いまだに怒りを手放せない

世の中には、とてもかなわないと思うほど素敵で素晴らしい人が多い一方で、この人なんでこんなにクズなんだとか、どうしようもないほどくだらない、と思う人も多い。

 

後者のふるまいを目の当たりにすると、心底げんなりしてしまう。そういう人たちとは、分かりあえる気がしないし、分かりあうための努力さえも空しい、と、そういう気分になる。

 

分かりあいたい、と思う人とより多く分かりあえるのが幸せな人生だという気がするけれども、はて、では、分かりあえない人たちとは、どのような距離感をとるのが幸せだろうか。あるいは、善き人間として、どのような距離感をとるべきだろうか。

 

すべての人と分かりあう必要はなく、すべての人に友好的である必要もなく、すべての人に親切である必要もないとしたら、いったん絶望した相手との関係は自然消滅に任せるのがよい、とも考えられるけれども、それをやっていくと、私のまわりにはどんどん人が少なくなっていく気がする。

 

なるべく新しい人とたくさん知り合い、分かりあいたい人だけを周りに残していけば、つきあいたくない人とは距離を保ち、ある程度の人数の分かりあいたい人たちが周りにいてくれる、という状況になるだろうか。

 

去年の飲み会で私にイヤな思いをさせた友人について、実は今でもイヤな思いが消えていなくて、偶然、彼女の身に起こった不幸を喜んでしまうような自分がいて、そういう自分を責めている。責めている一方で、それくらいの人間らしい感情は私にも許されるべきだという気がしている。

 

怒りを出せない。考えすぎて、気を遣いすぎて、怒りをそのまま出すことができない。健全であると思う一方で、不健全でもあると思う。

 

いつかまた、彼女と接する日が来るのかもしれないし、その頃には、今の感情なんて忘れているのかもしれない。あるいは、このまま接する日は来ないのかもしれないし、私から積極的に彼女に会おうとする日が来るのかもしれない。

 

忘却とか、償いとか、赦しとか、修復とか、人間関係の再構築にはいくつか方法があると思うけれども、それって、意志の力で選択できるものなんだろうか? 気づいたら忘れていた、とか、時間が経ってやっと許せるようになった、とか、他の誰かの力添えで仲直りできた、とか、そういうのって、関係の変化は結果論なんじゃないかと思う。

 

だから、意志の力を使うことさえ空しい、とそんなことを考えている今の私に、友人との関係の再構築は難しいだろうな。仕方ない。受け入れるだけです。