不謹慎かもしれませんが

今日はとある葬儀に参列しまして。ずっと、人の死が悲しいのはなぜなのだろう、ということを考えていました。

 

私はこういう、わりと世間で当たり前と思われていることについて、なぜそういうことになっているのだろう、と考えるのが好きです。

 

亡くなられた方は90歳近くて、会場には泣き崩れて他の方の涙を誘うような方も見当たらなくて、でも、きっとご親族や友人は悲しい思いをされていたのだろうな、と思います。

 

ただ、その悲しみは、例えばですけど、今、私が子供を亡くしたとしたら悲しい、その悲しさと同じだろうか、と考えると、なんだか違う気がしたのです。

 

今、計らずも悲しみと悲しさ、と書いてしまいましたが、私も既に祖父母を4人とも亡くしています。祖父母が亡くなったときは、悲しみがありました。でも、今はもう、悲しさはない。

 

でも、たとえばですけれど、私より先に子供が死んでしまったとしたら、その時点でのとてつもない悲しみだけでなく、私は生涯ずっと、その悲しさを抱えて生きていくのではないかという気がするのです。

 

大学のときに、社会学か何かの授業で、戦争などで多くの若者が亡くなることの意味について、「家族にとっての若者の死の意味というのは、若者が亡くなったことが悲しいのではなく、もうその若者に決して会うことができなくなったことが悲しいのだ」ということが社会的に発見された、みたいな話があり、なんだか、大学に来て学んだ意味があったな、と思った記憶があります。というか、この話がすごく印象的で、「死」とはそれ自体が悲しいものなのではなくて、二度とその人に会うことができなくなることが悲しいのだ、という定義をわりと妄信(?)していたのですよね。

 

だから、今日の大往生の男性に、もう二度と会えなくなってしまったことが悲しいのかな、と想像してみましたが、なんとなく、違うような気がしてしまったのです。

 

純化して言えるとしたら、過去に対する悲しみと、未来に対する悲しさ、みたいな。その両方が混じりあって、人の死は悲しいのかな、とか。

 

自分でも、全然うまく書けていないし、こんなこと不謹慎だと言われるかもしれませんが、考えたことを書かせていただきました。こういう複雑な思考も、もっと、ちゃんと書けるようになりたいものです。

 

おやすみなさい。