書けました

昨日、友人と話していて気づいたこと。

 

私は、子供たちのことが大好きだが、母親としてふるまわなければいけないときの自分はあまり好きではない。

 

ものすごく無理をするわけではない。意識して自分を偽るわけではない。子供たちと一緒にいるときも、情緒的に落ち着いて、頼み事に応じ、一緒に冗談を言ってげらげら笑う私は、私らしいと思う。

 

だけど、それをずっと、ずっと、24時間の間、かなりの割合で、毎日、毎日、絶対に休めることなく、必ず毎日、絶対に毎日、しなければならないとしたら、かなりきつい。

 

年明けからずっと気分が晴れなかったのは、1人になれる時間が減ってしまったからだと思っているし、集中して仕事してやり残したことはないと思える日は、子供たちと接していても決してイライラすることはない。

 

世の中の風潮を責める気はない。私だって、この年になるまで、母親になることと、母親であることの区別なんて、考えたことはなかった。

 

けど、世の中はまだ、子供を産むことと、乳幼児を育てることと、小学生を育てることと、子供の健康に責任を持つことと、子供の栄養を気にかけることと、子供の食事を作ることと、子供にひもじい思いをさせないことと、子供に食事のマナーを身につけさせることと、まだまだ際限なくあるけれど、これらの最高責任者を母親だと規定しがちだ。

 

規定って、だれが決めたの、これ? 私、いつの間にそんな最高責任者にされたの? 話し合いもなければ選挙もなかったよね?

 

と思って、離婚の話し合いで「親権は要りません」と言ったけれど、子供たちと一緒にいる間は自然と、上記の作業を行ってしまっている。

 

私も、規定を作り出す“世間”の一部だった、ってことだ。

 

仕方がない。それが母親なのだ…というのは違うと思う。それが私、なのだ。あとでどっと疲れることになるとしても、子供の前で子供の望む母親でいようと思うのは、まぎれもない私なのだ。

 

いつか、子供たちが大人になって、自分たちの言葉を手に入れたとき、「私は母親の前で子供らしくふるまうのが苦痛だった」と思い返すようなことがなければよいなあ、と思う。私は私の選択として、母親らしくあろうとしているけれど、子供たちは子供らしくある必要はなく、彼、彼女らしく、そのままでいてくれたらいいのだから。