私にとっての愛するという行為

おはようございます。バナナ食べて豆乳飲みながら書いてます。昨日の記事には誤植がありましたが、豆乳を投入!なんてあまりによくあるダジャレなので、そのままにしておきます。

 

私にとって子供を愛するとはどういうことか、を書きます。何度も書いていますが、今、私と子供は同じ家で生活しているわけではありません。すぐ近所に夫と住んでいて、本当にいつでも、子供たちはしょっちゅう遊びに来ますが、私は彼らのお世話をいっさいしていません。

 

お世話というのは、食事を作ったり、洗濯をしたり、学校の書類に目を通したり、お金を出したり(あ、これはちょっとだけしてる)、まっとうな大人になるために教育や指導をしたり、といったことを指します。私はこういうのの一切を、放棄しました。

 

なぜなら、別居に至った夫がそうしてください、と言ったからです。「私たちの生活を乱さないでください。そっとしておいてください。」と。なので、私は彼らの生活に、できる限り介入しないようにしています。

 

ですが、私は子供たちを愛しています。愛しているので、できる限りのことをしてやりたい、と思います。が、親権を持つといっている大人から、親権を手放そうとしている大人が上記のように言われてしまうと、できることがすごく限られるのです。

 

本来であれば、一生懸命お金を稼いで、潤沢な養育費として毎月たんまりとお金を渡すのが愛情の印なのかもしれません。しかし私はしがない自営業者。しかも、運よく稼げた場合はそのお金を豊胸手術に使おうとしている。

 

豊胸手術を我慢して、彼らの学費に充ててやればいいのかもしれませんが、それは今はやりの、母親の勝手な自己犠牲に過ぎません。「小さいおっぱいで我慢するの あたしおかあ…」やめておきます。それ、我慢しろよ、と自分でも突っ込みたくなってきた。

 

何が言いたいかというとですね、私にとって、子供を愛するというのは、「なるべく一緒に笑顔で過ごす時間を増やす」ってことです。私と一緒にいる時間を、いつも心地よいものにする。できることなら楽しく、おかしく、笑ってしまうような時間にする。もちろん、子供が悲しそうにしていたら、その悲しみを取り除く手伝いをする。怒っていたら、たまには私も一緒になって怒っちゃうけど、何が怒れてしまう原因なのかを聞いて、怒りが収まるように手伝う。

 

もちろん、私自身が彼らと一緒にいる間、笑顔でいることも大切。いろいろしんどいし、不安だし、悩むことだってあるけど、私が落ちこんでいたら、きっと彼らは心配してくれるから。心配してくれるのはうれしいけど、でもやっぱり、彼らが私に笑顔でいてほしいのと同じように、私も彼らに笑顔でいてほしいから。

 

だから、私は自分のことをめっちゃ大事にしつつ、同じくらいか、それ以上に、子どもたちのことを大切にする。私の自分大好き度は相当なものなんでね。それと同じくらい好きになってもらえるのって、けっこうな好きさ加減だと思いますよ。

 

はい。今朝のところは以上です。皆さまも、よい週末をお過ごしください。