一人で生きていくことなんてできないから。

 

今の私は、たぶん自分の力を過信しているのだと思う。何でもできると。自分で自分の人生をコントロールできると。

 

だけど、きっと、そのうちにままならないことが起こる。そのときに、一人ではさみしくて、誰かを頼りたくて、他人を求めると思う。

 

だけど、そんな不安を思い描いていても仕方ない。今に集中。今は自分のできることを余念を排して取り組むべき。

 

なんだけどー、その、「できること」の加減がよくわからなくてやっぱり不安なんだよなー。このままでいいのかなあ、みたいな。

 

このままでいいのかなあ、と思っているなら、考えて方向転換すればよいのだけれど。不安から目をそらさずに。その時間がとれずにいる。

 

その時間がとれずにいる、っていうのが言い訳なんですよ。自分に言い訳するのも嫌い。

 

うーん。我ながら、胸糞悪い投稿ですね。失礼しました。と言いつつ、直さずに投稿する。

 

再び本が読めるようになった

この1、2年ほど、仕事も生活も環境も心境もあまりに変わりすぎて、ぜーんぜん本が読めなかったのですが、先日、友達が今もめっちゃ本を読んでいると言うのを聞いて、刺激を受けました。で、読み始めてみたら、けっこう読める。これは、ちょっと自分でも驚きです。

 

これまでは、ちょうど1年前の連休に、カウンセリングの勉強会みたいなところで「本が読めない」ことを悩みとして打ち明けていたくらいだし、どんなに面白い本だと言われても、仕事のために必要な本でも、数行読むだけで別のことに意識が行ってしまって、全然集中できなかったのですよねー。

 

それが、この数日間、本に向かうことができている。読み進めても、気が散らない。ちゃんと、文字を追うことだけに集中できている。これ、久しぶりにこの感触を取り戻したというのが、すごく嬉しいです。

 

本を読むことって、読める人にとっては普通のことだし、読めない人にとっては苦痛なこと。あ、別にシャレを狙ったわけではなくて、ホントに、読める人には読めるし、読めない人には読めない、っていう断絶があると思うのだけど、私は自分でどちらも経験できた感じ。

 

で、読める側に戻ってきて、わりと嬉しいです。まだまだ、言葉を身につけたい。リズムや、語彙や、言い回しや、見方。そういうものを、取り入れたい。

 

とは言え、物理的には身辺を身軽にしておきたいので、今日はブックオフへ本を売りに行ってきました。多くは、写真集。すこし前にカメラにはまっていた時期があって、そのころに何冊か買ったのだけど、もう、そっちはいいなー、と思ったので。

 

30冊ほど持っていって、2400円くらいになった。まー、そんなもん。十分。となりで年配の男性が、店員さんから「今日は大切なものをお持ちいただきありがとうございます。3冊で15円となります」って言われて、「えっ⁉」て聞き返してて、「15円」というのが間違いないと分かると、「…持って帰っていい?」と言っていた。うん、最初はやっぱりショックだよね。

 

私は、本が読めるようになったことがわかったので、3冊見つくろって新たに買ってきた。1900円ほど。差し引き500円って感じだけど、それでお金も本も必要な人のところにまわるということだから、オッケーオッケー。

 

連休が終わって、こんなに時間の余裕がなくなったら、また読めなくなるかもだけど、まあそれはそれでよし。この連休にはわりと本が読めたから、それでよし。

 

さて、ちょっと読書して寝ます。おやすみなさい。

 

夢中になれることと努力が必要なこと

連休の間、毎日ほとんど行っているのが、バランスボールに乗って、音楽を聴きながらはずむという運動。運動というかなんというか、音楽を聴くのも体を動かすのも踊るのも基本的に大好きなので、これ、延々やってられます。30分ほどやるとじんわり汗が出てきて、だいたい終わりにするけれど、これ、私にとっては永遠にやってしまいそうなことです。ゲーム廃人とかいう感じの、バランスボール廃人。それくらい、続けることができてしまうこと。

 

踊るというのは、すごく原始的な行為なのだろうなあと思います。古代から、収穫の喜びを踊って表現したり共有したり、あと、神様に舞いを奉納したりとかしてるようだし。

 

単純に、踊るのってすごく気持ちがいいです。誰も見ていないところで踊るなら、恥ずかしさもないし。

 

フィットネス系でも芸術系でもいいのだけど、踊りをきちんと習いに行きたいなあ、と思いつつ、それにかけるお金がなくてずっと見送っている。ズンバの教室に行っていたこともあったけど、あ、そうそう、お金だけじゃなくて、やっぱり夜に家をあけると、子どもと会える時間が減る可能性が高くて、それも楽しくなくなっちゃったのよね。

 

正直、私はそこまで子供が好きなわけではない。家族である自分の子供は心から愛しているが、年齢の少ない人間、という意味でのコドモと一緒の時間を過ごすのは、まったくもって楽しくない。可愛いともほとんど思わん。自分の方が可愛いと半分本気で思っている(頭おかしい、このおばちゃん)。だいたい、一人で過ごす時間を何より好む人間を、コドモが楽しませるなんていうのは難しいことだと思うぞ。

 

もちろん、コドモと一緒に過ごす時間を楽しむことはできる。それは、私の努力で、そこそこできてしまう、ということ。そう、努力。コドモと一緒に楽しく過ごすのって、私にとってはすごく努力が必要なことなのよー。

 

その一方で、バランスボールで体を揺らすのは、何の努力も要らない。そっちの方が楽しいんだもん。

 

母親が子供を愛することを当たり前だと思う風潮が、前から気に入らなくて、ずっと「子育てなんて楽しくない」と言いたいと思っていた。思っていたけれど、それってすごく勇気の要ることだ。ものすごく誤解されてしまう可能性のあることだ。特に、親権を手放して家から飛び出してしまった私のような母親には。

 

だけど、子供たちのことは愛しているし、大切にしなければと思っているし、育て上げるのは社会的な義務だということも理解している。

 

人間の行動なんて、いつも2つの意味の間で揺れているんだきっと。

 

 

映画『ベストセラー』

1日かけて、途切れ途切れで見た1本。

 

 

私はこの、コリン・ファースが好きですね。『英国王のスピーチ』がめっちゃ良かったので。

 

 

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『ベストセラー』のコリン・ファースは編集者マックスの役です。若い天才作家であるトマス・ウルフにジュード・ロウ

 

作家と編集者、という関係。私は文学関係の書籍を編集したことはありませんが、編集者として10年以上働いていたので、その力関係というか、仕事のやりとりの実際みたいなところは実体験に照らしながら見ることができました。

 

ヘミングウェイフィッツジェラルドといった作家も登場して、その描かれ方を見て思ったのは、作家というのは芸術家であるということ。それに対して編集者は職人であったり、もっと言ってしまえば、会社員であって、作品を“売れる”書籍にすることが最大の目的である。それによって雇われているのだし、それによって家族を養っているのだから、そこは…えーと、「仕方のないこと」と「絶対に曲げられないこと」のどちらを書いたらいいのか迷ってしまい、どちらでもある、としか書きようがなくて、つまりそれが生業というものなのかなあ、と。

 

原題は“GENIUS”(天才)。この“天才”を指すのがトマスなのかマックスなのか、考えさせるところにこのタイトルの妙があると思う。トマスは確かに天才だったかもしれないけれど、マックスの腕がなかったら、世に知られる作家とはなりえなかった。

 

でも、2段落前に書いたことに戻るけど、社員としての編集者って、物語の校正能力とか文章の添削能力とかよりも、著者との関係を良好に保つことが何よりの大切な仕事、ということを、あらためて思った。フィッツジェラルドの生活を支えたりとか、ヘミングウェイの釣りに付き合ったりとか。そういうことがある上での信頼関係だし、信頼関係がないと作品を任せてもらうことはできないのだし。

 

編集の仕事をまたやりたくなったかと言うと、やってもいいかな、という感じ。自分にできそうだという感覚もある。もしかしたら、またやるかも。どうかな。

 

おやすみなさい。

 

 

それぞれのGW

早寝をすると、早起きができます。当たり前だけど、GWの間の生活ペースはいい感じ。

 

しかし、今日は金曜日で、今日から普通に3連休でまたもう仕事が始まるのかー。あーあ。私は日曜日の午後から仕事だなー。なんだかんだであっという間だった。って終わった感出すの早すぎか。

 

GWが始まる前は、自由な時間が多すぎて怖いなあ、と思っていたけれど、案外そうでもなかった。それなりにやることがたくさんあったし、毎日、今日はこれとこれができた、という感覚をもつことができている。嬉しい。

 

毎日の生活の中でそういう感覚がつかめるかというと、わりと難しい今日この頃なので、わりと休みがいがあるというか、意味のある連休を過ごせているなあ、と思う。

 

お酒を飲まなくなってまだ1週間ほどだけど、たった1週間の間に「あー、前だったらこのタイミングでお酒を買っていたなあ」って思うことが5回くらいあって、ずいぶんと私はお酒を飲んでいたのだなあ、と思う。そりゃー、体重も増えるわ。

 

人と食事をする(お酒を飲むことが想定される)場面もわりと何回もあって、そのときにはウーロン茶じゃなくてジンジャーエールを飲んだりしているので、その分はカロリーはむしろ多いくらいかもだけど、家で飲むのをやめると、家ではコーヒーだったり紅茶だったり麦茶だったり水だったりだから、その分、摂取カロリーは減っていると思う。

 

うちの両親は60歳を過ぎてもあまり太っていないのだけど(昔から太ったことがない)、お酒を飲まないというのも関係しているのかなあ。あの人たち、とことんお金はないけれど、とことん健康的な人たちだ。

 

「幸せ」な生き方って、たくさんあるのだと思うけど、私は、自分の両親を見ていてそれがいちばん身近な「幸せ」な生き方だから、やっぱりそれに倣っていけば自分も幸せになれるのではないか、と思うところは大きい。その一方で、自分の母親のような母親でいれば家庭は平穏に続くかと思ったけれど、それはそうではなかったなー。

 

そうか、GWで実家に帰ったりしている人も多いんだろうなー。混むし高いし、すっかりその選択肢を外してしまったけれど。

 

なんというか、うちの実家と私の関係も「家庭はないが家族である」感が強すぎて、まあ、身体の置き場はどこでもいいよ、みたいな感じでお盆もお正月も帰らないことが多いし、季節感とかイベント感とか、そういうものがいっさいない感じだなあ。

 

まとまりないですが、皆さまもよい1日を。