年に一度を逃したら

コーヒーが飲みたくなって外に出てみたら、もう真っ暗。日が短くなった。日足が短くなった、とも言うのね。昨日、お手紙を書くのに時候の挨拶を調べていて知りました。

 

手紙の書き方。今でも社会人になるとみんな練習するんだろうか。どれくらいの場面で、どれくらいの人が必要にしているんだろうか。それとも、私の感覚が非常識で、いくら若くても、いくら時代が変わっても、社会人たるもの正しい手紙の書き方は身につけるのが当たり前なんだろうか。

 

しきたりに従う、というのが苦手だ。なぜ、そんなことをしなければいけないのかが分からないときに、「そういうことになってるから」という理由で何かを行うのが嫌いだ。

 

お世話になっている人に感謝の気持ちを表すのは好きだ。けど、感謝の気持ちもないのに形式だけお中元やお歳暮を贈るのは嫌いだ。だからといって、お中元やお歳暮の習慣がなくなってしまったら、感謝している人にその気持ちを表す機会がなくなる。それも困る。感謝していないわけじゃない。気持ちの表し方を考えなきゃいけないのはめんどくさい。

 

その人に誕生日プレゼントを贈ったらいいのかな。お中元でもなく、お歳暮でもなく、年賀状でもなく、クリスマスプレゼントでもなく、あなたの誕生日を覚えていますよ、という印に。あなたが生まれてきてくれたことを、私はお祝いする気持ちでいますよ、と。

 

中学校だったと思うけれど、How often という英語を訳すのに先生が苦労していた。どのくらいの頻度で、どれくらいしばしば、という意味だけれど、日本語にするとまどろっこしい。

 

どれくらいの頻度で、気持ちを相手に伝えるか。毎日、毎週、毎月。1日に1回、週に1回、月に1回。その上は、年に1回だ。それを逃してしまうと、一気に「死んじゃってから」になる気がする。

 

2年以上会っていない人と、この先、いつ会うだろうか。わざわざ会う機会を作るだろうか。会いたくないわけじゃないのだけど。だけどたぶん、その人が亡くなったら、お葬式には行くんだろう。そのとき、生きてるうちに会っておけばよかった、と思うんだろうか。

 

私には会いたい人がいるけれど、たぶん、死んでも会えない。お葬式にも行けない。

 

私が死んだら、その人はお葬式に来てくれるだろうか。そもそも、私が死んだことは伝わるんだろうか。

 

ああ、手紙を書かなければ。とある人が亡くなったことを、知らずに年賀状を出し続けている人に。きっと、ショックだろう。ずっとずっと、年賀状を送っていた相手が、死んだことさえ伝わらないような関係になってしまっていたと知ったら。

 

どんな相手とも、どんな立場でも、その関係が今でもあるものなのかどうかは、その都度、確かめなきゃいけないんだな。油断していると、失ってしまう。安心していると、離れていってしまう。

 

中学のときのバスケ部の仲間と、この先集まることはあるのかな。もう、集まろうって声をかけることもしないかもしれない。集まろうって声をかけられても断るかもしれない。もう、自分たちの子供が中学生という年齢。私たちは、距離も、時間も、遠く離れてしまった。

 

今年の年賀状は何枚買おうかな。

 

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なんていうか、ぜんぜんホクトさんに気持ちが向かないときも、かなりありますね…。