想像力がないのはどっちだ

テレビのない生活をしているので、というのは言い訳だけど、悲惨なニュースや残酷な事件の報道をテキストで目にしても、あまりリアリティーがないというか、「え、これ悲惨な事件なんじゃないの?」と、頭で考えてしまう感じ。

 

それって想像力が足りないのかな、と思ったのだけれど、いや、待てよ。

 

テレビの映像で現場の様子とか再現のVTRなんかを見ると、一気に悲惨さをリアルに感じる。

 

それって、想像力があるって言えるのだろうか? 

 

映像を目にして心を痛めて何も手につかない、という人が繊細で感受性が豊かなのだとしたら、テキストをクールに受けとめてすぐに忘れて淡々と日常をこなす人は薄情だろうか。

 

想像力って何だろう。共感って何だろう。善意って何だろう。

日曜日のタマネギ

元のネタは土曜日ですけどね。(わかる人いるかな?)

 

冷蔵庫に玉ねぎが4つあって、使わなければ~、ということで、3つをスライスしてフライパンへ。


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炒めること1時間。

 

予約していた美容院のために出かける時間になってしまったので、中断。


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帰ってきて、仕事して、また続き。


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最後、もういいかな、って思ってからさらに30分。手が痛くなったけど、まあ、これくらいでいいかな。

 

オニオンスープ、大好きなのです。オーブンで焼くのはめんどくさいから、チーズをのせてトーストした食パンを入れるという簡易版ですが。

 

でも、残念ながら今日は、美容院の後で、「ぎょうざの満州」にて肉細切ピーマンを食べてしまったので、今まだお腹がすいていない。

 

無駄にぎょうざの満州の「関東グランドメニュー」のリンクを貼ってみる。

http://www.mansyu.co.jp/menu/kantoubihin/kantou01.html

 

美容院で「痩せましたね」って言われた。これってすごくない? 前に行ったのは8月10日なので、この間、ほとんど毎日続けている高速スクワットのおかげです。体重やサイズを測ったりしてないけど、体感的にも確かに痩せた気がする。お腹まわりとか二の腕とかアゴとか。

 

ねこやまさん、本当にありがとう。

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ねこやまさんの最新の記事はスープのレシピ。

 

www.umablo.net

 

私はスープが好きで、よく作る。ほとんど料理をしないけど、唯一よく作るのがスープ。今、スープボウルが欲しいのです。自分のクオリティ・オブ・ライフ(というか自己肯定感)を上げるために、お気に入りのスープボウルが欲しい。

 

ポルカで「誰か私にスープボウルを買ってください」ってやってみようかな(笑)。

 

polca.jp

 

 とかいろいろ書いていたら、お腹がすいてきた。オニオンスープ、作って食べようっと。

 

やりぬく覚悟

何かプロジェクトでも、組織の改編でも、一人ではできないことをしようと思ったとき、最終的に必要なのは、一人でも最後までやりぬくという覚悟だと思う。

 

「いい考えだと思う」と賛成してくれる人はいる。「手伝うよ」と言ってくれる人もいる。だけど、率先して動いてくれる人はいない。賛成してくれていたはずの人も、手伝ってくれるはずだった人も、しんどくなったり、本人たちのイメージとずれていたりするだけで、軽々とやめていく。

 

だけど、それでもそのプロジェクトを成功させるには、「一人でも最後までやりぬく」しかない。

 

納得してくれたはずの人が去っていったら、別の人を説得する。手伝ってくれるはずの人の都合が合わなくなったら、別の人に手伝いを頼む。一人ではできないことを、一人でもやるためには、一緒にやってくれる人を、一人ずつ増やしていくしかない。

 

今、私が立たされているのは「やる」とか「始める」とかではなくて、年々続けてきた地域の行事を、来年はもう止めたい、と訴えられている案件。私がその決断をできる立場のため、何十年も続いてきたことを「止める」というプロジェクトを実行するかどうか。

 

誰のために、何のために。

 

明らかに、私には何の得もない。むしろ、嫌われ役になるだけのことだと思う。それでもやるかどうか。

 

「止める」という決断自体を、しないことは簡単だ。例年通り来年も続けていきましょう、という決断をしてしまえば波風は立たない。

 

だけど、私が「止める」ことをすることの意味は何か。

 

私は、私に聞こえてくる身近な人たちの声(もうやめたい)に応えたいという気持ちがあるのだ。言いたいことだけを言う、外部の人間には言わせておけばいい。私は、私の目の前にいる仲間のために、私ができることは何か、それを考えたい。聞こえてくる声を無視することができない。

 

言いたいことを言う人には言わせておけばいい。全員から好かれるなんて無理だ。誰から好かれたいか、誰から感謝されたいか、それを選ばなければ、人生がパンクしてしまう。

 

それにしても、「加茂さんにならついていきますよ」と何人もが言ってくれることのありがたさと、同時にそれに対する戸惑いと。自分がやりたくないことのために担ぎ出されるのはもう勘弁~、という感じもあるのだよなあ。ビジネスでこれができたら、本当にカッコいいと思うのだけど。

 

理由を尋ねるのってホント意味ないよ

今日も今日とてせっせと書く。

 

さっき、『ムーンライト』を返しにいって、ついでに家にあった本をブックオフに売りにいって(23点で2045円になった)(そのうち、数週間前に200円で買った本が5円で買い取られてた)(その2冊はつまり195円で2週間借りたって感じだな)(まあ妥当)(さすがブックオフ)、道路を歩いていたら、世の中小さい子供を連れて歩いている人、多いのねー。自分が過ぎた道だから気になるのか、自分が失った過去だから気になるのか、とにかく、お父さん、お母さん、お疲れさまです!という気分。

 

あるお母さんが、3歳くらいの女の子に「なんでこの前はできたのに今日はできないんですか⁉」と、詰問口調で聞いていた。「~ですか」っていうのは、丁寧に言ってるんじゃなくて、ブルゾンちえみみたいな、嫌味な敬体ね。

 

小さな女の子は、「だって、だって…」と、ぐずぐず。

 

最近の私は、人間の行動に「どうして」を尋ねるのはものすごく無意味なことだと思っている。特に過去のことは、理由が分かったところで、何の解決にもならない。

 

試験が終わってから「どうしてもっと勉強しなかったのか」と問われても、合格点に足りないという現実は変えられない。

 

料理の味付けに失敗してから「どうしてこんなに塩を入れてしまったのか」と問われても、しょっぱすぎる料理の味は変わらない。

 

スピード違反で捕まってから「どうしてあんなにスピードを出していたのか」と問われても、罪を見逃してもらえるわけではない。

 

人が、他人の行動に対して「どうして」って尋ねるのは自分が納得するためで、それ以外に効能はないんじゃないか。

 

逆に、理由が分かったところで、問題の解決につながらない事例はいくらでもある。

 

以前にうちの会社で働いていたパートの女性は、とにかく遅刻が多かった。その都度、その都度、理由はきちんとしていて、それで責めたり叱ったりということはしなかったけれど、あまりに回数がかさんで、社内で信頼感を失っていった。

 

遅刻の理由は、電車が遅延した。忘れ物を取りに帰った。家族が急病になった。自分が体調を崩した。病院に行ったら混んでいた。などなど、などなど。

 

勤め始めて数か月でその状態だったため、本人や家族の体調のために私がしてあげられることはないし、「理由を疑っているわけではないけれど、とにかく私は安心して働きたいのだから、信頼感を回復するためには、この先、遅刻しないようにするしかないのではないか」と話したら、「はい、すみません」とうなだれていたものの、翌週にまたすぐ遅刻を繰り返したため、残念だけど、辞めてもらった。

 

理由があればいいってもんじゃないのだ。

 

女の子を叱っていたお母さんに戻って、もちろんこのお母さんも、子供が理路整然と、「先日はこうこうこういう状態でたまたま自分の行動が功を奏しましたが、本日はこうこうこういう点が異なっている事情があり、こうこうこのように私としては同じ行動を試みましたが、こうこうこういう理由により失敗に至りました」とか説明されることを望んでいたわけではないだろう。

 

可愛そうに。

 

お母さんも、子供も。つらいだろうね。

 

自分の行動だって、思うようにできないのだから、ましてや責任もって他人の行動を律しなきゃいけないなんて。

 

うん。

 

ブックオフに出かけるついでにカフェで勉強しようと思っていたのに、こんなブログを書くことで時間をつぶしてしまったよ。な、ぜ、な、ら、ブログを書くのは楽しいから、なのだ! 私ってばもー、ダメ人間なんだからあ。

 

 

 

映画『ムーンライト』を見た

映画『ムーンライト』を見ました。

 

moonlight-movie.jp

 

本当はこの夏、『ラ・ラ・ランド』よりも見たかったのだけれど、時間が合わなくて公開が終わってしまった。昨日、〇タヤでDVDレンタルが始まっているのを見つけて、新作だから高かったけど、これを逃してはならん、と借りてきた。新作だからケチって1泊コースなので、これから返しに行かなくては。

 

『ムーンライト』、素晴らしい映画でした。

 

一人の黒人の男の子が、1.リトル 2.シャーロン 3.ブラック と、ムキムキで金ピカ入れ歯のゴツい男になるまでを描いている。

 

「リトル」と呼ばれるシャーロンは、ちょっと身体が小さくて弱気、といった程度の男の子だ。まわりからいじめられて、追いかけられたり、ラグビー(アメフトか?)から抜け出したりするけれど、目も当てられない幼少時代ではない。母親はヤク中だけれど。父親らしき男から怒鳴られたりはするけれど。

 

思春期の「シャーロン」は、目立つほど細く、見るからに気が弱そうで、教室であからさまにいじめられる。話しかけてくれる友達はケヴィンだけだ。母親のヤク中はひどくなり、シャーロンからもお金を巻き上げるし、売春のために夜、シャーロンを家から追い出す。居場所のないシャーロンは、浜辺でケヴィンに会う。ケヴィンだけはシャーロンを嫌がらず、「ブラック」と愛称で呼ぶ。そして、二人は浜辺で強いつながりを持つ。

 

だけど、思春期の子供たちが一日の大半を過ごさなければいけない学校というのは残酷な世界だ。いちばんの権力者のドレッド男に命じられて、ケヴィンはシャーロンを殴る。シャーロンはケヴィンを見つめながら、殴られるままにする。

 

腫れた顔を氷で冷やしたシャーロンは、翌日、学校でドレッド男に椅子で殴りかかる。警察に取り押さえられ、シャーロンは少年院へ。

 

大人になった「ブラック」は、ガチガチに体を鍛え、金色の入れ歯をして、ヤクの売人になっている。手下をびびらせて試す。

 

それでも寝られない夜があり、そんなときは顔を冷やす。氷で、冷蔵庫の冷気で。

 

ある夜、ケヴィンから電話がかかってくる。「久しぶりだな」と。「あのときのことを謝りたい」と。

 

ブラックは、大きな車を運転して故郷のケヴィンを訪ねる。ケヴィンが料理人をしているというダイナーへ。

 

見た目が激変したブラックに驚くケヴィン。ヤクの売人をしているという近況にも「お前に限ってそんなはずは」と、驚きを隠せない。

 

食事をしてワインを飲み、店を閉めた後でブラックはケヴィンを家まで送る。ダイナーでも、車の中でも、そして家に着いてからも、二人の距離はぎこちない。物語の最後で、ブラックは真情を告げる。ケヴィンはそれを受け止める。

 

 *

 

どこから「ネタバレ」なるのか分からず、自分にとっての適切な書き方ができずにいるけれど、こんな映画。

 

シャーロンとケヴィンがしたこと、二人の間にあったことは、現象だけみれば、子供同士の遊びだったり、性的な行為だったり、暴力だったり、料理をふるまうことだったりする。そこに、シャーロンの置かれた環境と、成長の段階と、心情が重なって、二人の心中に思いをはせると胸が締め付けられる。

 

大人になったブラックことシャーロンが、ものすごいいかつい見た目になっているにも関わらず、ケヴィンの前で目を伏せたり、自信のなさそうな表情をしたり、口数が少ないことを強気なセリフで隠そうとしたりする様子が、役者が違うのに「昔のままだ」と思わされるところがすごい。

 

強さって何だ。体を鍛えて、人からナメられない力を手に入れて、感情を出さず、ガチガチに自分を守れば、強くなれるのか。大人になったブラックは、強くなったのか。強いはずのブラックがケヴィンを前にして、昔のままのシャーロンに戻るのはなぜなのか。

 

ケヴィンが、「シェフの特別メニュー」として、シャーロンに料理を作る場面がいちばん泣けた。食べさせること。誰かの命を引き延ばすこと。その手段を、ケヴィンが手に入れていた。料理に心をこめられる立場になっていた。そして、それをシャーロンが身体に入れる。この行為の意味は、シャーロンにとっての救いであり、ケヴィンにとっては贖罪だと解釈した。

 

「食べさせる」って、愛情を表す手段の1つなんだ。相手に生きていてほしいから、食べ物を与えるんだ。

 

 *

 

昨日、長男の好きなツナマヨのおにぎりを4つ買ってきたら、3つ次男が食べてしまった。最後の1つを「お兄ちゃんに持っていってあげて」と頼んだ。次男は素直に「はーい」と言っていたけれど、長男、食べてくれたかな。無理やり食べさせることもできなければ、そこに込めた愛情を受け取ってくれる保証もないのだけれど。

 

思春期の入り口にいる長男が、強くならなければ、と思っているとしたら申し訳ないと思う。13歳は13歳で、それ以上にならなくてもよいのだけれど、もし、この家庭環境のせいで、自分は早く強くならなければならないと思っているとしたら、ごめん、と思う。

 

ツナマヨおにぎりくらいで許されるとは思っていないけれど。

 

 *

 

と書いていたら、この時間にまだパジャマ姿の長男がやってきた。なんだかちょっと太った?みたい。心配することないか~。少なくとも、飢えていないみたいだから。「あんた、この辺に肉がついたんじゃない?」と、私が顔に手を伸ばしたけれど、それを拒否しなかった。少なくとも、まだ私は嫌われてはいないらしい。

 

 

 

 

1日は24時間

悔しーい。昨日は久しぶりに寝落ちしてしまった。着替えずに、電気つけたまま。

 

私の母親は、「嘘をつくこと」だけ絶対に許さない人で、私は「どんなに悪いことよりも、それを隠したりごまかしたりすることは、もっと悪い。」と教えられてきた。母親から教えられた唯一のことだと言ってもいい。

 

それに対して、父親から言われた唯一のことが、「時間を無駄にするな」だった。父は子育てとか私の進路とか、全然興味のない人だったけど、電気をつけっぱなしで寝ていると、夜中にものすごく怒った。「勉強するならする。本を読むなら読む。寝るなら寝る。中途半端なことをするな。1日は24時間しかないんだぞ。もったいない時間の使い方をするな。」と。

 

父親が、時間の大切さや24時間の使い方について話していたことが、やたら私の記憶に残っている。「人間は不公平なものだ。生まれた家庭や場所、時期は、ものすごく恵まれている人もいるし、ものすごく不運な人もいる。だけど、1日が24時間だというのは誰にとっても同じなんだ。どんなにお金持ちでも、どんなに貧乏でも、1日が24時間だというのは変わらない。だからこそ、その24時間をどう使うかで、その人がどういう人間かを決めるんだ」と。

 

父親はお酒を飲まない人だった。「お父さんはお酒の味が嫌いなわけではないけれど、お酒を飲むと、それよりもっと好きな本を読んだり音楽を聴いたりすることができなくなるから、だからお酒を飲むのが嫌いなんだ」と言っていた。

 

まあ、そんな父も、テレビの野球中継見ながら、うとうとしてることはよくあったのだけど。

 

そう考えると、子育てって難しいな。親の背中を見て子供は育つというけれど、私が覚えている父親の背中は、働きすぎて神経を使いすぎて胃炎になって毎晩吐いている父さんと、テレビ見たり映画見たりゴルフ行ったりして人生を楽しんでる父さんくらいのものだ。一緒に遊んでもらったり、勉強を教えてもらったりした記憶はほとんどない。

 

だけど、1日の24時間を大切にしなさい、という教えは私にしっかりしみ込んでいる。彼が私に教えたかった唯一のことを、私は忘れないでいる。

 

うまいまとめ方が思いつきませんが、そんなわけで、1日の30分ほどをブログに使いました。まずはここまで。

 

かなり気分屋なんだな私は

今日は早めの退社~。帰れるときには帰っちゃうもんね。って、相変わらず危機感のない私…。

 

やらなきゃいけないことは、とにかく小さく、小さく、具体的に考えないと、脳がお手上げ状態になって、手も頭も止まってしまうのよねー。「営業の資料を作る」だと、あ、その前にこれを確認しておこう、とか、おっとそれよりこっちの素材が使えるかも、とか、脳みそがうろうろしてしまう。

 

ノートにやらなきゃいけないことが書きだしてあるけど、それを見て、「これは時間がかかりそうだから後回しにしよう」って無意識に別のことを探したりしてしまうのが、いちばん時間がもったいない。とにかく手を動かさなければ、仕事は進まないのだから。

 

話は変わります。近所のレンタルDVD屋さんがレンタル業務を終了してしまって、めちゃめちゃショック。安かったし手軽に行けたし、すごく重宝していたのだけどなー。さっき、帰りに駅前の〇タヤに寄ってきたけど、店舗が大きくて作品数が多いのはいいけど、選ぶのに時間がかかってしまう。あと、料金体系も複雑で、新作も含むからだけど、3本借りたら900円以上かかった。5本借りたら1080円だったらしいけど、もう、あと2本選ぶのがめんどくさくてー。

 

見たい映画もたくさんあって、店頭で「あ、見つけた」って思っても、「なんか今日はこの映画の気分じゃないな」っていうのは、何なんでしょうね。それだけ人間の思考って連続していないってことなのかしら。

 

見たいと思っていた映画も、見逃したことで見たい気持ちが消えてしまう。会いたいと思っていた人も、会えずにいたことで情熱が消えてしまう。そういうことって、あるかもね。