ストイックの正反対

おおう。しっかり日付が変わってしまった。

 

かなり眠いが、ノルマにしている勉強を、ちょっとだけやって寝よう。

 

バナナも食べてから寝よう。

 

どうやらお腹が空いているらしい。

 

あんなにたくさん食べて飲んで、電車の中で吐くかと思ったのに。

 

人体って素晴らしい。

 

おやすみなさい。また明日。

 

書けました

昨日、友人と話していて気づいたこと。

 

私は、子供たちのことが大好きだが、母親としてふるまわなければいけないときの自分はあまり好きではない。

 

ものすごく無理をするわけではない。意識して自分を偽るわけではない。子供たちと一緒にいるときも、情緒的に落ち着いて、頼み事に応じ、一緒に冗談を言ってげらげら笑う私は、私らしいと思う。

 

だけど、それをずっと、ずっと、24時間の間、かなりの割合で、毎日、毎日、絶対に休めることなく、必ず毎日、絶対に毎日、しなければならないとしたら、かなりきつい。

 

年明けからずっと気分が晴れなかったのは、1人になれる時間が減ってしまったからだと思っているし、集中して仕事してやり残したことはないと思える日は、子供たちと接していても決してイライラすることはない。

 

世の中の風潮を責める気はない。私だって、この年になるまで、母親になることと、母親であることの区別なんて、考えたことはなかった。

 

けど、世の中はまだ、子供を産むことと、乳幼児を育てることと、小学生を育てることと、子供の健康に責任を持つことと、子供の栄養を気にかけることと、子供の食事を作ることと、子供にひもじい思いをさせないことと、子供に食事のマナーを身につけさせることと、まだまだ際限なくあるけれど、これらの最高責任者を母親だと規定しがちだ。

 

規定って、だれが決めたの、これ? 私、いつの間にそんな最高責任者にされたの? 話し合いもなければ選挙もなかったよね?

 

と思って、離婚の話し合いで「親権は要りません」と言ったけれど、子供たちと一緒にいる間は自然と、上記の作業を行ってしまっている。

 

私も、規定を作り出す“世間”の一部だった、ってことだ。

 

仕方がない。それが母親なのだ…というのは違うと思う。それが私、なのだ。あとでどっと疲れることになるとしても、子供の前で子供の望む母親でいようと思うのは、まぎれもない私なのだ。

 

いつか、子供たちが大人になって、自分たちの言葉を手に入れたとき、「私は母親の前で子供らしくふるまうのが苦痛だった」と思い返すようなことがなければよいなあ、と思う。私は私の選択として、母親らしくあろうとしているけれど、子供たちは子供らしくある必要はなく、彼、彼女らしく、そのままでいてくれたらいいのだから。

 

 

私の書いた記事を返して

はああああ、ショック。また、Chromeのトラブルで、いきなり書いていた文章が消えた。

 

今日は、ちょっと真面目に書きたいことを既に600字くらい書いていたんだよ。なのに、なのに~。

 

その点Bloggerは、自動でバックアップをとってくれるから優秀。はてなはショートカットで保存、とかできないのかな? いちおう今、左下のボタンで「下書き保存する」を押しておいたけど。

 

と思ったら、これはあかん…下書きで保存するだけじゃなくて、別のページに飛んでしまったりしたら、もうその続きを書く気がなくなるやん…。

 

こういう、使い勝手が趣味の継続や購入のリピートに、ものすごく関係してると思うんですよねえ。

 

さっき消えてしまった記事で、何を書いてたかというと、私は誰かと一緒にいるときはいつも気分が安定しているけれど、その分、一人になったときの気分の差が大きいかもしれない、という話でした。

 

逆に、一人でいるときの気分がいつも安定している人は、他者の前で平気で機嫌悪くなったり、ひどい場合は八つ当たりしたりするのかもなあ、というこの理屈、わかりますかね?

 

人が機嫌よくいられる時間や体力の量がある程度決まっているとしたら、人によって、どこでそのアンバランスを表すかの違いがあるのではないか、という話。

 

そうそう。思い出した。

 

今日、めっちゃいい日だったんですよ。いい日だったのだけど、いい日過ぎて、気分が落ち着いちゃってるなあ、みたいなことも書いてた。

 

あー、いかんな。映像の仕事をしてた友達が、インタビューを録るときは一発目がいちばんいい答えをする、って言っていたのだけど、それと同じ感じ。私が私でいちばん好きなブログの書き方は、ぶっつけ本番、一発書きだ。テイクツーは、もうダメ。

 

寝よっと。おやすみなさい。

 

 

映画『未来世紀ブラジル』

昨日見た映画は、『未来世紀ブラジル』です。

 

未来世紀ブラジル [DVD]

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1985年の作品。30年以上前、ということですね。タイプライターに鏡のような虫メガネのようなモニターがついたコンピューター(?)が登場します。携帯電話は登場しませんね。AIスピーカーももちろん。

 

めちゃくちゃに面白い映画でしたが、ひっどい映画(爆)、という感じでした。いろんな人がいろんなところで言及してて、ずーっと見てみたいと思っていたのだけど、なるほどねー、という感じ。なるほどねー。

 

主人公サムが、夢に出てくる女性のためにめちゃくちゃをやる、という、一言で言ってしまうとどうしようもないストーリー、というか、どうしようもない男です。なんで、そのバカみたいな恋が最後、成就してしまうのかも、よく分からない。

 

その分からなさ加減がバカバカしくて笑えます。30年前の特撮映画、よくぞここまで…といった感じ。もう二度と、こういう映画は作れないのだろうなあ、と思うと、寂しいような不思議な気がします。

 

「この商品を含むブログ」が70件以上あるようなので、皆さんどんなことを書かれているのか、あとで見てみようと思います。ではでは皆さま、よい1週間をお過ごしください。

 

と書きつつさらに書く

寝ようと思っていたのだけど、仕事していたら思い出したことがあったので戻ってきた。

 

ずっと自分がやってきたことを、他のだれかには「絶対できない」って言うのって、何なんだろうなあ、と思う。

 

この仕事は自分にしかできない、とか、この仕事はあの人には絶対できない、とか、そういう風に思うのって、恥ずかしくないのかなあ? え、あなたにだってできているんでしょ? なんで他の人にはできないって思うの? あなた、そんなに特別なの? って思ってしまうのだけど…。

 

前の職場で、同僚が抱えている仕事が多くて大変そうだったので、一部分を私がやりましょうか、と申し出たら、「え、この仕事、けっこう難しいよ? 加茂さんにできる?」と言われて、鼻白んでしまったのも思い出した。

 

その仕事に思い入れがあればあるほど、きっと、他の誰より自分がうまくやっている、と思うのだろうなあ。あるいは、その仕事が好きであればあるほど、自分ほど愛情や情熱をこめてこれができる人は他にいないはずだ、とか。

 

しょーじき、いい迷惑ですよ。代わりはいくらだっているんです。

 

私だって、いつ、だれに、お払い箱にされたって、文句言えないと思って働いている。いつ、社会からNGつきつけられるか分からない中で、精いっぱいやっている。

 

合格点を出すのは本人じゃない。仕事は、したくてするものじゃなくて、社会からの要請があってするものだ。

 

あー、海援隊の『贈る言葉』まで、脳内をぐるぐる回りだした。「だけど私ほどあなたのことを深く愛したヤツはいない」。

 

…。たとえそうだとしても。

 

だから何だっつーの。愛情の押し付けされても迷惑なんですけど。

 

他人と自分の感情は、きっちり分けましょう。他人からの評価は、甘んじて受け入れましょう。

 

おやすみなさい。

 

と言いつつもうちょい仕事してから寝る

えーん、さっきまで葛湯について記事を書いていたのに、Chromeがいきなり終了して消えた! 200字くらいだったと思うけど、悲しい…。

 

私の場合、二度同じものを書くのが難しい。いつもその瞬間、瞬間で頭に思い浮かんだことを書いているので。

 

さっき自分で面白いと思いながら書いていたことと、今、面白いと思えることは違うんだよなー。人間、同じ気持ちを維持することって、けっこう難しいと思うのです。

 

それって私にとってはその一瞬、一瞬が正直でフルに感情を動かしているつもりなのだけど、人から見たら言ってることがころころ変わる、信頼できない人かもしれないなあ、とも思う。

 

消えた記事を書き始めたときには、熱くて手がつけられなかった葛湯を、もう飲み終わってしまった。身体が温まるかと思ったけど、意外とそうでもない…。

 

さっき書いていたのは、子供のころの記憶で、母親はお湯を湯飲みに注ぎ入れて葛湯を作ってくれてたイメージなのだけど、さっき作ってみたら、お湯を注ぐだけではねっとり感が出なくて、電子レンジにかけたら、ねっとりを通り越してぼってり、ほとんどくずもちみたいになっちゃったよー、って話でした。これ、熱の加減じゃなくて、片栗粉と水の割合の話かな?

 

今日は朝から一日、パジャマから着替えもせず、だらだら部屋の中で過ごしただけという1日だった…というイメージ。本当は仕事もしたし、映画も見たし、いろんなものを作って食べたのだけど。

 

とりあえず、1日は生きのびたぞ。ホットワインでも飲んで、ちゃんとリラックスして、寝よう。

 

おやすみなさい。

 

 

小さく小さくひとつずつ

どうにも不安になるとき、というのが私にもあって、どういう状態かというとそれは、先が見えなくなるとき。

 

先が見えないというのがどういう状態かというと、「先」というのを自分の予想できる範囲を超えて設定してしまうとき。つまり、無限の未来。

 

この先の人生、何があるかわからない。身体の不調が大病の萌芽かもしれないし、いつまでも死ねなくて何歳になっても働き続けなければいけないかもしれない。

 

これは、予想しても想定してもどうしようもないことで、絶対安心になるという方法はない。だから、考えるのをやめる。

 

とにかく、今を大事にすること。明日のことを考えること。1週間の予定を見直すこと。1ヶ月以内の約束を確認すること。

 

計画や目標を立てない人生は、向上や大成はないかもしれないけれど、不安につぶされてしまうよりはいい。

 

小さく、小さく。

 

自分の時間を区切って、将来をなるべく小さく見据えて。

 

今日を生きない限り、明日は来ない。

 

「毎朝ラジオ体操をする」という目標も、1日、1日の行動を積み重ねるしかない。今の時点で一気に1年分のラジオ体操をしてしまうことはできないのだ。

 

1つずつ、1つずつ。

 

1日ずつ。

 

はい、仕事します。ったくもー、日曜のこんな朝から。あたしけっこう働いてると思うんですけどねえ。じっと手を見る。