ずっといい子だった
昨日の投稿を読んで思ったのだが、私は大人になるのが遅すぎたのだな。
小さなころから私はとにかくよくできる子で、大人の言うことを素直にぜんぶ聞いていたし、大人の言うことはぜんぶ正しいと思っていたし、大人の言う通りにするのがよい大人になることだと思っていた。
先生の言うことをよく聞いて、宿題も勉強も習い事もがんばった。
明るく元気に遊んだ。
たくさん友達を作った。
まじめにやらない同級生を注意した。
本を読み、自分の意見をもった。
自分の世界を広げる努力をした。
挑戦もした。
たくさんの人と知り合った。
ボランティアもした。
就職活動も全力でした。
できる限り上司の期待に応えられるようにした。
ひとりの人と誠実にお付き合いをした。
家庭をもった。
家庭を守った。
仕事も続けた。
妊娠したら健康を第一に気遣った。
生まれてきた子どもを大切にした。
愛情をこめて授乳した。
食事を作り続けた。
子供を社会に役立つ人間にしようと教育した。
自分自身も社会に役立つ人間であり続けようと努力した。
ぜんぶぜんぶ、世の中の大人がよいと思っている規範に従ってきた。
ふと気づくと、疲れ果てていた。ここまで努力しなくてもいいんじゃないか、と思うに至った。一つを手放した。非難された。手放したものは戻らないから、持っているもので、さらにまた努力した。でも、さらに非難された。つらくなった。
いくつ手放したのかわからない。もしかしたら、何も手放していないのかもしれないし、私が手放したかに見えたことで、見限られたのかもしれない。
すべてすべて、大人の言うとおりにしたら幸せになれると思っていたけれど、疲れてしまったことで、まわりにはそこまでの努力をしていない人がいるように、見えてしまった。だから、いい子でいようとする努力をやめた。
そしたら、平気だった。気づいたらもう、私は子供ではなかった。少しくらい、大人の言うことを聞かなくても、少しくらい、さぼっても、少しくらい、うそや秘密をもっても、私は非難されなかった。
もっと早く、大人になればよかったのだと思う。だけど、もしかしたら、まだ子供でいた方が幸せだったのかもしれないとも思う。
どこかで子供のままでいられたらよかったのかもしれない。子供でいられる場所を確保したまま、大人になれたらよかったのかもしれない。
子供のまま、大人になるのはつらかった。自分の中の何が子供で、何が大人であるべきなのか、区別しないままでいつもいい子でいるのはつらかった。
私は、いい子のまま、適度に責任ある大人になりたかった。なりたかったし、今、やっとそうなれたのかもしれない、と思っている。