名前とタイトルのこと

ぐわぐわ団のブログで引用していただきました。ありがとうございます。昨日、グリーンのスターを付けましたが、今日、あらためてまた嬉しかったので、普通のスターも付けました。重ねてお礼申し上げます。重ねてうれしかったのです。

 

私は「読んで損する楽しいブログ ぐわぐわ団」が大好きなので、ぐわぐわ団のことを思い浮かべながら自分のブログを書くと、ついつい文体がぐわぐわ団っぽくなってしまいます。あくまでも当社比、であって、ぐわぐわ団さまのように面白く書けるという意味ではありません。

 

言い訳がましいので、リンクを貼っておきます。

 

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「ぐわぐわ団」というのはブログのタイトルで、書いている人は「まけもけ」さん。でも、まけもけさんのIDはmake_usagiなんですよね。

私のIDはusagikamoですが、make_usagiさんと親戚ではありません。おそらく。現実界でお会いしたことはないので、もしかして血がつながってたりするのかもしれませんが、全くもって把握していません。

 

ちなみに私のIDはusagikamoで表記はうさぎ(かも)です。このタイミングでなぜこの名前をつけたか、というのを書かせていただこうかと思います。

 

このブログを始めたのはちょうど1年前くらいですが、そのとき私は自分のことを「さみしいと死んじゃう(かもしれない)」と思っていたのです。うさぎはさみしいと死んでしまうという都市伝説があって、私はその都市伝説がわりと好きなので、まずうさぎという名前が思い浮かびました。私はうさぎだよ、と。さみしいと死んじゃうよ、と。

 

しかし、いざ名乗る段階になって、いや、別に私はさみしくても死なないよな、と思い直しました。なので、うさぎを名乗るのは正直ではないような気がして、(かも)をつけたのです。うさぎみたいにさみしくて死んじゃうかもしれないけど、たぶん死なない、いや、死にません、みたいなそんな感じでしょうかね。

 

実際、もう既に1年、生きてますしね。

 

あと、万が一、オフ会とかで話しかけられるときに呼びやすい名前にしておきたいな、というのがありました。「うさぎさん!」っていうのは、ぎりぎり本名としてもセーフかな、とか。あと、私、卯年生まれなので。

 

さらに万が一、ブログが書籍になった暁には、「加茂うさぎ」というフルネームを使おう、と思ってました。「加茂先生! 増刷が決まりましたよ!」とかね。あはは。我ながら頭おかしいな、私。

 

「誰か私と一緒に老いてくれないか」というのは、先ほども書いたとおり、一人で生きていくのはさみしいから、誰かと一緒に老いていきたいな、と思ったのですが、まあ、これは願わなくても、人は誰でもみんな老いていきますので、ここを読んでくださっているあなたも、むかーしに読んでくださって忘れてしまったあの人も、今はまだ読者でないどこかにいる人も、みんなみんな、老いていくのです。私も老いていきます。

 

ちなみに、バスタオルのにおいは本当に、すっっっきりと、なくなりました!!! 皆さんもバスタオルを煮るといいですよ。

 

おやすみなさい。

 

バスタオルを煮ながら

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ものすごく久しぶりに、敬愛するぐわぐわ団さまのエントリーを埋め込んでみました。あまりに素直に影響を受けて、今、バスタオルをぐつぐつと煮ながらこの記事を書いています。あまりにタイムリーに、私もバスタオルのにおいが気になっていたところだったのです。といっても、ここ2年くらいずっと気になっていたので、それをタイムリーと言っていいのかどうか、微妙なところだと思います。

 

世間では、女性はわりと清潔な状態を好むと思われていることが多いようですが、私には、家屋を清潔に保つ、という欲求がほとんどありません。家の掃除は、1か月くらいほとんどしなくても平気です。身体の清潔は大切だと思いますが、お風呂は嫌い。

 

人から不潔な人と思われたくない、という欲求はあります。なので、基本的にお風呂は毎日入ります。家に来られたら不潔な人と思われますので、他人は家に上げません。

 

 

そして、見た目で不潔なのはまったく気になりませんが、においで不潔な感じがするのはイヤです。なので、バスタオルを煮ています。

 

バスタオルを煮るのは生まれて初めての経験なので、なかなか楽しいです。何分くらい煮込んだらよいのでしょう? 煮込んだあとで、どうしたらバスタオルとして使えるかを考えたのですが、あらためて洗濯機に入れて、他の洗濯物と一緒に洗って脱水をしてから干すのがよいと気づきました。なので、もう少ししたら、洗濯機をまわします。ちょっと夜遅いけれど、現代人は夜型の人も多いので、許してもらいましょう。我が家の洗濯機はかなり静かだから大丈夫なはず。

 

毎日バスタオルを煮るのは、それはそれで大変ですが、どういうペースで煮込んだらよいのでしょうね。あと、体をふいたりした後のバスタオルを鍋に入れるのも抵抗があるので、普通に洗濯して干したあとのバスタオルを鍋に入れると考えると、バスタオルを洗う回数がずいぶんと増えるのではないか、という気がしますね。

 

バスタオルを使うのをやめて、薄いタオルで体をふいて、毎日洗濯をすればいいのかもしれないですね。なんせ、毎日の生活のリズムがまるで成り立っていないので、日々、変則的に暮らしています。

 

毎日毎日同じリズムの暮らしだと飽きてしまうし、毎日毎日変則的なペースの暮らしだと落ち着かないのです。

 

今の、これが、ベスト、と思える生活って、なかなか手に入りません。ないものねだりなんでしょうか。難しいものです。

 

そろそろバスタオルを洗濯機に入れます。せっかくだから、もう1枚も煮てから洗濯することにします。

 

 

 

 

 

私の言葉は私の言葉ではない

人はいったい、一生で、思ったこと、考えたことの、何パーセントくらいを、言葉にできるのだろう。

 

言いたくても言えなかったこと、伝えないほうがいいと思って胸にしまったこと、思いがあふれすぎて言葉にならなかったこと、ひらめきがやってきたのに書き留められず忘れてしまったこと、気持ちを表せる語彙をもたなかったこと、どうしても告げる勇気がなかったこと。

 

これらの、言葉にならなかった思いや考えは、間違いなくそこにあったものなのに、形にならず、いつのまにか消え去ってしまう。

 

あとの時間になってみれば、記録することのできた言葉、記憶してもらうことのできた言葉だけが残って、ほかのことは、なかったことになってしまう。

 

私には、ずっとずっと、とある人に抱いている気持ちがあって、伝えるすべも、伝える言葉も、持っているのだけれど、これは、今は伝えない、と決めている。伝えることで、現実が変わる可能性はあるけれど、私は変えたくないから。気持ちがある、ということを、自分だけが知っていればそれでいい、と思っているから。

 

と同時に、伝えたい、という気持ちも本当だから、時間が過ぎるのを待っている。時間が過ぎて、過ぎて、もう、伝えてもいいよ、と自分を許せるときがきたら、伝える、かもしれない。もしかしたら、そんなときは永遠に来ないかもしれない。

 

伝えられるときは伝えられるときだし、伝えられないときは伝えられないときなのだ。

 

伝えられるときは伝えるしかなくなったときだし、伝えられないときは伝えられなくても問題ないときなのだ。

 

こうして、ブログの画面に向かっているときも、頭の中には幾千の言葉が浮かんでくる。私はそれを、取捨選択して…というよりも、次から次へとほとんどすべての言葉をかなぐり捨てて、画面に入力してもよいと思えるものだけを拾い出す。拾い出すと画面から次の文字が現れる。現れてくるのは私の頭の中ではない。

 

言葉は、表そう、伝えよう、と思ったときに、表されるべき、伝えるべき言葉が出てくるだ。それは、脳内で自動生成で出てくる言葉とは、製造場所も製造者も、違う、その場の、その場限りの言葉なのだ。

 

ふと、顔を合わせて、思わず口にしてしまった言葉は、その場が生んだ言葉であって、その人の中から出てきた言葉ではない。

 

特定の媒体に向かって書き綴られた言葉は、その画面や原稿用紙が生んだ言葉であって、その人の頭が作った言葉ではない。

 

ブログを書いているからこその私の言葉があって、ブログを書いていなければ、私はもっと、素直に、加工などしないで、頭の中の言葉だけを思い出して過去の自分の輪郭をとっていたのかもしれないな、と思う。

 

 

 

できるならやらなきゃ病

まあ、なんだか、なかなかに…ハードな夏休みを迎えております。

 

ハードかな。ハードだと思う。さすがにこれは、ハードだと言ってよいと思う。

 

んだけど、毎日24時間ずっとハードなわけでもなく、めっちゃ笑える瞬間もあれば、完全に脱力してるときもあって、私って、多重人格者なのか? とか、境界性人格障害ってやつか? とか、ネットで調べてしまったくらいなんだけど、自分では、よくわからない…。

 

別居している夫との間で少しやりとりがあって、大したことではないのになぜかものすごく不安になってしまったり、相手の出方を一生懸命考えてしまったり、これまで別居に至ってしまった経緯を自分で理由づけたり。

 

不安も、考えるのも、理由づけるのも、全部、全部、私の脳内で起こっていることなので、現実としては、何も変わってないのです。脳みそが疲れるだけで、現実として、問題は何も解決しない。

 

そういうときは、目に見えるものを変えなければいけないのです。

 

と、過ぎてしまえば簡単に言えるけど、数日間、あーでもない、こーでもない、どーしよう、どーしよう、と悩んでましたが、結局、夫にメールを書きました。具体的な内容については伏せますが。

 

メールを書いて送るという行為は、目に見えるものだから。置かれている環境を変えるには、自分の変えられる現実を、変えるしかない。

 

私は、自分の変えられる現実を変えないでいる自分が、許せないのですよ。いろんな人からいろんなアドバイスを受けて、でも、そのアドバイスにそのまま従うには、自分では譲れない部分とか、変なプライドが邪魔する部分とか、なんだかよくわからないけれどまるっとそのまま言われた通りにはできない理由がいろいろあるのですが、そういう理由をひとつずつつぶしていって、自分で納得して、変えられる現実があるのであれば、自分で変えないといけない、と、そういうヘンな責任感というか、自己決定絶対論というか、そんな意識に支配されているのですよね、私は。

 

だから、離婚したい、と言いつつしていない自分が、本当は許せない。それが子供のためだとは言え、自分で自分を裏切っているのではないか、という疑惑が、じわじわと自分を苦しめている。

 

他のだれかや、別の何かのせいに、してしまえたらラクなのかもしれないけれど。基本的に、というか、かなり絶対的に、「できないんじゃなくて、やってないだけだ」教の信者なんですよね、私。

 

本当は、できないことって、たくさんあっていいと思うんですけど。やってないことを、やってないままにしたって、いいと思うんですけど。

 

こうして、自分に言い聞かせることと、自分が本当に納得することと、これまた別、なんだよなあ。

 

おやすみなさい。

 

 

この先の人生に起こらないこと

本当は、夜の10時くらいに寝て、朝5時くらいにすっきり目覚めたいんですが、今日はいちおう夏休みの初日なので、朝「これぞ惰眠をむさぼるってやつだなー」とぐだぐだしてたら、9時くらいになってた。

 

そこまで寝てしまうと、夜が寝られないというか、こんな時間まで眠くならないので、よくない。よくないよ。10時くらいに眠いー、もう寝る―、ぱた。っていうような1日のリズムがいいんですが。

 

夜更かしをしてしまうのは、その日にまだやり残したことがある、惜しい、まだあきらめられない、ってぐだぐだしてしまう行為だ、みたいなことを読んだことがあります。潔くないのですよ。夜更かしは。

 

まあ、12時に寝るのなんて、夜更かしでも何でもないかもしれませんがね。大人の夜更かしは、2時とか3時とかなんでしょうか。私、ここ数年、そんな時間に起きてたことがない気がする…。健康的だ。

 

いろいろないものねだりをしてきた人生ではありましたが、ここへ来て、ああもう自分はこれはやらない人生なんだな、と、やっと割り切る感じが出てきた気がします。

 

間違いなく、もう、大金持ちにはなりませんわ。世間でいうセレブみたいな暮らしは、望めないな。可能性はゼロではない、とか言うつもりもない。可能性とか数字とかの前に、ないよ。ないです。なくていいの。

 

あとはなんだ、和装を楽しむ、みたいな趣味も、ないな。一時、まわりの友達とか知人とか、いっせに着付けをならったり、着物でお出かけだとか浴衣でなんちゃらだとか、はやっていたような気もするけど、私には、ない。そもそも着物が好きではないし、似合わないのです。私、身長高いし、足も長いので。おほほほほ。着物よりも、かっこいいスーツやドレスが着てみたいわ。

 

他には、マリンスポーツを楽しむのも、ない。海、好きじゃない。釣りも、ずいぶん前に、大沢在昌を読んでいたときに大沢さんの大ファンになって、一緒に釣りをするという奥さんのことを羨ましいと思っていたけれど、今となっては、もう、ないです。私の人生に、釣りは、ない。

 

バーでお酒を飲むという習慣も、ないな。たぶん。いや、これはもしかしたら、この先にお付き合いする人ができたら、その相手によっては、ありかも。しかし、あんまり楽しそうとも思えん。まあ、それを楽しいと思わせてくれる相手に出会ってしまったら、ありかな。

 

あと、想像もしてなくて、全然知らない世界が、いっぱいあるんだろうな。小説を書くとかも、ない気がする。犯罪をおかしてつかまる、というのも、ない気がする。あああああああ。

 

再びの出産。これもないわ。ないないない。もう、子ども産まないです。これ以上。

 

おやすみなさい。

私の感情は私だけのもの

なぜかこのところ、人と会って外で食事する機会が多い。財布はさみしくなるし、ダイエットもなしくずしだが、それなりに楽しい。食べてむなしくなるようなこともなく、好きな人と楽しくごはんを食べて、お酒を飲まないから酔っぱらって苦しいわけでもなく、気分よく家に帰ってくる。なんて幸せな。

 

今はこうして、幸せを感じられる心の状態になっているから、よかった、と思う。自分の身体機能が、きちんと幸せをキャッチできる状態になってよかった、と思う。

 

100%幸せな人生も、100%不幸な人生もないのだから、その割合の中の、幸せな部分を自分が見つけて、受け止めて、味わえるという状態が、私にとっては人生のなかでよい状態だ。

 

少し前までは、映画を見て、映画が2時間で終わるのがうらやましかった。自分の人生が続くのが、しんどかった。

 

でも今は、映画は映画として見終えることができるし、面白い映画を見た後で、さあ次は何をみようか、と思えるし、終わってしまう映画のことをうらやむような心理状態にはならない。

 

私の人生は続く。まだしばらくは続く。

 

私が見ている自分の人生は続く。誰かから見られる人生は続くけれど、私以上に、私の人生を見ている人はいない。

 

楽しい食事の後で、こんなブログを書いていることを知っているのは私だけだ。楽しい食事の前日に、夫から離婚の話でメールが来たのを知っているのも私だけだ。離婚の条件を提示されて、自分にどんな感情が沸いたのかを正確に知っているのも私だけだ。この感情は、他の誰も、引き受けてはくれない。

 

それでいい、と思う。私は、自分の感情を自分で受け止められるから、それでいい、と思う。ほかのだれかと共有しなくても。私も、だれかの思いを共有したいとは、もう、思わない。それはすべて幻想だと、知ってしまった今となっては。

 

あなたはあなた。私は私。あなたがどんなにつらい思いをしていたとしても、私がどんなにあなたのことを愛していたとしても、あなたのつらい思いを私が引き受けることはできないし、つらい思いを加減してあげることもできない。

 

私の思いをあなたに分かってほしいとも思わない。分かるよ、と言ってほしい瞬間はあるかもしれないけれど、それは、そのときの関係性がそう言わせるのであって、分かってほしいわけではない。

 

私の感情は、私にとっていちばん大事なものだから、ほかの誰にも、侵入してほしくない。他のだれかに、勝手に解釈されたくない。私の感情は、私だけのものだから。

 

この3日間も生きていた

はい、生きてます、生きてます。元気です。

 

究極の愛って、「その人が生きていてくれたらいい」だと思うのですけどね。私が生きていると知って、ほっとしているそこのあなた、あなたは私を愛してるってことだと思います。ありがとうございます。

 

私も、生きていてくれさえすればいい、っていう気持ちで愛している人がたくさんいます。筆頭は、長男ですね。子供は3人いますけど、長男がいちばんかわいいという意味ではなくて、長男がいちばん年上なので、いちばん、生きていさえすればいい、という愛し方になってます。だってもう、彼は私のことなんて必要じゃないからさ。

 

下の二人は、生きていてくれさえすればいい、の域にはまだ達してなくて、彼らが少しでも幸せに生きていけるために、まだまだ私にできることがあるな、と思うので、彼らが生きていることも重要だけど、同時に私も生きていることがめっちゃ大事。今、私が死んだら、たぶんあの子たちはかなり悲しむよ。いや、悲しんでくれないかもしれない。未来のことは分からないし、人間、その場になってみないとどんな感情がわいてくるかなんて、誰にも分らないのだから、そこまで悲しくはないのかもしれないけどね。

 

生きていたいと思うことと、誰かが自分に生きていてほしいと思うことと、誰かのために生きていようと思うことと、誰かが自分に生きてほしいと思うことをうれしいと思えるかどうかということと、ぜーんぶ、ぜーんぶ別のことなんだ。そこを、当然のように、自分が生きていたいことと誰かに生きていてほしいと思うことを同一視してしまうから、苦しみや喜びが生まれるんだと思う。

 

正直、今の私は生きていたいかって聞かれてても、よくわからない。もちろん死にたくはないけれど、何のために生きているのか、この先どれくらい生きていればいいのか、どのくらい生きていたいと思っているのか、全然よくわからない。

 

でも、死にたくはない。死ぬ必要もないし、誰かが私のことを死んでほしいと思っているとしたら、「うるせえ、死ぬか、ばーか」って言うと思う。その反抗心で生きているのかもしれないけど、それってそんな人たちのために生きてるってことになるから、そんなのもバカらしいと思う。

 

本当に、本当に、嫌いな人のことは忘れるのがいちばん。その人が、何を考えているのか、私にどうしてほしいのか、いっさいを、気にせず、無関係に生きていけるようになるのが、何よりの復讐。

 

なんだけど、復讐のために生きるというのがそいつらのために生きることになる、という矛盾。

 

だから、矛盾なしで生きていくなんて無理なんだよね。矛盾だとか整合性だとか必要だとか愛されてるとか、そんなの無視して、とにかく1日1日を生きていけばそれでいいんだと思う。

 

そんな風にして、この暑い夏の日々を生きています。