今年も残りあと2ヶ月

11月になりました。そろそろこの1年の振り返りをするころです。やり残したことはないか? 今年のうちにしておくべきことはないか?(あ、同じか…)

 

Facebookを見ていると、友人の中にも「今こそ1年の振り返りを」みたいな記事を書いてる人がちらほら。占いとかコーチングとかしてる人たち? 個人の投稿がイコールそのまま自営業の宣伝になっているような人々の投稿が、そんな感じです。

 

そんな人たちの投稿にそそのかされて、私もこの1年の振り返りをしてみないわけではないです。やり残したことはないか、今年のうちにしておくべきことはないか。

 

ないんです。もののみごとに。やりたいと思っていたのにできなかったこともないし、やろうと思っていたのにしていなかったこともない。

 

というか、ですね。この1年、私は、何かをしようとか、何かを始めようとか、こんな風になろうとか、あれを目指そうとか、そういう目標をいっさい持たない、ということを決めていたのです。前にも書きましたけど、何かをしたい、って欲望を持つってことには実行のための行動がともなわないとかっこ悪いですからね。

 

そんなわけで、この1年は、ただただなんの目標も希望もなく、ただただ生きることだけを心がけて過ごしてきました。おかげさまで、一ミリの後悔もなければ、ほんのわずかな焦りもありません。

 

あえてこの1年を振り返ってどんな1年だったか(ってまだ6分の1も残ってるけど)と言えば、いろいろな傷が癒えて、完全復活した1年だったなあ、と思います。やっと、ここまで来た。3年前が、公私も表裏も内外もぜんぶがぜんぶ、すごい痛手を被るという1年で、2年前はがむしゃらに生き、去年は少しラクになってきたというのを感じつつ生き、そして今年、やっと痛手を忘れることができて普通に暮らしてこられたな、という感じ。

 

時間ってやっぱりすごい。

 

そして、そんなこんなでも、今年のうちにしておきたいことはありまして、それは、借りている本を返すこと。数人から、数種類の本を借りていて、それはもう、今年とか去年とかじゃなくて、3年くらり借りっぱなし。これを、今年のうちに返そうかな。そのためにわざわざ連絡して会う必要があるんだが、まあ致し方あるまい。しれっと処分してしまうわけにもいかないのだ。

 

あとは、あれだな。服と靴の処分。断捨離。いつか着るかも、いつか履くかも、に見切りをつけて、えいやっと捨ててしまいたい服や靴が多少、ある。

 

それくらいかなー。今年もあと2ヶ月。

すでにもう寒いのがイヤだ

東京……いよいよ寒くなってまいりました。私が極度の寒がりということは、このブログではさんざん、書いてきたかと思います。

 

と書いて思い出しましたが、私、プロフィールのところに「嫌いなものはウソと鶏肉。」と書いてましたが、最近、鶏肉が食べられるようになってきました。まだから揚げ限定ですが。いや、サラダチキンも食べられるな。ローストチキンはダメですね。胸肉やささみだったら焼いたものでも大丈夫。やきとりとかはまだダメです。

 

いかん。寒さの話から鶏肉の話になってしまった。

 

とにかく、私は寒いのが嫌いだという話です。ちなみに今日の格好としては、ヒートテックの長そでシャツに、ブラウス、ジャケットをきて、その上に薄手のコート(春とか秋に着てもおかしくないやつ)、下はタイツにくるぶし丈のパンツ、で、防寒具としてストールをまいて、指だし手袋をして、さらに靴下にカイロ貼ってます。本日、初カイロです。だって、くるぶし丈のパンツって寒いんだもん。

 

ちょっともういいかげん、この冬はくるぶし出さずに過ごそうと思います。理想は、毎日上がだぼっとしてちょっと女っぽいニット、下はカジュアルなストレートパンツで足元はスニーカー。で、靴下2枚。もちろん靴下にはカイロを貼る。

 

この格好で、一冬過ごせないものかと考えております。問題は、ニットが現在2枚しかないことと、フルレングスの冬用のパンツが全然ないことと、たまーに仕事上、スニーカーではまずいような日があること。

 

できれば極力、スニーカーではまずいような予定を入れたくない。が、完全に自由業とも言えない(営業みたいなこともたまにする)ので、そういうわけにもいかない。

 

権利には責任が伴う、みたいな言葉がありますが、私の場合、希望には努力が伴う、みたいな義務感があって、自分の人生をこうしたい、と、希望を述べるのであれば、そのために努力しなければその希望はウソなんじゃないか、とそういう風に、自分を責めると言いますか、希望のために何も実行しない自分はカッコ悪いんじゃないか、とか、そういう風に思う気持ちがあります。

 

本当の希望としては、常夏の国に行きたいです。いやこれは、真面目に行くつもり。あと7年。今年の冬を入れて、あと7回、寒いのを我慢したら、寒いと思わなくて済む国へ行く。

 

そこで何をするのか、そんなことが本当にできるのか、分かりません。けど、とにかく寒いのがイヤなんですよ。まだ10月だというのに。ああ、冬がイヤだ…。

キューバサンドにまつわる気持ち

先週、日曜日のランチにきのこサラダを作り、そして今日はキューバサンドを作った。正しくは、キューバサンドもどき。朝、切って開いたバゲットに、ガーリックトーストのもとみたいなチューブ入りのマーガリンとマスタードをぬって、とけるチーズとロースハムとピクルスとさけるモッツァレラチーズをはさんで、ぎゅっとラップで包んで冷蔵庫に入れておき、お昼にフライパンでバターを熱して、フライ返しでぎゅーぎゅー押し付けながら焼いた。ぎゅーぎゅー押しすぎて、フライ返しが曲がってしまった。バカ…。

 

バゲットの半分、ロースハム3枚、ピクルス3本、というボリューミーなサンドイッチだったのだけど、最初のひとくちを食べてみたら思いのほかうまくできていた。たまたま子どもたちが遊びにきていたので、「ひとくち食べてみる?」とかじらせたら、「うまい! 何これめっちゃうまい! マックみたい!!(←最大の賛辞)」と感激していたので、私が食べるのはあきらめて、ほとんど子どもたちに食べさせてしまった。1週間に一度、好きなものを作って好きなだけ食べる、という夢が子どもたちに食べられてしまったけれどまあ良い。子どもにおいしいものを食べさせることができるというのは幸せなことだ。と思おう。

 

しかし、子どもの幸せこそが母親の幸せだ、と、私は手放しで思っているわけではない。今日だって、本当のことを言えば、せっかくうまくできあがったキューバサンド、フライ返しを曲げてまで作り上げたキューバサンド、まるまる食べたかったよ。あああ、食べたかったぞ!!!

 

しかし、そんなことを言えば、うちの子どもたちは超いい子なので、「え、ママごめん。ママ食べたかった?」と自分たちを責めるに違いない。そんなことをさせてはならん。

 

人の気持ちは、100%か0%かではなくて、ちょっと我慢して80%くらいの気持ちで行動に表すとか、かなり頑張っても30%の気持ちにしかならないから謝りつつ引き下がるとか、いくら考えても50%から気持ちが動かず、だれに何を言ったらいいか分からないうちに人から誤解されてしまうとか、そういういろいろな要素がまじりあって、時間が過ぎていくものだと思う。

 

いいんですよ、キューバサンド、おいしく作ることができるっていうのは分かったのだから、来週にまた作ればいいだけの話。

 

あと、何が食べたいかなあ。栗ご飯も挑戦してみようかなあ。最近、なぜかトリのから揚げが好きになったので、たっぷりのみぞれ下ろしで食べるっていうのもいいなあ。

 

食欲の秋、だけど、ダイエットは継続中!

いろいろ自分にぴったり来ている感じ

ちょっと大げさに言うと「1日一食のみ」を決心したダイエット、本当のところで言うと「夕飯はバナナと豆乳だけにする」と決心したダイエットなんだけど実はおにぎり一個とかサンドイッチ一個とかのときもあるしいろいろおやつも食べちゃっててほとんど実態はなし崩しになってしまっているダイエット、続いてます。こういう状態を続いていると言えるのかどうか、わかりませんが。いちおう私の中では続いていることになっているのです。

 

しかし、「基本的に夕食は食べない」という原則が、例外が多すぎるにしても(言い訳も多すぎる)私のなかではかなりぴったり来ている感じというか、しっくり来ている感じというか、いろいろポジティブに働いています。

 

まず、お昼ご飯を自由にたっぷり食べられるようになった。揚げ物の定食でも、ごはんの大盛りでも、罪悪感を感じることなく、おいしく完食できる。今日の食事はこれだけ、と思うと、しっかり味わって、お腹いっぱいまで食べて、満足。

 

そして、夕食のためにお金を節約する必要がなくなった。ランチは職場の人と食べるのであまりケチケチしなきゃという気持ちは働かないのだけど、夕食はどうせ一人で食べるのにこれじゃあお金を使いすぎかな、とか、できる限りお金を使わないようにちゃんと栄養を取るにはどうしたらいいかな、とか、まあわりと雑念が多かった。けど、バナナと豆乳、と決めたことで、安くて栄養のあるものを探す必要がなくなって、これはかなり精神的にラク

 

それから、重複するようだけど、どれだけ栄養を取らなきゃいけないのかと悩む必要がなくなった。お昼ご飯をしっかり食べれば、栄養失調に陥ることはないだろう、と思う。むしろ、パンだけで済ませるとか、ついついお菓子を食べてしまうほうが、カロリーだけ高いという事態になりそう。日本のランチは栄養的にも充実していると思う。1000円前後を使っているという前提だけど、白米、おかず、小鉢、お味噌汁、とそれなりに食材を摂取できる。

 

そして、週に1回だけ自分で作る日曜日のランチで、ちゃんと料理をするようになった。これまではお昼も夜も適当に作る、という感じだたったけれど、お昼に1回だけきちんと食べると思ったら、1回だけならきちんと作れるようになった。私にとって、昼も夜も作るというのは負担が大きいのだ。

 

今日は、きのこソテーのサラダを食べた。前にコンビニの出来合いのサラダで気に入ったきのこサラダがあったのだけど(今もあるのかも)わりと高いしゴミがかさばるのでしょっちゅう買うのはためらっていた。今日は、自分でレタスときのこ3種類とベーコンを買って、ベーコンときのこを冷蔵庫に入っていた使いかけのパスタオイルで炒めて、ちぎったレタスにかけて山盛り食べた。美味しかった。

 

いろいろ、自分の人生を変えて、選んでいけるのがいい。自由なのが楽しい。これでちゃんとダイエット成功したら、言うことなし。がんばろ。

目のまわりの話

ちょっと心がざわざわするので、ココアを飲んで、自分の言葉を書きとめてから、仕事をしよう。

 

視力が落ちてきたな、と思う。スマホを見るのがつらい。文字を読むのがしんどい。眼科へ行って、メガネを作るべきか。

 

コンタクトを入れていた時期もあったし、メガネをかけていた時期もあったけど、いろいろめんどくさくて、レーシックを受けてからは、ものすごく快適に日々を過ごしていた。それが普通になってしまってはや10年? これほど長い年月を、目にかんする不自由をなにひとつ感じないで生きてきてしまったものだから、ほんの少し視力が落ちただけでつらい。

 

視力が落ちた、という言い方が正しいのかどうか、分からない。単に目が疲れているだけかもしれない。遠くが見づらくなったのか、近くが見づらくなったのかも、よく分からない。そもそも、私は自分の体のことがよく分からない。おなかが痛いような気がして病院へ行って、「いつから痛いですか」「どんな風に痛いですか」「どれくらいの痛みですか」と聞かれて、痛みに意識を向けると、本当に痛いのか、自分が勝手に痛いと思い込んでいたのか、今でも痛いのか、さっきまで痛かったけど今は痛くないだけなのか、よく分からなくなってしまう。

 

コンタクトを入れていたとき、ドライアイがひどくてワンデーしか使えなかったので、しょっちゅう眼科に行かなくてはいけなかった。そのたびに視力検査をしていた気がするけれど、見えるか見えないかは明確に判断できるにしても、丸ぶちの検査用のメガネをかけて、レンズをとっかえひっかえして、「さっきと今とどちらが見やすいですか」と聞かれても、いつも、うーん、どっちが見やすいか、分からん、と思っていた。さっきの方が見やすかった気もするし、今の方が見やすいような気もする。じっと見ていたら、なんだか疲れてきて、どんどん見づらくなってきている気もする。という感じで、ホントのことを言わなきゃ、正確に答えなきゃと、思えば思うほど、うまく答えられなくなる気がしていた。

 

そして、今、PCの画面を見ていて、目がつらい。これは、疲れているんだろうか。目薬をさしたらつらさが軽減するだろうか。疲れないような目の体力をつけるためにはどうしたらいいんだ。目の体力ってなんだ、目ヂカラか。

 

そういえば、ドンキホーテで買ったペンキみたいな黄色のアイシャドウは、中味はたっぷり残っていたけれど、ケースが割れた。以前の私だったら、中味がもったいなくて捨てられなかったけど、アイシャドウの粉よりも、毎日それを使う自分の心地よさが大事と気づいた今の私は、ごめんね、ありがと、と言いながら、ケースと本体が二つになってしまったアイシャドウをゴミ箱に捨てた。

 

さ、仕事しよ。

どす黒い言葉が出てきた

他人の気持ちは理解できないものだけれど、なんとかして理解したいと思ってしまう心理はいかんともしがたい。完全な理解はできないけれど、解釈をしないことには、相手との距離感も関係も進展させることもできなければ収束させることもできないので、なんとかして理解、あるいは解釈をしなければ始まらない。

 

私はわりと、人の気持ちを読むことが得意なんだと思うけれど、その一方で、「本当はどう思ってるのか」というのを気にしないことも得意である。たとえば、会うたびに私のことをにらみつけてくる人とか、私が何かするたびに舌打ちする人がいたとして、その人はたぶん私のことを嫌っているとは思うけれど、たとえば仕事関係の人だとして、その人に私が「すみません、これどうしたらいいですかね?」ってにこやかに相談したときに、「〇〇しておいて」って言われたら、素直に〇〇するだけである。それが仕事上、筋が通ったことだとしたら。

 

「〇〇しておいて」という指示の裏に、「本当は私のことが嫌いだけど仕方がないから指示をしただけだろう」とか、「私に指示しておきながら本当は私のことを無能だと思ってるんだろう」とか、「言ってみたところでできるかどうか試しているんだろう」とか、そういう、余計なことは考えない。私のことを、面と向かって「僕はきみのことが嫌いだから」とか、「僕はきみのことを無能だと思ってるから」とでも言われない限り、「本当は私のことどう思ってるんだろう」とか、考えない。考えたって、仕方ないから。

 

逆に、私のことを信頼しているからこそ言っている冗談なんだろうな、ということがなんとなくわかっても、「きみだったらミスしそうだよね」とか、「またきみのところで仕事が止まってたの?」とか言われたら、ああ私は無能ですよね、すみませんね、この仕事やめますね、って辞める。実際、辞めたし。慌てて引きとめられたけど、知るか、もう遅いわ、って思った。

 

いや、今の話じゃないです、ずっと昔の話。

 

何が言いたいかって、私は言葉にできない気持ちもあることも知ってるけれど、言葉にできたほうが強いし、言葉には力があると思っているので、本当に私のことが嫌いだったら、面と向かって「おまえなんか嫌いだ」って言ってみろ、と思うという、そういう話です。言えないってことは、言ってはいけないことを考えてるってことでしょ、と。それはつまり、面と向かって「おまえなんか嫌いだ」って言ってしまったら、それはもう取り返しがつかなくて、言ってしまった方が負け、みたいなケースが多いんじゃないかと思うので。

 

なんだかよく分からないけれど、なんだかどす黒い言葉が出てきちゃいましたね。とほほ。

 

関係ないトラブルが解決しない

お久しぶりです。もう、半月くらいここの投稿をしていないかと思ったけど、まだ1週間くらいだった。

 

悩むことなく、淡々と、日々を生きています。完全に平和というわけではない。直接に自分には関係のないのだけれど、週に何日か顔を合わせて一緒に過ごす立場の女性(年上)が悩みをかかえていて、その進展と彼女の心境を逐一聞かせてもらっていて、それがなんというか…何人もの大人が寄ってたかって、ぜんぜんトラブルを解決できていない感じが、もどかしい。

 

私はこれまで、自分の愛情の押し売りをしすぎて、余計なお世話で人に迷惑をかけてきたという自覚があるので、この頃はできる限り自分に関係のないトラブルは「解決してやろう」とは思わないようにしている。

 

しかしその一方で、自分にできる限りのことをしないと怠慢だ、という意識が働き、「私にできることがあったら言ってください」と伝えてはあるものの、具体的に私が動くとますます事態がややこしくなりそうで、何もできずにいる。

 

何のことやらさっぱり分からないと思いますが、この問題を解き明かすには、たぶん本1冊ぶんくらいの分量が必要で、それぞれの登場人物にそれぞれ積み重ねてきた時間があり、心境の変化があり、その中でAさんはBさんに思ったままを伝えられるけれども、BさんはCさんに遠慮していて、さらにCさんはAさんの腹ばかりさぐっている、みたいな状況で、なにひとつ状況が変化しない。

 

状況が変化しない、ということを、私はことが解決しない、というふうにとらえてしまうけれども、Aさん、Bさん、Cさんがどんな思いで受け止めているのかは分からない。Aさんはいつまでたっても誰も自分を理解してくれないと思っているかもしれないし、Bさんはどいつもこいつも自分の言うことを聞かないと思っているかもしれないし、Cさんは状況を変えたくないからこそ自分の粘りが効いていると思っているかもしれない。

 

私は、AさんでもBさんでもCさんでもないので、ただただ、問題が解決しないなー、状況が何も変わらないなー、と思って、見ている。

 

見ているだけなら良いのだけれども、やや、自分がイライラしはじめているのも感じていて、この私のイライラを解消できるのは私だけなので、さてどうするかなー、というと、話を聞いても共感しない、という方向に話が行ってしまうので、それはそれで自分としては冷淡になりたくないので、困ったものなのである。

 

ま、余計なお世話なんですけどね。

 

おやすみなさい。