他人である子供たちの話

小4の娘が、7月1日から毎日日記を書いていると知って驚く。サイズが少し小さくてページの多いぶ厚いノートに、ボールペンで、字とイラストを使ってせっせと書いているらしい。基本的に見開きで右のページにしか書かず、左のページには行った場所のチケットなどを貼り付けている。「見て見て、これ、おじいちゃんとパンケーキ食べにいったときのだよ」などと言って、ちらっとページを開いて見せてくれたけれど、びっしりと埋まった文字の中に、「楽しかった~♪」や、「つ、つかれた…(*_*;)」みたいな彼女の言葉が見えて、なんて健やかなんだろう、と心から嬉しい。

 

書きなさいと言ったこともないし、書いたら?と言ったことさえないと思うのだけど、彼女はそういうのが楽しくてやっているという、それだけのことらしい。「〇〇はそういうの書くのが好きなんだねえ。お母さんも文章書くの大好き」と言いつつ、ついつい「親子だなあ」と思ってしまう。私が文章を書くのが好きなのと、彼女が毎日日記を書くのを楽しんでいるのは、たぶん、確率的にはほとんど関係がないと思うのだけど。

 

中1長男が読んでいる少年少女向けの推理小説を持ってきて、「このシリーズの続きを買って」と言ってくるのも「親子だなあ」と思ってしまう。「お母さんも子供のころそういう推理小説読むのが大好きだったよ」と言いながら、いそいそとAmazonでタイトルを検索する。

 

自分の気に入っている性格や性質を、自分の子供たちの中に見つけるのはうれしいけれど、それは「親子だから」ではないと思っている。子供たちと私は、別の人間だ。毎日のようにブログや日記を書く人間はごまんといるし、ミステリ好きな人間なんて腐るほどいる。多くの人間に共通する楽しみを、たまたま子供たちも私も持っているというだけだ。

 

私は鶏肉が嫌いだけど長男は唐揚げが何よりの好物だ。私はエビが好きだけど次男は食べようとしない。

 

私は外国旅行が好きだけど、子供たちは絶対に行きたいとは言わない。昨日、次男に「お母さん、ピラミッドのある国に行って」と言われた。「え? エジプトのこと? なんでエジプトに行ってほしいの?」と聞くと、「本物のピラミッドがどんなんか見てみたいから」と言う。「見てみたいなら一緒に行こうよ」と言うと、「やだ。お母さん行ってきて」ってなんじゃそりゃ。

 

家族は他人。親子も他人。他人だからこそ、思いやるし、愛しく思う。

 

子供たちが大人になってからも、私のことを年に1度くらいは思い出してくれるといいなあ。

 

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