ストーリーを語る

知らなかったら、この不幸はなかったのに、と思うことがある。自由を知ってしまうことで、自分の不自由に気づいてしまう。世の中にパンという食べ物があると知らない人は、ごはんとおそばとうどんとラーメンで満足しているはず。テレビを見たことのない人は、テレビの存在を知るまで、それを見たいとは思わないはず。

 

しかし、知ってしまったら、知らなかった世界には戻れない。時間は巻き戻せない。記憶は消せない。

 

 

下してしまった決断を、なかったことにはできない。取り消すことはできても、謝ることはできても、決断をしたという過去は変わらない。

 

自分の今の状況を、ポジティブにとらえるための言葉。決して落ち込んだり、気分が沈んだりしているわけではないけれど、まーなんとなく、思い出したくないことを思い出したりしたときは、自分の言葉で物語を紡ぐしかない。

 

それが架空のストーリーだとしても。自分を救うための物語であれば、自家発電で作り出す。

 

自分が救われるためのストーリー。自分が悪者にならないストーリー。自分が幸せになれるストーリー。

 

それが他の誰かを傷つけているかもしれない。それは仕方がない。だって、私だって、他のだれかのまったく意図せぬところで、不意に傷ついている。

 

傷つけたのなら謝るけれど、私も傷ついたから謝ってほしい。謝ってもらっても許さないけれど。

 

私は傷ついている、というのを、どう伝えたらいいのだろうか。傷ついている、と伝えることで、余計に傷ついてしまうとしたら、それを何度も繰り返したとしたら、傷ついていると言い出すこと自体が怖くなる。

 

黙って逃げるしかなくなる。きっと私は黙って逃げた。逃げるしかなかった。これが私にとってのストーリー。

 

私は、これまで誰を傷つけただろうか。きっと、知らないところでたくさん、たくさん傷つけている。

 

謝りたい人もいれば、謝りたくない人もいる。勝手に傷つかないでよ、と文句のひとつを言いたいくらいの人もいる。

 

人とかかわらなければ、傷つくことも傷つけることもないのだけれど。人は過ちを繰り返す。私は過ちを繰り返す。

 

私だって傷ついた、と主張したところで、相手の傷が癒えるわけでもなければ、自分の傷が消えるわけでもない。傷ついた。それが事実。

 

こんなに何度も、傷ついた、傷ついた、と書き連ねなければいけないほど、私は自分のストーリーに自信がないのか。こんなに何度も自分に言い聞かせなければ真実にならない物語なのか。

 

恐ろしい。真実が覆されるのは恐ろしい。

 

なんだかえらい闇のある話になってしまいました。たまにはそんな日もある。

 

おやすみなさい。