なんだかめっちゃ怒ってます

こんばんは。今日のうさぎはブラックです。黒うさぎ。腹のなかがどろどろしています。

 

なぜかというと、昨日買った、この新しいパソコンが、やたらめったら遅いのです。ちょっとこれは、尋常じゃない。

 

大きなデータも動かせるような機種を買ったので、それは大きな車を買ってしまったみたいなもんで、ちょこっと使う分にはこまわりが効かなくて逆に不便を感じるみたいな、そんなもんかなー、と最初は思っていたのですが、こ、この重さは…、車に全然詳しくないので、例えが出てこないことさえもどかしいですが、なんというか、サッカー部の子供をわんさか載せて運べるような車とか、雪道でもぜんぜんへっちゃらみたいなオフロードカーとか、そういうのをイメージして、まあ、ちょっと近所に出かけるには大げさよねー(照)、っていう感じかと思っていたのに、こ、この重さは…ダンプカーでスーパー行くの、無理! というか、ショベルカーで子供の習い事のお迎え行くの、無理! みたいな、そういう感じ???

 

かなー、と思っていたのですが、今、こうしてざくざくと文章を書く分にはなんだか快適です。ときどき、漢字の変換でとまどっている感じがするけれど、それを除けば、前のChromeがときどき前触れもなくいきなり落ちる!みたいなことはなさそうなので、ちょっと安心感があります。やっぱり、大きな車はある程度の速度で遠くまで行くのには快適なのよねー。こまごま、しょっちゅう乗り降りするみたいな乗り方には向いてないわけで。

 

えーと、それからですね。

 

少しでも重い、遅いというのを解消したいと思って、Dropboxの中を整理していたら、昔のデータがいろいろ出てきて、昔のことをいろいろ思い出して、腹が立ってきました!! 私は、数年前までいろんな人に優しすぎた!と思う! 調子にのって私のことさんざん傷つけた人のことを思い出して、きいいいいいっ!! て腹が立ってきました。こうなると、いろいろ復讐のシナリオを思い描いてしまう。実行することはないですが。

 

怒りって、手放すのが難しいなあ、と思う。めーちゃめちゃ傷ついたとき、私はカウンセリングも受けるけれど、悲しみは消えても、怒りは消えない。怒りを消せるのって、傷つけた本人だけだ。

 

私を傷つけた人は何人もいるけれど、そのうちの一人は、「私はめちゃめちゃ傷ついていたんですよ」ってことを伝えたら、心の底から謝ってくれた。だから、その人に対する怒りは残っていない。

 

謝ってもらう機会さえなかった人、謝るどころか近くにいたらもっと傷つきそうだから逃げてしまった人。そういう人への怒りは消えない。

 

きいいいいっ! 

 

でも、純粋な怒りだからいい。悲しみの混じらない、カラっとしたら怒りだから、大丈夫。思い出しても傷つくことはない。ただ、ただ、腹が立つだけで。きいいっ!

 

母の持つ2つの発声器官

そうか。今日は母の日か。母になってから12回目の母の日だ。13回目かな? 長男、今何歳なんだっけ。13歳か。じゃあ、13回目だ。

 

母親になって13年。いよいよ母親らしくなってきた、なんてことは全くなくて、「産んだ」記憶がどんどん薄れて、最近の私は子供を産む前の自分にどんどん戻ってきた、という感じがしています。子供たちとも、母との子の絆を築くというよりは、個人と個人の友情を育みつつある、みたいな感じ。

 

まー、何度も何度もここでは書いてますが、母親だからこうしなきゃいけない、とか、子供だからこうしてほしい、とかいう「自分じゃないもの」を基準にしたふるまいは、したくないし、させたくない。年長者が幼い者に生き方を教えなければいけないというのを、私はあまり信じていなくて、子供だろうと大人だろうと、学ぶ人は学ぶし、学ばない人は学ばない。教えてもらって学べるなら、私だってとっくの昔に立派な大人になってますよ。へへーんだ。

 

子供たち、YouTubeばーっかり見てて、少し前は私もイライラしていたけど、大人が本を読みなさい、というのは、本しか楽しみがなかったころの文化でそう言っているわけで、この先、だれでもちゃちゃっと動画を撮れるようになったら、将来、プレゼンの動画を作るときとかに、YouTubeを見ていた表現形式がめっちゃ役に立つ可能性がないわけではない。最近のYouTubeは字幕が出るから、耳で聞いた言葉と漢字の書き方が自然に身につく部分もあるのでは、と思っている。(それだけで書けるようにはならないけどね。)

 

あと、人間、必要に迫られればやるものだ、と私は思っているので、そのほかのいろんなことは、子供たちも必要に迫られたときが来たら、自分たちで自分たちなりのやり方で学べばよい。

 

将来、「母さんがこれをさせてくれなかった」「母さんがこうしてくれなかったからだ」みたいなことは言われたくないので、子供たちが何をしたがっているか、というのは常に見ているつもりではあるけれど。

 

うーん、このパソコンの日本語入力、ときどき変換がものすごく遅くなる~。子供たちが赤ちゃんだったころ、とにかく入力の速さにこだわってAtokのカスタマイズとかしてたけど、今はそこまで時間かける気にはなれないかなー。

 

最近、音声入力の便利さをいろんなところで読みますけど、私の場合、こんな文章を口頭で述べることってできないです。パソコンのキーボードを叩くからこそ、こういう言葉が出てくるのであって、これ、10本の指が、口と舌と喉の役目を果たしてるみたいな感じです。発声のための器官が手の先にもう一つある、みたいな。そして、この口からでないと、出てこない言葉がある。

 

キミたちのお母さんには、口が2つあるんだよ。ふふふ。

 

そんな母の日。

 

欲しいものがたくさんある

新しいパソコンを買いました。今、新しいパソコンで書いています。ブラウザをChromeではなくてMicrosoftのEdge? とかいうのを使ってます。NECのパソコンのおすすめに従ってみた。いきなり落ちたりすることがないといいのだけど。

 

最初の起動だけで6時間くらいかかって、そのあとも、いろいろソフトを入れたり設定したり、かーなーり、イライラしました。途中でふて寝してしまった。まー、何かを変えるのって、めんどくさいですね。でも、仕方ない。

 

そして、出費も痛い…。動画の編集をやってみたいと思って、わりと値段の張るパソコンを買いました。これでストレスなく、さくさく動いてくれたらいいのだけど。もちろん、選ぶときに悩まなかったわけではないけれど、私、払った金額のことって忘れるんだよなー、と思って、高いのを買ってしまった。たぶん、安いのを買ってストレスを感じたら、あー、高いの買っておけばよかった、って思っただろうけど、高いのを買ってストレス感じたとしたら、うーん、高いのを買ったのにこれなんだから、仕方ないよなー、って思ったのでは、ないかな。どうかな。ポジティブすぎるかな。

 

貯金の額が減っていくことに、ちょっとした恐怖を覚えます。当たり前だよね。この年齢だったら、まだまだ貯金は増やしていかなければならない年ごろだから。

 

でも、不安を感じていても、貯金の額は増えないので、あんまり考えないようにしてます。どうしよう、と悩むくらいだったら、こうしよう、というアイディアを実行していく時間に使ったほうがいい。だから、パソコンを買った。動画もやりたい。ラジオもやりたい。

 

うーん、ブラウザの画面は変わらないけれど、パソコンそのものの色が、前はつや消しの黒くて小さな画面だったのが、今度は白とゴールドというぱきっとした色になって、なんだかつらつら書くときの気分も、これまでとは違ってしまっている気がする。人間、変わらないようでいて、簡単なことで小さく変わったりするのだよなー。

 

パソコンの出費が大打撃なので、もうしばらくは節約モードですが、本当はほかにも欲しいものがたくさんあって、たとえばワイヤレスのイヤホンとか、座りやすい椅子とか、ラジオやるためのマイクとか、本を読むときのソファ(あるいはロッキングチェア)とか。そういうものが欲しいです。

 

ほとんど物欲がない、と思っていたのだけれど、最近、気づくといろいろ欲しいものが出てきた。手に入れてステイタスとして満足するための物欲はないけれど、自分のやりたいことを実現するための、道具としてのモノが欲しい、という感じかなあ。

 

もちろん際限なく使うわけにはいかないけど。バランスを取りながらやっていきます。

 

さくさくと書いて1200字程度で12分ほど。やっぱり、私の脳内を垂れ流す速度は1分あたり100字程度のようです。

話しかけにくい雰囲気

今朝は身体的に疲労困憊で、全然起きだすことができなかったのですが、そしたら子供がずいぶん早くに来て、朝のひとりの時間が奪われました。今、同じ部屋の中で子供がYouTube見ていて、もう、こうなるとダメです。落ち着いて書くことができません。って書いてるけど。

 

私はテレビを極力見ないようにという育てられ方をしました。私たち(子供)がテレビを見ていいのは1日30分。母親は自分でも全くテレビを見ない人で、父親の見たいテレビは子供にとっては全く面白くなかったので、父親がテレビをつけている間は部屋にこもっていた。食事はテレビのないダイニングだったし、基本的にテレビは消されているもの、見るべきものをきちんと正対して見るときだけ、テレビはつけるものでした。

 

よその家で、テレビがつけっぱなしになっていたりすると、それが気になって気になって、友達と遊んでも楽しくなかったりして。

 

そんな生い立ちのせいかどうか分かりませんが、私は他人のいるところで自分のことに集中するのがすごく苦手。カフェの他のお客さんみたいな、全くもって無視していい存在ならともかく、家族とか、同僚とか、話しかけられたら反応することが求められているようなシチュエーションだと、自分の仕事に取り組んでいても、気もそぞろ。

 

特に、新人のバイトさんなんかが一緒だと、もうダメです。なんでかっていうと、「話しかけにくい雰囲気」を出していたら、聞きたいことがあっても聞きづらいだろうな、と思ってしまうから。私が勤め始めたときに、そうだったから。私がパートで勤め始めたときに、社長もお局様も、すごーく忙しそうで、そんなときに話しかけたら悪いな、と、極力自分で解決しようと効率の悪い働き方をしてしまったから、それがイヤなんですよね…。

 

でも、しばらく一緒に仕事するうちに、「あ、この子は遠慮なくなんでも聞いてくれる子だな」というのが分かると、安心して仕事に取り組めるんです。私が集中してても、臆せずに声をかけてくれるとわかると、逆に私は「話しかけてこーい!」みたいな態度を出さなくてもよくなる。

 

と、まあ、私ってばめっちゃ人に気を使って生きているんですよ。私と一緒にいることで、相手が最大限に心地よくいられるように、いつも気をつけているんですよ。

 

それが、相手に伝わっているかどうか、それが効果を発しているかどうかは、全く別の問題なんですけどね。

 

これを書いている間に、息子に「ゲームやるんだったらYouTube消してくれない?」と言ってみたら、「えへへ」と言ってパソコン画面を閉じてくれた。

 

そうか、私も遠慮しないで言ってみればいいんだな。仮にも自分の息子なんだから、信頼して聞いてみたらいいんだな。

 

息子よ、ありがとう。おかげで今日も無事に1000字を書くことができました。

 

ストレスの解消は必要か

50代男性二人と30代の若者と私、という食事会だったのですが、楽しかったです。会そのものも楽しかったですが、それ以上に、禁酒生活が、ラク!!!

 

私はコーラとウーロン茶で、あとの3人はビールやらワインやら飲んでいらっしゃいましたが、私が飲まないことについても特に理由を聞かれたり、飲むことを勧められたり、もちろん責められたり、まったくせず、私は酔っ払うことなしに、おいしく食事をいただき、会話を楽しみ、苦しむこともめんどくさく思うこともなく、帰宅しました。

 

これは、ラクだ。

 

今までの私は、なんでお酒を飲んでいたのだろう。全くもって分からないくらい、お酒を飲まない飲み会が、ラクだ。

 

その一方で、一人でいるときにはワインが飲みたいなー、とか、コンビニに行ってビールを買いたいなー、と思うし、ごくごくたまーに、なんかのタイミングでお酒の広告を見ると、うっ、飲みたい、つらい、と思うこともある。

 

が、しかし、自分以外の人と一緒のときには、お酒は飲まないに限る。なんでも、やってみるもんですねー。禁酒、してみてよかった。

 

なんて、いつまでこの禁酒が続くか分かりませんが。

 

あー、そういえば、今朝、いろんなものが放り込んである箱の中で探し物をしていたら、たばこがひと箱、出てきた。数年前に外国を訪れたとき、お土産で買ってきたのだった。私は、習慣としての喫煙をしたことはないのだけど、これも、たまに吸いたくなるときがあって、そのころはわりとちょくちょく吸っていたのだった。

 

あの頃は、ストレスを感じていたのだろうなあ。何か、自分に欠けているものがあるような気がして、それを埋めるようにたばこを吸っていた気がする。

 

今は、もうまったくたばこを吸いたいと思っていなかったのだけど、久しぶりに見たら、ちょっと吸いたくなった。

 

お酒もたばこも、もしかしたらコーヒーも、ストレスを和らげる効果のあるものだと思うのだけど、今の私にはほとんどそれらが必要なくて、ストレスのない生活はいいものだけれど、もしかしたら、お酒やたばこでごまかさなければいけないくらい、がんばることが、大人には求められているのかもなあ、とも思う。私のがんばりが足りないんじゃないのー、という気もする。

 

そうなのかもなー。そうなんだろうなー。でも、じゃあ、どうしようか。

 

決めるのは自分だ。はあ。悩みが解決しないまま1週間が過ぎてしまった。この悩みの解決の仕方が分かってないのだから、当たり前だ。やり方が分からなければできないのだ。

 

ぐだぐだ。

 

おやすみなさい。

 

 

 

以前私に起こったこと

まー、毎日、毎日、何のためにせっせと書いているのかなー、と思わないわけはないんですが、これ、私の生存証明みたいなものです。生きてるよー! と、誰にともなく叫んでいる。

 

私にとっては生きていることが喜びで、でも、たぶん私がいなくても世界は回っていくので、自分で自分の存在をこの世界に刻みつけるみたいな。そんな気持ちで書いてます。

 

新卒で入社した会社を辞めて3年が経ちました。会社を辞めるきっかけの大きな1つになったのが、以前に習っていた習い事の先生の、50歳の誕生日をお祝いするからうさぎちゃんも来て、と、かつての教室仲間に誘われたことでした。めっちゃ仲良かったグループでしたが、一人辞め、二人辞め、という感じで少しずつ減っていって、それでもその当時、まだ教室に通い続けていた友達が残っていたので、その彼女たちが誘ってくれました。

 

50歳の誕生日を祝うというのはサプライズパーティーで、それでもバーみたいな借り切った会場が満席で、弟子とかつての弟子たちが、勝手に自主的に開いたその宴席で、私はその先生がめちゃめちゃ愛されているなあ、というのを感じたのでした。

 

もちろん教室の先生として、ではありますが、その立場を超えて、なんというか個人として多くの人から慕われて、こんなにたくさんの人がお誕生日を祝ってくれるその存在が、私はうらやましかった。

 

そのころの私は、単なる会社員である自分に閉塞感を感じていて、あー、これを書くのはけっこう恥ずかしいんですが、「私じゃなきゃできない仕事」がしたい、と思っていたのです。30代も半ばを過ぎて、自分探しの若者じゃないんだから、ほんと、お恥ずかしい限りなんですけど。

 

でも、あのときの私は、もうそれだけで頭がいっぱいで、私なんて、私なんか、こんな人生、こんなもんか、と悩んで悩んで苦しんで苦しんで、ホント、毎日つらかったのです。自意識が高すぎるというか、おこがましいにもほどがあるんですけどね。

 

なんですが、「そうだ、会社辞めよう」って思いついたとたんに、ぱあああ、と世界が明るくなったのです。同じ会社にいる限り、悩みが晴れることはないと思っていたのですが、その条件を外したら、一気に自分の気持ちが軽く、明るくなった。

 

あれからもうすぐ4年になります。この4年間、私なんて、私なんか、という悩みはなくなりました。もちろん、別の悩みが次から次へと沸いてきて、すべてが順調というわけでは全然ないけれど、あの頃みたいに自分を否定して苦しい、みたいなことはなくなりました。

 

人生って、1つ1つ悩みを解消していくクエストみたいなもんなのかも。その解消のマイルストーンみたいなものが欲しくて、人はもがくのかもしれませんね。

吹聴と事実と解釈

むんさん、Emilyさん、ありがとうございます。ラジオ、やってみようかなと思います。たぶんそのうち始めます。そしたらまた、お知らせしますね。

 

いろいろぐるぐる考えてしまって、頭の中がまとまらないので、手元にあった電子辞書で国語辞典を開いて、適当に文字を入れて目をつぶってスクロールボタンを押して、しばらくして離したところの言葉にまつわる話を書こう、と思ってやってみたら、「吹聴」という言葉が出てきました。ふいちょう。あちこちに言いふらすこと。

 

はいー。

 

私は果たして口が堅いのか軽いのか、という問題をときどき考えておりました。でも、自分で「私は口が軽い」なんて言う人はいないのかな。みんな、自分は秘密を守れる人間だと思っているけれど、実は「これは秘密なんだけど」と、けっこうまわりに話しちゃったりしてますよねー。

 

どうなんだろう。私もけっこうそれをやっている気がするな。だからと言って、口が軽いかというと、そんなこともない気がする。口が軽い人間に、そうそう悩みなんて打ち明けてもらえないと思うけど、わりと人から「これは誰にも言ってないんだけど」というような類の話を打ち明けてもらえるような気がするので。

 

気がする、気がする、ばっかりですね。人から見た自分って、自分では分からないのですよー。私、心からそう思っていて、自分がどんな人間かって、自分では分からない。というか、とある人物がどんな人間か、なんて人によって変わるんだから、断言なんてできないですよー。

 

たぶん私がラジオをやってみたりしたら、文字で伝わっている人物像とは全然違うのではないかと思います。いや、そうでもないのかな。分からないな。文字によってどんな印象を与えているのかというのも、よく分からないし。

 

吹聴。吹聴の話に戻ります。吹聴にまつわる思い出。なんかあったかな。

 

あー、思い出というわけではないけれど。誰かが「〇〇さんって××なんだって」と言うヤツ。これ、保護者同士の会話で多いんですけど、私は、××に入る言葉が、例えば「まだ20代なんだって」とか、「去年までシンガポールに住んでたんだって」というような事実であれば「へー、そうなんだー」ととらえます。が、しかし、「この前の保護者会で先生に向かって暴言吐いたんだって」とか、「地区班の集まりで怒って帰っちゃったんだって」というような、“解釈”がまじる話は、信じないです。“暴言”だと思ったのは、その場にいた別の人の解釈だし、“怒って帰った”というのも、それを見ていた人の解釈です。

 

私がその場にいたら、「先生に対して理路整然と意見を述べた」と受け取ったかもしれないし、「途中で場の雰囲気に耐えられなくて中座した」と思ったかもしれない。だから、自分の目で見ていない情報は、あまり当てにしていません。私は、自分の解釈で人と接したいから。

 

吹聴とはぜーんぜん関係ない話になってしまいました。

 

おやすみなさい。ぐーぐーぐー。