毎日がアートです

ビジネスは、社会のため。アートは、個人のため。

 

一言でいうと、そういうことなのかな、と思うようになりました。

 

何のために働くのか。まずは、個人が食べていくためです。大人一人が、食べていくため。田舎で自給自足して、貨幣経済に頼らず食べていける人がいれば、それは食べるために働き、個人の生活はできているということになる。けれども、社会には何も還元していない。

 

社会のいちばん小さな単位が家族だとしたら、家族という社会が食べていければ生活は成り立つ。家族みんなで野菜を作り、穀物を植え、家畜を育てるとか。

 

実際には、そこにすでに道具や土地が必要で、税金を支払う仕組みによって、社会にはかかわらざるをえない状況になっています。

 

何のために働くか。←2回目ですけど、結局、今の日本社会、貨幣経済で、社会にかかわらずに働くというのは無理で、働くというのはそれがどんなに赤字であろうと労力ばかりかかって利益が少なかろうと、あるいは社会のなんの役に立っているのかと実感しづらい仕事だろうと、社会のためにはなっている。

 

国や、企業が、働け、働け、というのは、そのため。働いても働いても、もっと働け、というのは、そのため。

 

たぶんそれは青天井です。どんなに働いても、もっと働け、になる。

 

となると、結局リミットを決めるのは自分しかない。自分が、これだけ稼げたらよい。これだけの生活ができればよい、と決めたら、それでよい。

 

その一方で、人はパンのみにて生きるにあらず。

 

きっと誰もが、お金の流れという数字だけでなく、無駄に見える遊びとか、推し量ることでしか理解できない心の交流とか、わけのわからない衝動や感動を求めている。求めてしまうときがある。

 

それが、アートなのかな、と。

 

アートは個人のもので、たとえば、娘が私に作ってくれた誕生日カードは、経済的な価値は何もないけれど、私にとっては心の底から生きていてよかった、この子がいてくれてよかった、と実感できる作品。

 

何人か、もっと言えば大人数、大多数に共有される感動が生み出されたとき、それは貨幣的な価値、お金の流れを生み出すけれど、それだって全人類に共通ではない。私、平昌オリンピック、何も見てないですからね。

 

お金のかかる趣味が、いっさいできないような貧しい生活の私ですが、心は豊かでいるつもりです。毎日、いっぱいいっぱい心を動かして、喜びや楽しさや悲しみを味わっています。毎日がアートです。

 

めでたいのう。