おばちゃんとは迷惑で幸せな生き物

サラダ記念日で一世を風靡した俵まち俵万智さんの短歌で、ポストに入っているダイレクトメールでさえ嬉しいような寂しい午後、みたいな意味の短歌があったと思います。

 

ダイレクト、で切れて、メールもうれしい、みたいに続いた気がするのですが、うろ覚えです。うろ覚えって、うる覚えって言う人がいますよね。どちらが正しいのか、私にはわかりません。

 

なんでこの短歌を思い出したかというと、いろいろもらって嬉しいメールを受け取ったからです。ダイレクトメールではなくて、私宛の私信メールで、いろいろ。

 

すみません、自慢です。そうやってメールを送ってくれる相手がいる、というのはうれしいですが、でも、その裏側で、冒頭の俵万智さんの短歌のような寂しさも、すごくわかる、と思ったので思い出しました。裏があるから表を感じることができる、というか。

 

ドストエフスキーの『罪と罰』で言っているのは、そういうことなのかな、と私は思っています。誰かを愛しいと思うことができて初めて、誰かにとっての愛しい人を殺めてはいけないということを理解する、みたいな。

 

でも、書いていて大きな疑問にぶつかりました。『罪と罰』で殺されるのは、「誰からも愛しいと思われていない」はずの老婆でした。なんで主人公が、殺めてはならなかったのだ、と思うようになったんだったかな。

 

と、疑問には思いますが、めんどくさいので読み返したりはしません。そういうことは専門家に任せておけばよい。私は私の人生を生きることで忙しいのです。私の人生で、「めんどくさい」は非常に大きなキーワードです。

 

でも、悩んで悩んで悩みまくってるときに、本を読むのはいいですよ。特に昔の本はいいです。貧しくて、子供が簡単に死にます。ばたばたと子供が死んでいく昔と、生んだ子供を保育園に入れることができない今と、どちらがよい時代なんだろう、と考えます。あと、大昔から人が恋愛で悩んでいたということもわかります。こんだけ昔から悩んでいるのに人類は恋愛問題を解決できていないんだから、恋とはつまり悩むことなのだ、という気持ちになります。

 

私の知っている悩みをなくす方法が1つあります。中年のおばちゃんになることです。中年のおばちゃんになって、1人で生きていくと覚悟することです。中年のおばちゃんにもなると、1人で生きていくと覚悟しているにもかかわらず、まわりの人間関係があまり放っておいてくれないので、寂しい思いをすることはありません。

 

コツは、余計なお世話をすることです。愛の押し売りをすることです。コーヒーを飲みに入った喫茶店で、「研修中」というバッジを付けた女の店員さんに、「あら、もしかしたらまだ学生さんなの?」とか、「がんばってね」とか言ってしまうことです。

 

私は言いませんけどね。書いててほんとに、おばちゃんって迷惑な生き物だな、と思いました。でも本人たちは幸せなんです。

 

あれー、なんでこんなに長くなっちゃったんだろう?