この3日間も生きていた

はい、生きてます、生きてます。元気です。

 

究極の愛って、「その人が生きていてくれたらいい」だと思うのですけどね。私が生きていると知って、ほっとしているそこのあなた、あなたは私を愛してるってことだと思います。ありがとうございます。

 

私も、生きていてくれさえすればいい、っていう気持ちで愛している人がたくさんいます。筆頭は、長男ですね。子供は3人いますけど、長男がいちばんかわいいという意味ではなくて、長男がいちばん年上なので、いちばん、生きていさえすればいい、という愛し方になってます。だってもう、彼は私のことなんて必要じゃないからさ。

 

下の二人は、生きていてくれさえすればいい、の域にはまだ達してなくて、彼らが少しでも幸せに生きていけるために、まだまだ私にできることがあるな、と思うので、彼らが生きていることも重要だけど、同時に私も生きていることがめっちゃ大事。今、私が死んだら、たぶんあの子たちはかなり悲しむよ。いや、悲しんでくれないかもしれない。未来のことは分からないし、人間、その場になってみないとどんな感情がわいてくるかなんて、誰にも分らないのだから、そこまで悲しくはないのかもしれないけどね。

 

生きていたいと思うことと、誰かが自分に生きていてほしいと思うことと、誰かのために生きていようと思うことと、誰かが自分に生きてほしいと思うことをうれしいと思えるかどうかということと、ぜーんぶ、ぜーんぶ別のことなんだ。そこを、当然のように、自分が生きていたいことと誰かに生きていてほしいと思うことを同一視してしまうから、苦しみや喜びが生まれるんだと思う。

 

正直、今の私は生きていたいかって聞かれてても、よくわからない。もちろん死にたくはないけれど、何のために生きているのか、この先どれくらい生きていればいいのか、どのくらい生きていたいと思っているのか、全然よくわからない。

 

でも、死にたくはない。死ぬ必要もないし、誰かが私のことを死んでほしいと思っているとしたら、「うるせえ、死ぬか、ばーか」って言うと思う。その反抗心で生きているのかもしれないけど、それってそんな人たちのために生きてるってことになるから、そんなのもバカらしいと思う。

 

本当に、本当に、嫌いな人のことは忘れるのがいちばん。その人が、何を考えているのか、私にどうしてほしいのか、いっさいを、気にせず、無関係に生きていけるようになるのが、何よりの復讐。

 

なんだけど、復讐のために生きるというのがそいつらのために生きることになる、という矛盾。

 

だから、矛盾なしで生きていくなんて無理なんだよね。矛盾だとか整合性だとか必要だとか愛されてるとか、そんなの無視して、とにかく1日1日を生きていけばそれでいいんだと思う。

 

そんな風にして、この暑い夏の日々を生きています。