理由を探し始めているのか

ひとりで街を歩きすぎて、ものすごい筋肉痛です。ただ、歩いただけなのに。いかにふだんの東京の生活で歩いていないか、ということですよねー。

 

歩くの、大好き。ただただ単純に、身体をどこかへ運ぶという行為が好きだ。かち歩き大会みたいなのに参加してみたいと思いつつ、まだ参加したことがない。

 

歩くのなんて、いつでもどこでもやればいい、と思うものの、それをやるための時間を確保するのが難しい。仕事でもなく、向上心を伴う趣味でもなく、ただ、歩くことを目的に歩く、というのは、ふだんの生活のなかだととても贅沢なことなのだ。

 

だから、旅先くらい贅沢をしようと思って歩くのかというと、それはまた全然違って、せっかく遠い国まで来たのだから、あれも見たい、これも見たい、あそこも行こう、ここも行こう、となって歩き回るのである。これでは、贅沢のまるで反対ではないか。

 

旅先でくらいゆっくりすればいいのに。ゆっくりするために旅があるのか?

 

人はなぜ、旅をするのかということを、電車の待ち時間をつぶした駅のレストランで考えていた。人類は、いつ、旅というものを発見したのか。きっと文献を探せばあるのだと思うのだけど。

 

何らかの必要があった「旅」、あるいは身体の移動。これが、いつから娯楽になり、ビジネスになり、贅沢になったのか。そんなことを考えた。

 

何が旅で、何が旅ではないのか。旅行と出張は何が違うのか。旅行と合宿は何が違うのか。旅行と留学は何が違うのか。

 

私が好きなのは何なのか。旅行の何が好きなのか。

 

理由がなくても人は旅をするだろうか。

 

好きになるのに理由は要らない、と私は常々思っていた。旅行の理由を探し始めている私は、もしかしてもう旅が好きではないのかもしれない。

 

かといって、旅行しない自分になってしまうのはイヤだ。外国、日本語じゃない言葉が話されている地域、いつもの文化と違う文化が広がっている場所、そういうところへ身を運びたい気持ちは、消えない。消えてほしくない。

 

旅行をモチベーションに、仕事をする。仕事をする理由を、旅行にする。

 

異国の地にいるのは心地よい。この心地よさが、あとしばらくは続いてほしい。旅行で得られる満足が、旅行のわずらわしさに負けてしまったら、もう、私には何もなくなってしまう気がする。せめて、旅行は好きなままでいたい。まだまだ行きたい国がある、と思っていたい。

 

こんな努力をいないといけないくらい、自分の気持ちが変わってしまっているのを、実は、ひしひしと、感じている。