映画『ルーム』

GW後半のDVD視聴、1本目。

 

ルーム(字幕版)
 

 

監禁されていた男の子と母親が脱出をするストーリー。だと記憶して借りてきたので、監禁の舞台となっている部屋の謎、脱出を企ててからの犯人との頭脳戦、作戦実行のときのスリル、みたいなものを予想していたのですが、意外とあっさり脱出は成功して(とはいえそれでもずいぶんとドキドキハラハラしたのですが)、その後の二人の「世界」の受け止め方、受け入れ方がリアルに描かれています。

 

物語の後半、主人公の母親の、母になるということの苦しみと喜びが、決して美しくではなく、切実に描かれていて、予想外にものすごく泣いてしまいました。少なくとも、このブログを書き始めてから、いちばん涙が止まらなかったと思う。

 

子供は強い。大人は弱い。弱いのだけれども、子供にとって、大人というのは絶対に必要な存在で。必要といてくれる子供がいるからこそ生き延びられる、自分が救われる、という感覚は、親ならきっといちどは抱いたことがあると思う。

 

見ていたら、自分の子供、特に娘に会いたくて会いたくて仕方なくなって、でも彼女は出かけて不在だと分かっていたので、手紙を書きました。キミが赤ちゃんのとき、もっと大事にしてあげればよかった。キミが小さかったとき、もっと優しくしてあげればよかった、と。

 

人と人との関係は、すべてが一方通行であり、同時に、すべてが複雑に絡み合って相互作用をしあっているなあ、と思いました。なんて、私が書いても何のことだか分からないと思うので、小説とか映画とか、きちんと物語という形で、世の中の真実を伝えられる人たちを、心から尊敬します。真実は、存在することに意味があるのではなくて、伝えることに意味がある。伝えられない真実は存在しないのと同じことだ。

 

最近、映画もだいぶ飽きてきたなー、と思ったけれど、こういう、予想をいい意味で裏切ってくれる映画を見ると、いやー、まだまだ見なくっちゃ、という気になる。面白い映画だけ見よう、なんて虫のいい話で、やっぱり極上の一本に出会うためには、数を見ないことにはどうしようもないのだろうなあ。

 

その他も、わりといい休日を過ごしています。GWの前半に作ったやりたいことリストを、順調に消しています。そのわりには、次から次へとやりたいことが増えてもいるのだけれど。

 

今日も早寝します。おやすみなさい。

 

夢の中で後悔していた

6時前にすごい風の音で目が覚めて、6時10分に鳴ったアラームを止めるためになんとか無理くり起きだしました。

 

昨日の夜、勉強しようかなー、まあいいや、やめちゃおう、寝ちゃおう、と思って罪悪感を抱きつつ眠ったせいで、今朝、イヤな夢を見ました。学校の体育館みたいなところで演奏会だか合唱コンクールだかをする夢で、私はピアノの伴奏なのだけれど、いざ楽譜を開いてみたら、しまった、練習していない!と焦る夢。なんで昨日、ちゃんと練習しておかなかったんだー、と夢の中で後悔していました。本番直前のリハーサルで、椅子の高さを合わせるふりして時間稼ぎとかして、めっちゃドキドキしてました。あー、緊張する夢だった。

 

さっき、体重計に乗ってみたら、少しだけ体重が減っていました。よかった。放っておくと代謝は落ちる一方で、どんどん脂肪はたまる一方だから、それに抗うのって、ほんとたいへーん。普通にしていたら落ちていくわけなので、必死で上に登らなきゃいけないって、スーパーマリオの水中のステージみたい。ボタンを連打していないと沈んでいってしまう、みたいな。

 

ボタンの連打をしていることで別のことができないなんて、もったいない人生だなあ、とも思うのですが、ボタンの連打をしないことにはステージがクリアできないのだから、仕方ない。ステージをクリアしないことには、ゲームが続けられない。もうこの先進まなくていいから、ずっとこのステージでいいからゲームを続けさせてくれ、っていうことができない。

 

あ、別にダイエットはしなくても人生は続きますけどね。単なる人生は続くけれど、自分を好きでいられる人生は続けられない。

 

私にとっては、自分を好きでいられるというのが、人生の最大目標なので、そこはおろそかにできないのです。

 

ずっと自分を好きでいたいなー。いくつになっても。昔はよかった、とか、若いころはよかった、とは思いたくない。

 

肉体は老いるけれど、知識は増やすことができる。

 

あー、これかな。

 

ここ2年ほど、知識を取り入れることにあまり貪欲でなかったけれど、知識を身に着けることは、自分を好きになる方法の1つになりうるな。肉体が老いたとしても、知識を増やすことで、昔の自分より今の自分の方が好き、と思える可能性はあるな。

 

それだ。

 

それを目指して、勉強、がんばろ。

 

モチベーション、大事。なんだかんだと理屈をつけて、自分をやる気に追い込んでしまえば、それで勝ちなのだ。よしゃー、勉強するぞー。

 

 

一人暮らしでも家族はいる

そして5時間と空けずに夜の投稿です。律儀だか何なんだか。

 

帰りにDVDを3枚借りてきたのですが、夜更かしは明日からのお楽しみにして、今日はちょっと早く寝てみようと思います。

 

夜更かししてしまう人って、「寝てしまうのがもったいない」って思うから寝られないらしいです。もっと楽しめる1日があったのではないか、もっと有意義に過ごせる1日があったのではないか、って。

 

でも、それで寝不足になって翌日を不意にしたら、まるでもったいないことです。睡眠は、翌日への投資。そう考えて、眠ることにします。

 

10時に寝て、何時に起きるのが理想的なんでしょうねえ。6時くらいに布団から出られたらいいな、と思います。できるかな、どうかな。

 

しかし今日は、帰りの電車が混んでいました。GWなのに。みんな休んでないのかな。それとも、遊びから帰る人たちで混んでいたのかな。

 

東京には人が多すぎると思いますが、私もその一員なので、文句を言うつもりはありません。私の実家は愛知県で、父親と同居するか、母親と同居するか、どっちかすれば、家賃がだいぶ浮きますが、しかしどんな仕事をしたらいいのか分かりませんし、だいたい、親と同居なんて、もうこの年になって、この気ままな一人暮らしを経験した後で、無理です。無理無理。

 

あ、そうなんです。私、自分の両親も別居してるんです。私も夫婦で別居してますが、私たちの場合は性格の不一致で、両親の場合は話し合いによって、生活に求めるものが違うから別々に暮らそう、ということになったようです。そういうことを話しあえる、うちの両親はステキだ、と思う。

 

で、しょっちゅう父親は母親のところに遊びにいって、昼寝したり、一緒にごはん食べたり、洗濯してもらったり、してるんですって。で、二人でえんえんと、たぶんこれまで何度も繰り返した話をお互いに際限なく再現しているのだと思います。平和。

 

母親は出かけるのが好きなので、月に1回くらい、私の家に泊まりにきます。泊まりにくるたびに、「このまえお父さんがこんなこと言ってたのよ」と、自分の夫のことを、楽しそうに話します。二人はとても仲がいいのです。15歳で出会って、20歳くらいで結婚して、それからずっと、夫婦なのです。いいよねー。

 

今の私には、家庭はありませんが、家族はいます。離れて暮らしている両親も家族ですし、夫と暮らしている子供たちも家族です。残念ながら、すでに夫を家族だとは思っていません。

 

学校を卒業して、教室という場所がなくなっても友人は友人、というのと同じように、私に家という場所はありませんが、家族は家族です。

 

そして一人かもねむ。おやすみなさい。

 

なんでもOKの人生

おはようございます。ってもう夕方ですが。

 

今朝は、なぜかぐったりで布団から出られず、でも出社しないといけない日だったので、時間がなくなりました。そして今さらになって書くという2回投稿への執着。

 

仕事もなかなかうまくいかず、悩みは尽きないですねえ。なんで、安心して暮らすことが許されてないのか。雇われの身になればいいのかなあ、と書きつつ、まー、そんな身分には絶対もどりたくない、と思ってしまう私。

 

自分のやりたいことを、やるしかないのだと思います。うまくいくかどうかはやり方次第。思いや熱意には正しい/正しくないはなく、どれも同じく尊いもの。

 

ただ、それを実現できるか、続けられるかどうか、というのは別問題で、そしてそのためにどんな方法をとるか、というところに個人の美学や哲学が現れるなあ、と思います。

 

それを、能力と言ってしまえば、うまく行っている人たちは気持ちがいいだろうけど、自分の美学を曲げてまでそのやり方はできない、と思う人がいたとしたら、それは能力とはまた別のものなのではないか、と思う。

 

もちろん、すべては1か0か、ではなくて、30%や90%のやり方もあるし、そのときそのときで、臨機応変にやり方を変えたっていいと思うのだけど。

 

あー、あれですね。

 

私、基本的にポジティブですけど、結局こうやって、なんでもいい、それでもいい、あれでもいい、すべていい、って言ってるだけなので、もしかしたらこれって、何も「こうする!」って決めていないだけのことかもしれませんね。

 

何かを選ぶということは、本当は何かを一つ捨てることであって、無意識にそれをやっているのかもしれませんが、でも、言葉遊びで私の脳内を言葉にすると、いつもあれもいい、それもいい、になってしまう。

 

本当は、世の中なんて、人生なんて、あれもいい、それもいい、のはずなのですが、決められないと前に進まない感じがして気持ちが落ち着かないのでどれかひとつ、に決めたくなる、それだけなのではないでしょうか。

 

自分の時間を何に使うか。私が決めているのはそれだけかなー。今は、まだ会社なのだけど、とりあえず帰宅するよりも、ブログを書くことにした。10分、20分早く帰る、という選択肢を捨てることになったけれど、それはそれで仕方ない。

 

早く帰ったとしても、それでもいい。投稿を済ませてから帰っても、それでもいい。

 

帰りの電車で音楽を聞いてもいいし、聞かなくてもいい。

 

家に帰ったら本を読みたい。読めるかどうか分からないけど、読めなかったらそれでもいい。

 

オールOK。人生OK。

 

恋とダイエットはどちらがツラい

毎朝、体重計に乗るようになって、10日ほどが過ぎた。ついでに5日ほど前にお酒もやめた。

 

そろそろ、心おきなくだらだら食べたり、まったりお酒を飲んだり、したくなってきた。何でも、始めるのは簡単だけど、続けるのは大変なのだ。仕事でも、ダイエットでも、人間関係でも。

 

とはいえ、私にとってはこのブログは続いている。ほぼほぼ毎日、朝晩に1000字くらいを書き続けている。なんの役にも立たない文章ですがね。

 

ただ、自分の精神の安定のためには役立っているかなあ、と思う。あんまりみっともないことを書きたくない、という見栄っ張りなプライドのおかげで、書いているうちにポジティブな言葉が出てくるので、それはそれで、自分の心の持ち方に影響を与えていると思う。

 

ポジティブだから書くのではなく、書くからポジティブになれる、みたいな。

 

〇〇だから好き、というのは絶対にウソで、好きになってしまった人のことを、後から理由を探してくっつけるのが人間だと思う。好きだから〇〇というところを見つける、が正しい。だから、「どういう人がタイプ?」っていうのも、全く意味のない質問だと思うのですよねー。

 

って、なんでいきなり恋の話になったかというと、今日ずっと、恋と性のことを考えていたからです。自分のこととしてではなく、フィクションの世界を題材に、ですが。

 

恋って、自分ではコントロールできないものですよね。何の理由もなく好きになってしまったり、好きになってはいけない人を好きになってしまうことは、よくあることだと思いますし、それはそれで否定する必要もないと思います。自然な感情の動きなので。

 

恋を制御することと比べたら、食欲を制御するダイエットの方がまだ簡単…なはずなのですが、うーむ。これも、消費社会の大量のメッセージに毒されているが上の、人間の本能の弱さなんでしょうか。本来であれば、生命の維持に必要な量を摂取すればそれで満足するはずなのに。

 

美しくありたい、というのも自然な感情の動きでしょうか。美しくありたい、と思う気持ちと、リラックスして欲望に従いたい、という気持ちの、せめぎあいの中で毎日を生きています。あー、しんど。

 

恋をしている間は、それだけ考えていればハッピーなんでしたっけね。もう、盲目的な恋をしていたのなんて、ものすごい昔のことで、すっかり感覚を忘れてしまいましたことよ。

 

そしてこの先も、おそらくそんな盲目的な恋はしないだろうなあ。

 

というのが、本日の結論。

 

おやすみなさい。

 

 

 

書くことも癒やしのひとつ

せっかくの休日なので、何より好きなこと=文章を書くことをもう一度。

 

今、本棚の整理をしていて、捨ててもよいもの、残したいものを選びながら思ったこと。

 

私は、夫との関係を捨てたいと思ったわけではないのだなあ、と。2年前に離婚したいと思ったとき、私は彼と“他人”になりたいと思ったのだった。それは、決して関係性のすべてをなかったことにして消してしまいたいと思ったのではなく、人と人という、人間関係の基本に戻って、彼にとっての私とはどんな存在なのかを考えてほしかった、ということだった。

 

私は、家族も“他人”であって、どんなに心を許せるメンバーでも、お互いのイヤなことはしたくないし、自分を大切にしながらも、相手が自分に望むことは何か、ということを、常に考えて行動してきた。

 

私にとっての家族というのは、お互いがお互いに対してそのように思いあう集団のことだった。

 

でも、彼にとっての家族は違った。家族とはその中で自分が何も我慢をしなくてもよいもの。家族のメンバーは自分に尽くすべきもの。家族とは、自分が思い通りに支配、操作したいもの、だった。その中でも妻である私は、絶対的に自分の思い通りに動くべき存在であって、感情とか、自由とか、そんなもの妻には必要ないと思っていたのだ。

 

私は、他人という関係に戻って、妻という立場から私を離してみれば、私のことを人として尊重してくれるだろうと思っていた。私の嫌がることはしないように気をつけてくれるだろうと思っていた。

 

だけど、違った。

 

彼にとって私はいまだに「言うことを聞かない妻」「身勝手に出ていった妻」「自分のことしか考えていない(俺のことなんて何も考えていない)妻」であって、なぜ自分たちの夫婦関係が破綻したのか、分かっていないと思う。

 

だから、いまだに他人の家に土足で上がり込むようなことをする。他人としての礼儀を尽くすつもりもさらさらない。悪いのは私で、苦しめられるだけ苦しめてやろうと思っている。

 

だけど、この先だって、いくら時間が経ったって、過去を消すことはできないのだ。関係を完全に切ることはできない。ただ、十数年間、夫婦だった、という関係のもとに、新しい関係を築いていくしかないのだけど、それをできるだけのソースが、今はお互いに残っていない。2人とも、自分を守ることだけに必死で、相手との関係を考えることができないし、ましてや思いやりをもって行動するなんてことはとてもできないでいる。

 

彼のことを考えると、いまだに私は気持ちがふさぐ。どんなに考えても、どんなに想像をめぐらせても、ネガティブな気持ちしか浮かんでこない。

 

だから、考えるのをやめてしまう。考えないでおくというのが、何より自分を守ることになるから。

 

いつか、エネルギーが貯まるといい。自分をきちんと癒して、傷を治して、もう大丈夫だ、と思えるようになるといい。本棚の整理で傷ついてしまうような、そんな日々が遠い過去になってくれるといい。

 

何を着たらいいのか悩む

おはようございます。今日も休日です。ひゃっほー。

 

しかし、休みの日に何を着たらいいのかが分からない。着るものに興味がないので。仕事のある日は、いちおう「きちんとした格好」をすればよいのだけど、休みの日となると、どのくらいカジュアルな格好をしたらいいのか分からない。

 

TシャツとGパン、ではもう、さすがにみっともないというか、TシャツとGパン姿がカッコいいは身体の美しさあってこそだと思うので、さすがにそういう体型を保てていない私は、何を着たらいいのかが分からないのだなー。

 

しかし、会社に行くときだって、スーツを着ているわけではないのだから、もしかしたらいつも通りの恰好で外に出たらいいのかもしれないのだけど、なんだかそれだと、せっかくの休日なのにリラックスできてない、みたいな、損する気持ちがあるのだよなー。休日をリラックスして過ごす、というのと、おしゃれして外に出かける、というのは、私にとってはバランスを取るのがとても難しいことなのである。

 

休みの日は、できる限り体をしめつけない服で、心も体も解き放って過ごしたい、と思うのだけど、実際にそれをやると、家でだらだら過ごすだけになって、終わった後で、なんかもったいない休日の過ごし方をしてしまった…と、後悔する。

 

この…ちょっと書いてみて、理想の休日を過ごしたい、という貪欲さが、欲張りすぎですね。もっと何も考えずに過ごしたらよいのに。

 

いつもいつも、バランスの取り方に迷っている。洋服も、何を着ればいいのか迷う。

 

迷う自分が好きではない。ばしっと決められる自分が好き。

 

だから、服も決めてしまえばよいのだろうけどねー。制服のように、迷うことなく着る服を決められる仕組みを作ってしまえばよいのだろうけどねー。

 

その一方で、私はパジャマが大好きで、いっぱい持っているのだけど、これを、どれを着ようとは迷わない。どれを着ても寝心地は変わらないし、だれに見せるわけでもないから。

 

あ、そうか。だから、外に出るときの服で迷うのは、自分で感じる心地よさと、人から見られたときの見た目のバランスの取り具合が難しいんだわ。TシャツGパンがさすがにみっともない、と思うのは、私ではなくて人から見られたときの自分がみっともない、と思うわけで。人目を気にしていなかったら、何を着て外に出たってかまわないわけで。

 

でもやっぱり、人からどう見られるか、安心していたいなー。「変な人」って思われるより、「素敵な人」って思われてる方が、過ごしやすいから。

 

というわけで、今から服を選びまーす。うーん、悩む。