私の身体に起こることの話

少し前に足が冷えるなー、もうこんなに温かいのになー、と思っていたら、やっぱり膀胱炎になった。うむ…。

 

まあ、膀胱炎くらい、受け入れて生きていけばいいか。これを排除するために自分の何か(時間とかお金とか精神とか)を削るくらいなら、「あー、また膀胱炎になっちゃったかー」とドライに薬を飲めばいいのだ。

 

私は42歳の女性で、まあまだ正常に生理が来るけれど、不思議なことに、これをあんまりうっとおしいとかめんどくさいとかツラいとか、思わない。あー、血が出てきたかー、と思って、淡々と処理する日々を過ごすだけだ。

 

なんだけど、これにはすごく個人差があって、生理が来るというだけで気分が重くなる人もいるだろうし、むしろ生理の前に症状が出る人もいるし(名前もついてるらしいけど当事者じゃないので覚えていない)、生理が来なくなったらあらもー大変どうしましょう、という人もいると思う。

 

その人の身体に起こることはその人のマターで、他の人が「それくらい我慢しろ」とか「私はそれほどつらくない」とか「〇〇すればいいのに」とか言うのも、私はしたくない。膀胱炎を何度も繰り返しているのは私で、私はそれを受け入れようと思っているのだから、放っておいてください。

 

あ、すみません。皆さんは放っておいてくださると思うんですけど、昨日のカレー屋さんの女性が、自分の病気というか症状を、会話の主導権を握るために全力行使していたのですよねー。

 

諸事情により、突然終わります。皆さま、よい1日を。

話を聞いていてツラい

お昼にひとりでカレー屋さんに入って、カウンター席に座ったら、隣に座った女の人二人組のうち、私のすぐ左側の方の女の人が、ずーっとずーっとずーーーーーっと、会話の主導権を握るため「だけ」に発話をしていて、聞いていて心底疲れた。

 

…。

 

と、今、実は10行ほど、その会話を再現してみたのだけど、あまりに支離滅裂で、文章にするとその会話の続き方があまりに不自然なので、書くのをやめました。でも、本当に支離滅裂な会話で、でもずーっと二人はしゃべり続けていて、あー、いつもこういう関係性なんだろうな、と思って、つらかったです。別に、本人たちは気にしていないというか、それを普通のこととして毎日お昼を一緒に食べてるのかもしれないけど。あー、でも私はつらかった。

 

私も、人と話しているときにすぐ「でも」と言ってしまうので、それは自分で気を付けなければ、と思っています。相手に何か気づきを与えたいとか、相手の知らないことを言ってみたい、みたいな気持ちが働いてしまうんですよねー。醜いわ。

 

なんですが、相手の言うことを全部そのまま受けとめるのって、けっこう難しいんですよ。特に日本人は謙遜するので。「いや、私なんて全然能力もないし」って言われたときに、「そうですかー、能力がないんですかー」って相槌打てないじゃないですか。そういう人って、否定してほしくて言ってるんですかね? こっちが反応に困ることを、なんで言うんでしょうね?

 

怒っている人の話も聞けるし、悲しんでいる人の話も聞けるし、もちろん喜んでいる人の話を聞くのも楽しいけど、自分を大切にしていない人の話は、聞いていてツラい、かもなあ。笑えない自虐的な話は、どう反応したらいいのか、とても困る。もちろん、聞き手のことを無視して話しているのを聞くのもツラいけど。

 

基本、人って誰かの話を聞くよりも自分の話を聞かせたがる。私も、自分の話を聞いてほしいってことを自覚してるからこそ、人の話を聞かないで話す一方の人がとても気になるんだな。

 

一方的にしゃべりすぎる人にならないように、毎朝、毎晩、こうして私はブログにしゃべりたいことを書き連ねているのです。私が誰かの話を聞けているとしたら、それはたぶん、ブログのおかげというのが大きいと思うなー。

 

毎日、私の勝手なおしゃべりにお付き合いくださって、ありがとうございます。おやすみなさい。

 

さて私は八方美人でしょうか

昔から、性格診断とか心理テストとかに疑問を持っていて、たとえば自分のことについて、「当てはまるものに〇をつけなさい」みたいに言われて、「相談を受けたり悩みを打ち明けられたりすることが多い」みたいな項目は、“他の人がどれくらい相談されてるか分からんからこんなの答えられん!”と思っていた。

 

たとえば、学生時代、1週間に1回、友達から悩みを打ち明けられたりしていても、それは学生の平均からして多いのか? 少ないのか? 自分で多いと思えば「多い」だし、自分で少ないと思えば「少ない」になってしまうんちゃうんか?

 

あと、「失敗してもくよくよしないで乗り越えらえる」とかいう項目、こういうのは、自分でそうだと思ってイエスに〇をつけつつ、“これって本当の自分じゃなくてなりたい自分ちゃうん?”と思いながら答えていた。

 

たぶん、ずいぶーん前に『心理テストはウソでした』みたいな本も出た気がするし、今ではそういう性格分析の手法も向上してるはずだから、あまり意味のないことにお金は使われていないはずだろうけど、まあ、性格を点数で表すなんて無理だし、表したところで万人に対してその性格であるはずがないし、大事な人にだけ、いい面を出しておけばいいんではないかと思います。

 

あからさまな八方美人がバレると友達が離れていくかもしれませんが、離れていったらまた次を見つけたらよい。離れていってほしくない人にだけは「あのときは仕方なくてそうしたけれど、あなたには離れていってほしくない」ということを伝えたらよい。結果、相手を取り戻せるかどうかは分からないけれど、謝ることは権利なのだから。

 

なんでこんなことを考えたかというと、昨日とあるイベントを企画して、友達に呼びかけたところ、付き合いの短い人からは「このイベントうさぎさんが好きな人しか行きませんよね」みたいなことを言われ(その人は来なかった)、別の人からは「うさぎさんらしいなと思った」と言われ、さらに別の人からは「何の疑問もなく普通のイベントとして来た」と言われ…という感じで、何事も、一人ひとり、受けとめ方が違うのだなあ、私のやることもそれぞれ別のニュアンスで受けとめられているのだな、と思った次第でしたので。

 

そうそう、「八方美人」っていうのも微妙な言葉ですよね。誰しも八方美人な面がなければ、世の中わたっていけませんので。私はあまり八方美人になりたくなくて、常に正直でいたいと思っているけれど、でも、仕事の付き合い上、つんけんしたり、あからさまにあなたのことはよく思っていません、みたいな態度を取ることはあまりしないので、その裏で会社のスタッフに「あの人、ちょっと困ったちゃんだねー」みたいに愚痴をこぼしているのが、八方美人といえば八方美人、かもしれません。

 

誰しも完璧ではないのですよ。

 

でも、たまーに、びっくりするくらい、誰かが美人に見えちゃう瞬間ってあって、それはそれで、その一瞬の真実。

 

とか言い出すとまた長くなるので今日はこのへんで。

 

意味のないことを書くスピード

基本、生きづらいな、と思ったことがあまりありません。生きづらいな、と思ったときは、因果関係を逆に考えてみると、あ、なーんだ、別に私が悪いわけじゃなくてみんながおかしいんだな、という風に結論が出るので、それでいつも「はいはい、みんな頑張ってるね」と世間を見下して自分が幸せになります。

 

なんか、めっちゃイヤなやつですね、私。でも、見下した態度を出さなければ、それで丸く収まります。自分の中でまわりを見下していても、私の表に出てくる言動としては「すみませんでした…(しょぼん)」というものなので、たいていの人はそれで留飲を下げます。自分以外の人を見下して満足するのは、私だけではないのです。

 

こんなイヤなことを書こうとしたのではなくて、私は因果関係をひっくり返して考えるのが好きなのだけれども、自分の身体に関しての因果関係にはめちゃめちゃ無頓着なので、ダイエットがあまりうまく行かない、という話です。

 

今年のはじめに私が毎朝ラジオ体操をしていたことを覚えていらっしゃるでしょうか。1か月で挫折しましたが。今は、できる限り毎朝、スクワットをしています。シャワーを浴びる前に好きな曲をかけて、音楽に合わせて2曲分。

 

10分弱の運動ですが、まじめにやると息切れがして汗が出てきます。朝食をやめて、このスクワットをしているからだと思うのですが、あんまり太らないで済んでいます。思うだけで、本当にそうなのかどうか、因果関係は分かりません。

 

なぜかというと、たまに暴飲暴食をしたり、甘いものをけっこう食べたり、スクワットをさぼったり、いろいろしているからです。そして、自分の体形を自分で気に入ってはいますが、それは単に私のスーパーポジティブ脳がそうなっているだけで、体重を測ってみたら、うなぎのぼりに増えているかもしれないからです。

 

感覚はウソをつきます。感覚ではなくて数字で考える。そういえば、このブログを始めたころ、数字で考えることを心がけていたような気がします。そんなことを書いていたような気もします。

 

経営者は数字がすべて! みたいな本を読んでいたからだと思います。が、基本、記憶力があまりよくないので、そんな本の内容もすっかり忘れて、まわりの人が幸せなら私も幸せ~、という感覚経営に戻っていました。いかんなー。

 

数字、大切ですよね。時間も数字ですね。もうすぐこのエントリは1000字になりますが、だいたい10分で書き終えることができそうです。

 

私が脳みそを字に垂れ流すスピードは、1分に100字ですね、だいたい。

 

なんの役にも立たないデータ収集でした。

 

皆さまも、よい1週間をお過ごしください。

 

歴史の面白さと時代劇

ガラスのコップに熱い飲み物を入れたら熱くて持てないよー。あっちー。

 

今日は1日、工作みたいなことをして過ごしていた。5,6年前、私には何も特技がないと思って、「これで食べていく」みたいな手に職も、「これだけは負けない」みたいな特技も、何もなくて、とにかく器用貧乏なだけの自分に絶望していた。

 

けど今は、なんでもできる自分がエライ、と思う。工作は、お金を払って私に頼んでくれる人はいないけど、そこそこ器用にできると思う。料理も、人にふるまうことはできないけれど、自分が食べたいものを作ることくらいはできる。暗算も遅いし、会社の経理もできないけれど、表やグラフぐらいなら何を意味しているかは読み取れる。

 

社会はまるでダメですね。特に歴史。過去に人間が何をしてきたか、全く知りません。覚える気がない。覚えることの面白さが1つも分からない。だから覚えられない。

 

時代劇の面白さも、全くもって分からないです。どの時代にも、今の時代と同じ気持ちの動きがある、とか、そういうことを見て楽しむべきなのでしょうか? つらい時代でも、激動の時代でも、人々の行動や気持ちの美しさは同じ、みたいな?

 

でもそれって、あくまでも今の私たちが理解できるレベルの心理に合わせて描かれてますよね? 本当にその時代に、その人たちがそういうことを考えていたかどうか、本人たちじゃないと分からないんじゃないかなあ、と思うし、いろんなことを都合よく解釈して描いてるんじゃないかなあ、とか、なんでこんな意地悪なことを書いてるんだ、私は?

 

そうそう、時代劇というのならですね。狩猟採集の時代のドラマを書いてみたらいいのではないかと思うのです。そのころの人間が、どんな風に暮らしていたのか、気になります。当時のイケメンとはどういうものだったのか。当時の勝ち組とはどういうものだったのか。畑をもたず、たくわえを持たず、狩りと自然の恵みを採ることで生きていた時代、人々は何に喜び、何を憂いていたのか。

 

どうせ戻るなら、そこまで戻ってみてはいかがでしょうか。なんか、それってもうむしろSFみたいですね。

 

ああそうだ。こうして文章を書くことが好きな私は、平安時代の和歌のやりとりでモテるモテないが決まっていた時代に生まれていたらそこそこいい線行ってたんじゃないか、っていう気がします。

 

が、それも、今の時代から解釈してるからそう思うわけで、その当時はきっと、がんがんに女子力を磨くようなタイプが必死で和歌をひねり出していたのでしょうから、きっと私なんかは、「けっ」とそれをバカにして、むしろ着物とかに熱を上げたりしてたかもしれませんね。

 

こうなるともう、何が仮説なんだかよく分かりません。現実を受け入れて生きていくしかない。

 

おやすみなさい。

 

前の会社の上司の思い出

今日は朝から動いてます。後であれやって、これやってー、と考えていたら、調べものに関連して、前の会社の上司のことを思い出しました。

 

ものすごく頭のいい人で、実績もあって、話していて感じが悪いと私は思ったことがなかったのだけど、ものすごく部署の人たちから嫌われていた。

 

私は入社9か月でその部署に配属されたばかりで、彼のすぐ隣の席に座らされた。そして、その時は全然分かっていなかったけれど、私の異動と同時に、彼が初めて管理職になったのが、その部署だった。

 

彼は、一日中ぐちを言っていた。「オレの人生、なんでこんなことになっちゃったんだろうなあ」「こんなとこに来るはずじゃなかったんだけどなあ」と。

 

今思えば、これをまだ入社1年未満の私に聞かせていたという時点で完全にアウトだけれど、バカで素直で若かった私は、この人はかわいそうな人だなあ、自分の人生が思うようにならない気の毒な人だなあ、と心の底から同情していた。

 

彼の仕事の指示は明確で、私の仕事量が少ないうちは「早く帰るのも能力のうちだから帰りなさい」と言って、職場のみんなが残業している中で、一人で帰らせたりしてくれた。もちろん、彼自身も、いつもマイペースで仕事をする人だった。

 

私は最後までその上司のことを嫌いだと思ったことはなかったけれど、まわりは完全に嫌っていたし、他の部署からも嫌われて、その後、どんどん結果が出なくなっていった。今思えば…すべては今思えばなのだけど、会議の場で成績の悪い営業地域のことを完全にこき下ろして、会社のナンバーツーの怒りを買い、「あいつの部署の商品は売らなくていい」という指令が全国の営業マンに下されたのだから、結果が出なくなって当たり前だよね。まー、今思えば、そんな私情で指令を出すナンバーツーのいたような会社なんだから、辞めてよかった。

 

と、文字にしてしまうと、救いようがない感じなのだけど、何より救いようがなかったのは当時のバカで素直で若かった私で、それをすべてそういうものだ、と受け取っていたのですよね…。

 

何が言いたかったかというと、いくら頭がよくて仕事のできる人でも、まわりをバカにしてはいけない、ということなのです。上で書いてたことと、この本旨がうまく結びつかなくて、ちゃんと伝えたいことを伝えるためには「書き直し!」と、まさにその上司にけちょんけちょんに直された企画書のように、書き直ししなければいけないのですが、すでに私はバカで素直な若者ではなく、バカで素直なおばちゃんなので、このまま公開しますよ。

 

皆さまも、よい1日をお過ごしください。