インパクトを受けましたのでレポート

うーんと、わりと、まあ、私の人生に大きなインパクトを与える出来事が、さっき起こったばっかりで、それを自分がどう受け止めたらよいのか分からないので、文字にしてみる。

 

と、書きだしたは良いものの、やっぱりあまりにインパクトが大きくて、文字にできない。感情と、思考と、行動と、どこから手をつけてひも解いていったらよいのか、途方に暮れてしまう。

 

と、書きだしたことで分けることができるのであった。やっぱり文字にするってすごい。

 

感情。思考。行動。

 

感情。いちばん大きな感情は、恐れだ。不安、かもしれない。そう、大きなインパクトを与える出来事というのが、私はこれを喜ばしいことだと思っていないのだ。自分で招いたことだとは言え。

 

だったらなぜ、そんな恐れや不安を招くような種をまいたのか、というところにさかのぼる。なんでだ。なんでかっていうと、責任を取りたかったというのが1つ。そしてもうひとつは、自由になりたかったというのが1つ。

 

自由には責任が伴うのだ、というのをしみじみとかみしめている。自分で責任をとることで、自分を自由にして、そしてその結果、不安におののいている。

 

責任をとったことで、他の誰かを自由にした、のかもしれない。他の誰かのために私が不安を引き受けた、のかもしれない。

 

だけど、ここにフォーカスすると、その人に対する感情がふくらんでしまうから、そこに目を向けるのは、やめよう。

 

あくまでも、私が引き受けられるのは私の感情だけだ。

 

不安。恐れ。それから? なんだろう。自分にちょっと呆れている、かな。なんでそんな無謀なことをするんだよう、みたいな。

 

無謀であることに、本当は私は誇りをもつような性格じゃないんだよな。本来の私は、冒険を好んだり、賭けに出たり、そんな無茶を自慢するような、そんな人間じゃないんだよな。

 

なんだけど、それ以上に、責任を取りたかったのだ。自分にとれる範囲の責任なのだから、これを無謀や無茶だと考えないように、しよう。

 

思考。思考は、今はストップしているな。完全に感情が勝ってしまっていて、思考することができない。だから、行動もしない。感情にまかせて行動するなんて、それこそおろかなこと。それをしないでいる、というだけの思考が、かろうじて残っている。

 

だから、思考をともなわなくて良い行動を。とりあえず、パソコンの電源を落として、コートを来て、忘れずに傘を持って、家に帰ろう。家に帰って、眠ろう。感情に打ち勝つ思考が回復するように。

 

おやすみなさい。

 

子供たちが私に与えてくれるもの

先ほどマニキュアを塗りまして、乾かす時間を使ってブログを書いております。

 

今日は、何を書こうかなー。

 

子供たち、明日から新学期だそうです。中3の長男は「クラス替えだー」と言っていました。そうか、クラス替えか。しかも中学校最後の学年。仲のいい子と一緒になれるといいね。あるいは、一緒になった子たちと仲良くなれるといいね。

 

どっちかというと、後者は心配していないかな。誰と一緒になったとしても、息子は如才なく仲良くやっていくと思う。

 

けど、これまで仲の良かった子たちと一緒になれなくて、「3年生もお前らと一緒がよかったなー」という思いを抱き続けて卒業してくことになったら、ちょっとかわいそうだな、と思う。まあ、かわいそうだと思ったところで仕方がないのだけど。

 

小6になる娘は、クラス替えのない学年で、でも担任の先生は変わる可能性があるので「担任の先生、誰がいい?」と聞いたら、「別に、今の先生でいい」とのこと。担任を変わってほしいとか、早く別の先生になってほしいとか、そう思わずに去年1年いられたのだったら、よかった、と思う。5年生の女の子なんて、けっこう複雑な年齢だと思うし。娘の周辺が穏やかなのであれば、それはありがたいことだ。

 

私はこの4月になっても、何も変わらないかな。新入社員が入ってくるような大きな会社でもないし。退社してしまうほど年配の社員もいないし(というか、正社員はいない会社だし。)GW後に五月病にならないように、適当にがんばり続けるだけって感じかなー。

 

何か区切りが欲しいような気もするし、区切りがあったところでその後にまた人生が続くことも、もう分かったし、淡々と、粛々と、人生を進めていくだけのことかな。

 

大きな喜びとか、ものすごい悲しみとか、ありえないほどの怒りとか、そういうものから遠ざかってしまって久しい。身の回りにそういうものが起こらなくなったのか、あるいは気持ちが動かなくなったのか。

 

と、書きつつ、最近いちばん嬉しかったことって何かなー、と考えて、思い出した。長男から言われた言葉がものすごくうれしかったのだ。

 

私は中学校のときに国語の教科書で読んだヘッセの『少年の日の思い出』がものすごく印象深くて、特に過ちを犯した主人公に対する母親の言動がなんだかとても良いな、と思っていて、いつか子供を持ったらこういう母親になりたい、と思っていたのである。

 

先日、長男と「最近の教科書って何が載ってんの?」という話になり、息子が「《エーミールと僕》だったかな」とか言い出したので、「それ、『少年の日の思い出』でしょ」と言うと、「ああ、そうそう。その話読んで、主人公のお母さんが、俺の母さんに似てるなって思ったんだよね」とさらっと言ったのですよ。

 

死んでもいいって、こういうことを言うんだろうな、と思いましたよ。死なないですけどね。

 

マニキュア乾いたかな。乾いたらお風呂に入るのだ。

 

おやすみなさい。

人生は秋たけなわである

日中、仕事で久しぶりにあった同年代の女性から、「えっ…どうしたんですかうさぎさん、その顔!? …メガネの後かと思ったら…クマですか、それ!?」と、開口一番に目の下のひどいクマを驚かれてしまった。オーマイガー。そんなくたびれた顔してんのか、私。クマったな。

 

いやもう、なんつーか、寄る年波には勝てないですよ。クマもひどいしシミもひどい。しっかり睡眠をとっているのに疲れる。疲れが顔に出る。

 

とまあ、がっかりすることもあったけど、うまく仕事のピンチを切り抜けられた場面もあり、しかし久々に子供が熱を出して落ち込む感じもあり。人生ってホント、いろいろな感情を味わいつつ、進むしかないのですねー。

 

昨日は昨日で、新しい人々との出会いがある飲み会に呼んでいただき、久しぶりに楽しかった。シャンディガフと赤ワイン2杯。食べる量が少なかったせいか、しんどくもなく、いい飲み会だった。

 

当たり前だけど、行って楽しい飲み会と、行っても楽しくない飲み会があるのだな。できれば行っても楽しくない飲み会には行きたくないものだ。しかし、楽しいかどうかは、行ってみないと分からないのだ。

 

東京は桜が見ごろだけれど、花見らしい花見はしていません。誰からも誘われてないし、なんだかもういろいろばたばた忙しすぎるのだ。なんだかんだと毎日たくさんやることがある。

 

今日は久しぶりに部屋に掃除機をかけた。いくぶんか気分すっきり。私の掃除機をかける頻度は極端に少ないが、娘には「お母ちゃんの部屋は汚いけど、まあ、普通に汚いから大丈夫。汚すぎるゴミ屋敷とは違うから大丈夫。」と言ってもらった。はあ、すみませんね。

 

なんだかまたタバコが吸いたくなってきた。これは、心身がつらくてそこから逃げたいというサインなのかな。それともタバコを吸ってた元カレを思い出すようになった、つまり私の中の風前の灯みたいなホルモンが騒ぎ出したってことなのかな。

 

春ですからね。静電気はうっとおしいけど、桜に限らず、菜の花やチューリップ、名前も知らない花々が一斉に咲き誇っているのを見るのは、やっぱり気分が上がる。

 

そういえば、昨日の飲み屋で隣になった若い女の子たち、かわいかったな。にこにこと笑って、お酒を美味しそうに飲んで、私たちのグループのおっさんが「これも食べなよ」って料理をおすそわけすると、喜ぶ様子と遠慮する様子のバランスが、絶妙にかわいかったな。

 

まだ20代の彼女たちは人生の春だな。私は人生の秋だな。春爛漫の明るさ、美しさはないけど、秋には秋なりの味わいを、出していけたらいいな。クマはクマったもんですが。

 

もはや、おばちゃんというよりおっさんだな。

 

おやすみなさい。

 

娘と過ごしている時間

子どもたち、春休み。家で過ごす時間が増える。私の家へ来る時間も増える。私は春休みではないけれど、それでもなんとか子どもたちと過ごす時間を増やそうと試みる。

 

娘に読んでやっている本がある。『世界を変えた100人の女の子の物語』。うまくリンクが貼れないけど。

 

ときどき、ときどき、ほんの少しずつ、数ページずつ、時間があるときに、読んでやる。娘はもう6年生だから、漢字も読めるし、黙読もできる。けれど、私が読んでやる。二人で布団の上に座って、隣どうしにならんで、体温を感じながら、読んでやる。

 

この本を買おうと思った理由はたくさんある。

娘に本を読んでもらいたかったから。

娘に世界で活躍した女性のことを知ってもらいたかったから。

娘に知識をつけたかったから。

娘に私から何かプレゼントをしたかったから。

娘とコミュニケーションをとりたかったから。

ネットで見た評判の書籍がどんな内容か確かめたかったから。

近所に応援したい書店があったから。

 

そして今、この本は、ただただ母と娘の一緒の時間を増やすことに、役立っている。私が読んでやらなくてもどんどん本を読むような、娘がそんな風に勤勉な小学生だったら、私はうれしいだろう。だけど、「ママ、読んで」と本を持ってきて私の隣に座ってくれる小学生であることは、もっとうれしい。

 

この本は、古今東西から、名を遺した女性を集めていて、中には娘とほとんど生まれた年が変わらないような、存命の人物も扱っている。

 

生年と没年が書かれているので、娘は「この人、長生きだったんだね」とか、「この人、〇歳で死んじゃったんだね」ということを気にする。

 

そこから、「私が〇歳になったら、ママは何歳?」という話になり、20年後でもまだ娘は31歳、私もまだ63歳、という話になった。私の母は70歳を過ぎてまだまだ元気なので、「おばあちゃんもまだ元気だもんね。私が31歳になっても、まだママは元気だね。人生って意外に長いんだね」などと言う。

 

私が娘に「その頃、私が元気かどうか分からないよ。それよりなにより、☓☓が私より先に死んじゃダメだからね。子どもが親より先に死ぬのは何より悲しいんだからね。☓☓、どこにも行かないでね」と言ったら、娘が「ママもね。どこにも行かないでね」と。

 

私はどこかに行きたかった気もするし、いつかどこかに行かなくてはならない日がくると思っているけれど、とりあえず今は、ここにいる。

 

どこにも行かないで、つまりここにいてほしい、と最愛の娘が言っているのだから。

 

私自身のことをひたすら書く

特に申し上げたいことがあるわけではありませんが、書き始めるとなんだかんだと1000字は書けてしまうので、今日もそうやってのらりくらりと人生の15分ほどを過ごそうと、ここにやってまいりました。

 

何のことを書きましょうか。何のことなら書けるでしょうか。私の頭には何が入っているでしょうか。私の人生は何で構成されているでしょうか。

 

朝起きて、着替える。寒いのがとにかく嫌いなこと。だから布団から出るのがつらくて仕方ないこと。洋服に興味がないこと。とはいえ5着くらいを着まわしているから、変人だと思われない程度にはちゃんとした服を着ているつもりだということ。髪の毛がとても素直で、起きてそのままでもほとんど整っていること。

 

着替えて、台所の洗いものをする。家の中ではエプロンを着けていること。肩のところの幅が広くて背中でその肩の布がクロスしていて、結ぶ必要もボタンでとめる必要もないエプロンが、着るのがらくで肩がこらなくてとても気に入っていること。ただしデザインは藍色に絞り染めというたいへん渋いものだということ。

 

寝る前に洗い物をするのがめんどくさいという怠け者で、ただし台所があまりに汚いままで会社に出かけるのはさすがに気が引けるので、朝になったら洗い物をするということ。

 

このところ使っている台所洗剤が、昔に使っていたモップ交換業者のシールを集めて無料でもらったかなんかの台所洗剤で、においも使い心地も全然気に入らないこと。無料だからといって手に入れたところで、気に入らないものを使い続けるというのがあまり精神衛生上よくないのではないかという人生観であること。とはいえ、その無料だった洗剤は1.5リットルくらいあって、それを捨てる勇気はないこと。あと、気に入るものだけを使い続けるというような贅沢が、今の経済状態では許されないのではないかということ。

 

顔を洗って、歯を磨く。顔を洗うのに石鹸も洗顔料も使わないこと。自分はかなり怠惰な部類に属する人間だと思うけれども、朝晩の歯磨きだけは決して欠かさないこと。歯ブラシは2種類、練り歯磨きと液体歯磨き、さらにデンタルフロスも用意してあること。とはいえ、そこまで歯磨きに人生を賭けているわけではないこと。だけど、たぶん、歯を大事にするレベルでいったら日本人の中で偏差値56くらいにはなるのではないかという気がすること。

 

髪をとかして、化粧をする。化粧品はほとんど使わないこと。髪の毛が素直だとはいえ、このところ毎日ドライヤーでセットしていること。整髪料は何もつけないこと。

 

といったところで、1000字を超えました。この調子で書き続けると、いつまでたっても一日が終わらない。

 

おやすみなさい。

 

危険な食べ物

失敗するのがみっともないとか言ってないで、痩せよう、と宣言してから何日? 先週くらいには、もともとの体重から1.4キロくらい減って、がんばってる、がんばってると思っていたけど(実際、がんばってた)、今日になって、わずかマイナス0.6キロに戻っていた。体重って、減らすのは少しずつしか減らないのに、増えるのは簡単にあっという間に戻る。なんでー。生物としておかしいでしょ、この仕組み。

 

生物としておかしい食生活を、しているのだな、私たちは。私の場合、天敵はホットケーキです。ホットケーキ、便利で、おいしくて、危険すぎる。ホットケーキミックスは常備だし、子供もすぐに食べたがるし、簡単に焼けるし。

 

と書きながら、これ全部、理由と結果をひっくり返すこともできるのだよな…。

 

常備できる食材は、ホットケーキミックスに限らない。パスタだって、乾麺のうどんだって、なんならパックに入ったごはんだって、いやいやそもそも米を置いておいて、炊けばいいんだよ。米、常備できるっしょ。

 

子供もすぐ食べたがる…ってのも、なんかウソくさい。うちの子たちがいつも食べたがるのはグミとかポテチとかじゃがりことかだ。毎回毎回、そういうお菓子ばかりを食べさせるのはなんとなく罪悪感を感じるので、しょっちゅうホットケーキを焼くのだ。ホットケーキを食べさせることには、いっさいの罪悪感が、ない。

 

そして、簡単に焼けるというのがそもそも大嘘なのだ。ホットケーキミックスからホットケーキを作ると、ボウルと菜箸とゴムベラがべたべたになるし、フライパンも使わなきゃいけないし、食べた後のお皿ははちみつとバターでしっかり汚れるし。これだったら、ゆでたまご作るほうがずっと簡単。キャベツを手でちぎってツナ缶開けて、サラダを食べるほうがずっと手軽。

 

なんだけど、混ぜたり焼いたり洗い物をしたり、というめんどくささを、はるかに超えて、ホットケーキは美味しいのだ。悪魔の食べ物なのだ。

 

我々人類は、蟹肉のためなら固い甲羅に立ち向かう精神を持ち合わせているのだ。美味しいものを食べるためなら、苦労を苦労とも思わないというのが人間のサガなのだ。

 

私の場合、それがホットケーキなのだ。ああ、私の好物がゆでたまごとかりんごとかだったらよかったのに。ゆでたまご? 殻むくのめんどくさい…。りんご? 高くない? 食べるとき皮むくのに包丁が汚れるし…。

 

ゆでたまごが何より好き、って人は自然にゆでたまごダイエットができちゃうんだろうなあ、と思ったんですが、どうでしょう? りんごも同様。

 

おやすみなさい。

 

反抗期の反対

この4月から、つまり明日から中学3年生になる長男。つまり今日で中学2年生は終わり。

 

中学2年生といえば厨二病という病気もあるくらい(こんな字?)、難しいお年頃だと言われているけれど、息子と私の場合でいったら、この1年間は、ここ5,6年でいちばんと言っていいくらい、仲良く心地よく過ごせた1年間だったと思う。

 

息子は、大人だ。というか、大人に、なった。

 

春に、「お父さんとお母さんっていつか離婚するのかしらねえ」と言ったときは、「別に、いいんじゃね? このままで」と、あっさり解決策を提示し。秋に、「中学校生活が半分終わっちゃったねえ。あと1年半できみは本当に高校生になるのかしらねえ」と言ったときは、「なるんじゃね。まあ、どっかしらは入るよ」と、不安も見せず。

 

好きな音楽の話、読んでいる本の話、見たい映画の話、そういうカルチャーの話を、たくさんした1年だった。難しいお年頃だというのは、脳の機能がほとんど大人と同じになるからだ、というのを聞いたことがあるけれど、まさにその通り、大人と同じような、趣味の会話ができるようになった、と思う。

 

だけど。

 

昨日、すごく久しぶりに一緒に食事をしていて気づいたことがある。

 

反抗期というのは、子供が大人になっているのに、まわりの大人が彼/彼女を子供扱いするからこそ、起きるのだと思う。自分はもう子供じゃない。子供扱いされたくない。

 

私と息子の場合は、逆なんだ。

 

私は、14歳の息子をほとんど大人として接しているけれど、彼は、まだ子供なのだ。

 

昨日、二人で食卓につくのがすごく久しぶりで、私はなんだか照れてしまって、うまく話もできないというか、どんな風にふるまったらいいのか分からなかったのだけれど、彼は普通に、子供として、息子として、夕飯を食べていた。当たり前かもしれないけれど、私はその姿を見て、ああ、子供なんだな、と思った。食事のマナーがあまりよくなくて(お茶碗の持ち方とか)、直したくて注意したかったけど、一瞬、もう言わなくてもいいかな、と思いかけた。もう、彼は子供じゃないんだから、言わなくてもいいかな、と。

 

でも、それでもまだ子供なんだし、他に直してくれる人はいないんだし、と思い直して、「お茶碗の持ち方はこう。指をもっと伸ばして」と言ったら、「やだ。疲れる。いいじゃんべつに」と、やっぱり反抗期の少年が顔を出した。

 

私は反抗期がないことでラクをさせてもらっているけれど、彼が必要以上に早く、大人にならなきゃと、無意識に思っているとしたら、ごめんね、と思う。

 

子供でいたいときも、早く大人になりたいときも、それで子供たちが苦しむことのないように、と願っている。

 

おやすみなさい。