むかーしむかし、こんな歌が好きだったのですよ
いつもより早く帰ることができて、小2の息子と会話をしてから、スーパーへ行く。「僕たちがお腹すいたときに食べられるもの買ってきて」と言われ、スーパーの中をさまよう。
おそらく私は、世の中の平均的な母親と比べたら、子供たちと一緒にいてやれる時間がものすごく少ない。子供たちも、私も、それをかわいそうなことだとは思わないようにしている。
子供は子供で、「お腹がすいたときにお母さんがいなくても食べるものがあるように準備しておいて」と言う。
私は私で、「私がいないからといってせめてお腹のすいたみじめな思いはしないで済むように買い物しておこう」と思う。
日持ちするもので、火を入れないでも食べられるもので、たくさん食べても体に悪くなさそうなもので、子供の喜びそうなものを、選ぶのが難しい。
シリアルとかクラッカーとかを買い、今日帰ったらすぐに食べられるように、息子の好きなスイカを買い、娘の好きなパイナップルを買い、私が一緒にいるときに食べられるようにラーメンの5袋パックを買う。買う、買う、買う。子供のために買う。
買い物をしながら、子供のできないことをしてやることが親の役目だとしたら、私はお金を稼がなければいけないな、と思う。好きなことをして、楽しく働いていて、自分は満足だけれど、一緒に過ごす時間が少ないことで、子供にしてやれることが少ないなら、私はお金を稼がなくてはいけないな、と思う。
自分のために仕事する気になれないのだとしたら、大切な誰かのために仕事をすればいい。親が子供のために働くのはあまりに当たり前だけど、当たり前から逃げるように、私は自分のやりたいことを選んでしまったのだから、生きたいように生きる、とは別に、お金を稼ぐ理由が必要だ。
家に帰ると、娘と息子がそれぞれ1台ずつパソコンを使ってYouTubeを見ている。私は、スイカを出し、トーストを焼き、麦茶を注ぎ、スープを作り、パイナップルを出す。子供たちは王様だ。なにひとつ憂うことなく、なにひとつ我慢することなく、自分のしたいことをしている。私はそのために動く。
1日の中の、たった数分、ほんの数時間のことだから。甘やかしてやる。彼らはまだ、9歳と8歳だから。
こんな毎日が、普通で、当たり前で、いつまでも続くものだったら、彼らはこんな日々を忘れてしまうのだろうな。思い出でもなんでもなく、子供のころのなんでもない日々として、記憶から消し去られてしまうのだろうな。
だけど、私は、そういう日々の安心が積み重なりだけが、彼らの健やかな心身をはぐくむと信じている。何でもない日々が認められたように、何者でもない自分を認められる、自尊心の土台になると信じている。
もちろんそれが合っているのかどうかは分からない。時間だけが正解を知っている。
…どえらい懐かしい歌を思い出してしまいましたわ。
おやすみなさい。