性別と子供の無限の可能性

顔が冷える。頬が冷える。鼻が冷える。

 

暖房をつければよいのでしょうが、そこまでは寒くない。

 

頭寒足熱という言葉は大好きな四字熟語だけれど、今の私は顔寒足熱だ。足もとだけが、電気座布団のおかげで温かい(座布団を床にしいている)。

 

文句を言って解決しないのは、被害者ぶってるだけの無責任野郎なので、顔が冷えるのを解決しなければ、とわりと真剣に考えて、今、ネックウォーマーを目のすぐ下までずり上げて、まるでスキー場のスキーヤーのようないでたちで、ブログを書いております。幸いにして、頭には髪の毛があるので、そこまで寒くない。

 

あー。

 

今日、仕事しながら、「性別なんて自由に出し入れしたらよいんだわ」と思いました。もちろん、自由にならないときはあります。私は女性で異性愛者なので、どうにもこうにも男性にひかれるときはあります。

 

が、社会生活を営む上での性別なんて、自由に出したりひっこめたりしたらよい。

 

社会生活を営む上での性別って、そういうのをジェンダーと呼ぶのでしょうか。

 

私にはジェンダーとセックスの差がよく分かりません。いや、分かるんだけど、あんまりそこをきっちり分けると、いろいろ息苦しくないですか、と思う。

 

だから、きっちりと分けずに、ぼんやりとさせて、出し入れ自由にしたらよい。

 

X軸に男と女、Y軸にジェンダーとセックス、そしてZ軸に時間(成長)を組み合わせたら、その瞬間、瞬間で、私たちは無数の性別のパターンを選ぶことができる。

 

そして、自分の選ぶ性別を自由にするということは、相手の性別を勝手に決めない、ということでもある。

 

私は女っぽくいたいときもあれば、男っぽくしたいときもある。もちろん、どちらでもないときもあるし、相手によっても出し方の割合をたぶん無意識に変えている。

 

そこは、自由でいいんじゃないですかね。自由にさせてくれてもいいんじゃないですかね。

 

子供たちは、私のことをどう見ているんだろうなあ。すでに「母親」とは思っていない、ただの「親」だと思っているんじゃないだろうか。あるいは、彼らの中では、「母親」とは「自分たちのことを顧みずに好き勝手に仕事や趣味ばかりやってる存在」というジェンダーの刷り込みが出来上がりつつあるのかも。

 

いいねえ。自由だねえ。

 

鼻の上まで真っ黒なネックウォーマーを引き上げてパソコンに向かっているような人物が母親だと思うと、なんとなく彼らが不憫であるような気もしないではないです。が、おそらく子供には無限の可能性があるので、そんな大人の心配はものともせず、強く健やかに生きていくものと思います。

 

では、おやすみなさい。