キーボードの訳語は鍵盤なのか

毎日毎日、我ながらよく書いてると思う。よく続いてると思う。このブログ。

 

そして、このアクセス数の増えなさ加減にも、減らなさ加減にも、びっくりする。これだけ書いているのだから、もうちょっとアクセス数が増えてもよさそうな気がするし、これだけ新しい読者が現れないのだからアクセス数としては減ってもよさそうな気がする。

 

しかし、びっくりするほど、変わらないのだ。ずーっと、1日20人前後のアクセス数なのだ。

 

これが、動的平衡ってやつか。ちがいますね、たぶん。

 

あるいは、終わりなき日常を生きろ、ってやつかも。いや、どうなんでしょう。

 

まあ、何でもないですね。ただのいちブログです。そして私はたまたま書くことが好きなんですね。キーボードを叩くのが好き。

 

はっ!!!

 

これって、もしかして。幼少のころからピアノを習っていたことに関係する???? 指でキーを叩くことに嫌悪感を全く感じない、とかそういうことに????

 

まあ、どうでもいいですね。おやすみなさい。ってまだ寝ませんけどね。

ため息が出ちゃう

あれもこれも考えなきゃいけないから、疲れるんだなー。何か1つのことだけを考えていければ、思い悩むこともないのだ、たぶん。

 

今、私はたぶん人生にいろんなことを詰め込みすぎているのだと思う。だから、どれにも全力が出せなくて、もどかしいんだ。

 

一心不乱に、って、すごく幸せな状態だと思う。他のことを何も考えなくてよいのだから。

 

今の私は、心が乱れてばかり。苦しいし、情けないし、次へ進めない。

 

何もかも、切り捨てられたらいいのに。切り捨てて、大切なものだけを、残せたらいいのに。

 

何も考えずにゆるゆると生きて、それで大事なものだけが残ったらいいのに。

 

自由になりたくて、自由を手に入れて、すべてが自分の責任になって、幸せになるのも不幸になるのも、言い訳ができなくなって、言い訳をするつもりはないけど、それでもしんどい。

 

うーん、こうして書いてみると、私、疲れてますね。きっと、睡眠時間が足りていないからですね。今日こそは、早く寝よう。と思うものの、今日も忙しいんだよな…はあ(ため息)。

 

なんだかちょっと分からなくなっている

東京は雪です。寒いです。買ってきたチョコ入りクロワッサンのチョコレートが、めちゃめちゃ硬いです。前歯が折れるかと思うほどでした。無事、歯を痛めることなく、食べ終えることができましたが。

 

あっという間の1日でした。友達と飲んで帰ってきましたが、酔っ払ったわけでもなく、眠いわけでもなく。だけど、寝ないと、明日に響くので寝たほうがよいのだろうな、と思います。

 

1日を、どれくらいの熱量で生きたらいいのか、最近よく分からないです。もっと頑張らなきゃいけないのか、こんなに頑張らなくてもよいのか、よく分からない。そんなことを考えるくらいなら、頑張るか、休むか、どちらかをしたいのですが、どちらもできずにもやもやしていて1日が終わってしまいます。

 

1日をやりきった、と、何も疑問に思うことなく、10時ごろに就寝できるのが理想ですが、実際は、10時にはまだやらなければいけないことが残っていてそれより遅くまで起きていてしまうか、あるいは疲れていてやるべきことができなくてすっきりしないまま布団に入ってしまうか、どちらかであるような気がします。

 

今日は、そのどちらでもなくて、すでに12時をまわってしまったわけなので、ゆゆしき事態です。

 

しかし、泣いても笑っても、24時間が過ぎるというのはありがたいことです。これが、永遠に区切りのない時間だったら、と思うと、たぶん、私は何も決められず、何もできないと思います。なんだか、境目がなく永遠に続く時間というのは、悪夢のようです。恐ろしいことこの上ないです。正気でいられないような気がします。

 

ブログも、1日という区切りがあるからこそ、朝と夜に書けるのです。この1日という区切りがなかったら、いつ、どれくらい書いたらよいものなのか、全くわかりません。

 

ちょっと、迷走してますね、私。自分の時間や情熱を、何にどれくらいかけるべきなのか、分からなくなっています。

 

とりあえず、勉強してから寝ます。おやすみなさい。

 

映画『瞳の奥の秘密』

もんのすごく、面白い映画だった。

 

瞳の奥の秘密 [DVD]

瞳の奥の秘密 [DVD]

 

たまたま他のDVDの宣伝で知って見てみたのだけど、ここ(はてな)でけっこう言及されてるみたいなので、それなりによく見られてる映画なのかー。

 

基本的には、過去の未解決事件を忘れられない、そしてもう1つ忘れられない人への思いがある主人公が、もう一度事件のことを探り出す(小説に書いてみる、という形でたどりなおす)、というストーリーです。

 

私、いい映画を見たあとの感想が「役者さんの演技がすごい」という、ほんっとにどうしようもないことしか書けないのが常なんですけど、これも、ホントに役者さんの演技がすごかったです。

 

ラジオ体操が始まりました。寝不足だけど、今日も1日がんばりましょう。っていうか、私もがんばります。

 

決断のための投稿

ネガティブ沼にはまりこみ、出られなくなってしまった1日…。

 

やらなきゃいけない仕事もまだ終わってない。見たかったDVDも観終わっていない。どうにかして、どっちかだけ済ませたいと思うものの、それをやると、睡眠時間が減る。

 

でも、どちらもやらずに寝てしまったら、明日、絶対後悔する。寝不足よりももっと後悔する。

 

というわけで、DVDを見ます。本当は仕事をした方がいいんですよ。わかってますよ。でも、できなくてずるずると睡眠時間を削ったり、仕事のクオリティを下げたりするくらいなら、やれることをします。

 

ではでは~。

 

やりたいこととやりたくないこと

ただただひたすら自由に、好きなように生きている今日この頃。今、この瞬間の私の脳の認識は、こういう感じです。でも、本当は1日24時間のうち平均2時間くらい、1週間のうち平均0.5日くらい、1か月のうち平均2日くらい、全然やりたくないのにやらなきゃいけないこと、をしています。

 

なんとなくざっくりと、上の感覚を書いてみましたが、平均で考えたら、どの数字も割合として同じになっていないと、論理的には合わないわけなので、ちょっと計算してみます。

 

2÷24=0.083...

0.5÷7=0.071...

2÷30=0.066...

 

キーボードで「÷」の記号が見つけられなくて、「わる」とひらがなで入力して変換してました。

 

なんと。計算してみると、だいたい合ってますね。6パーセントも8パーセントも誤差、とお考えください。7パーセント前後。そうですね。私は今、人生の7パーセントくらいは、やりたくないことをしていますね。

 

こうして考えると、93%は自分のやりたいことをしているので、十分じゃないか!と思われる方も、たくさんいらっしゃることでしょう。

 

ええ、ええ。十分だと思います。が、100%ではないのです。

 

私は、4年ほど前に会社勤めをやめよう、と決意したとき、今はやりたいことが30%、やりたくないことが70%の人生だから、少しずつ、この割合を逆転させていこう、と決心しました。たとえば1年後にやりたいこと35%、やりたくないこと65%。そして2年後にやりたいこと40%、やりたくないこと60%、というように。

 

決心して、行動をしてきた結果、4年で7%/93%のところまでたどり着くことができました。残りの7%を取りにいくのは難しいかもしれませんが、あきらめたらそこで試合終了です。サービスや商品であれば、シェア100%は独禁法に引っかかる可能性がありますが、私の人生は私のものです。独占してもよいではないですか。

 

そういえば、こんな本を読みました。

 

 職場の近くの書店でふと手にとって、なんとなく買ってしまったのですが、まあ、うん。うん。そうだろうね。という感想です。

 

が、「やりがいのある仕事」というのが何か、ということが定義してあって、なるほどー、と思いました。

 

うーん。何かを紹介するのって難しい。私にとっては、脳内に浮かんだ言葉をそのまま垂れ流すほうが、ずっと簡単です。なんの役にも立たない書籍紹介でスミマセン。

 

んでは。皆さまよい日曜日をお過ごしください。

 

 

 

不謹慎かもしれませんが

今日はとある葬儀に参列しまして。ずっと、人の死が悲しいのはなぜなのだろう、ということを考えていました。

 

私はこういう、わりと世間で当たり前と思われていることについて、なぜそういうことになっているのだろう、と考えるのが好きです。

 

亡くなられた方は90歳近くて、会場には泣き崩れて他の方の涙を誘うような方も見当たらなくて、でも、きっとご親族や友人は悲しい思いをされていたのだろうな、と思います。

 

ただ、その悲しみは、例えばですけど、今、私が子供を亡くしたとしたら悲しい、その悲しさと同じだろうか、と考えると、なんだか違う気がしたのです。

 

今、計らずも悲しみと悲しさ、と書いてしまいましたが、私も既に祖父母を4人とも亡くしています。祖父母が亡くなったときは、悲しみがありました。でも、今はもう、悲しさはない。

 

でも、たとえばですけれど、私より先に子供が死んでしまったとしたら、その時点でのとてつもない悲しみだけでなく、私は生涯ずっと、その悲しさを抱えて生きていくのではないかという気がするのです。

 

大学のときに、社会学か何かの授業で、戦争などで多くの若者が亡くなることの意味について、「家族にとっての若者の死の意味というのは、若者が亡くなったことが悲しいのではなく、もうその若者に決して会うことができなくなったことが悲しいのだ」ということが社会的に発見された、みたいな話があり、なんだか、大学に来て学んだ意味があったな、と思った記憶があります。というか、この話がすごく印象的で、「死」とはそれ自体が悲しいものなのではなくて、二度とその人に会うことができなくなることが悲しいのだ、という定義をわりと妄信(?)していたのですよね。

 

だから、今日の大往生の男性に、もう二度と会えなくなってしまったことが悲しいのかな、と想像してみましたが、なんとなく、違うような気がしてしまったのです。

 

純化して言えるとしたら、過去に対する悲しみと、未来に対する悲しさ、みたいな。その両方が混じりあって、人の死は悲しいのかな、とか。

 

自分でも、全然うまく書けていないし、こんなこと不謹慎だと言われるかもしれませんが、考えたことを書かせていただきました。こういう複雑な思考も、もっと、ちゃんと書けるようになりたいものです。

 

おやすみなさい。