季節のことを考える

過ごしやすい季節になってきました。少なくとも私の住んでいる東京は。

 

暑いのはかなり得意なほうですが、でもやっぱり秋がいちばん好きです。いちばん過ごしやすいから。

 

でも、私のまわりには秋があまり好きではないという人がけっこういます。まず、母親。「こういう季節は何を着たらいいか分からない」というのです。昼間は暑いけど、夜になったらすごく寒くなったりするから、いろいろ考えなきゃいけなくて、面倒、だと。

 

まあ、分からないではないです。が、私は大人になって学びました。私にとって、半袖だけで出かけられる季節はない。どんなに真夏の暑い時期でも、冷房の効いた室内に入ったら、そこは私にとっては冬。むしろ室内で過ごす時間が多いとわかっている外出は、上着とレッグウォーマーが必携という人間なので、秋口に少々寒くなるくらい、どうってことありません。夏のあいだもずっと上着を持ち歩いていたのだから。

 

もう一人、秋が好きではないと言っていたのは、友人のA子。A子というか、I子というか、まあ、アイコですよ。

 

彼女は、「秋には何もイベントがないからつまらない」と言っていた。春はお花見、卒業、入学、進学。夏は海、花火、お祭り。冬はクリスマスに年越し、新年。という感じだけれど、秋にはなにもないから、とそういう意味だったと思う。

 

なるほどなー、と思いましたけど。

 

でも、そもそも私、そういうイベントがそれほど好きではない。歳時記とか、風習とか、ものすごくめんどくさい。

 

昔はこんな風に思ってなかったと思うのだけれど、ここ数年、わがまま放題に生きていいようになって、とにかくもうすべてのイベントがめんどくさくて、1年毎日365日、たんたんと生きていけたらそれでいい、という心境になってます。

 

そういえば、世間は3連休なのですね。ぜんぜん実感ないわー。なんのイベントもないわー。明日もふつうに会社行くわー。

 

次に私を待ち構えている人生のイベントはなんだ? いろいろすっ飛ばして年越しか? 秋から冬にかけての盛り上がりが思い当たらないぞ。

 

私の願いはただ一つ。これ以上、寒くならないでほしいです。とにかくもう、寒いのだけはイヤなので。

 

そういえば、「あと10回、東京の寒い冬を我慢したらこの町から出ていく」と決心したのは2年前だったでしょうか。今年、まもなく3回目の東京の冬を迎えるのかな。そしたらあと7回、寒さを我慢したら、私は別のところに住むのかな。

 

当てもないんですけどね。それこそ、四季もないような熱帯の国に行ってしまいたいわ…。って、やっと涼しくなってきたのに何を言ってるんでしょうね。

 

おやすみなさい。

 

気づいてしまった私の美点

自分の母親とあんまり年齢のかわらないような女性から、なぜだかわからないけれどほんの数回お会いしただけでずいぶんと信頼していただけて、その女性がやりたいと思っていることについて「月々これだけお支払いするから手伝っていただけないかしら」と頼まれました。

 

正直、お手伝いの内容からしていただける金額が多いと言ってよいくらいの割合なので、喜んでお引き受けさせていただきました。先方も、喜んでくださっていると思う。

 

私は、その方(あまりに年上でありさらには人格者なので、「その女性」とか「その人」とか書くのがためらわれる)をとても尊敬しているんだけれども、なんというか、一緒に仕事をしてみると、うーん、この人の仕事のしかたはこういう風なのかー、と思うことがないわけではない。

 

たとえば、打ち合わせのための資料がメールで送られてきて、開いてみればほんの数行、箇条書きで「決めなきゃいけないこと」=「打ち合わせでみんなで考えてほしいこと」が書かれている、みたいな。

 

私だったら、「考えてほしいこと」を資料にするのではなくて、「私の考えた案」と「予想される困難」と「困難を解決するために必要な期間」を資料にするかなあ、と思った。

 

思ったんですが、こういうことを書くとなんだかエラそうなんですが、私がここで伝えたかったことは逆で、私はこの「決めなきゃいけないこと」を話し合った会議で、イヤな思いを全然しなかったんですね。資料の作り方は、うーん、と思ったけれど、打ち合わせが終わってみれば、決めなきゃいけないことはちゃんと決まったし、予想される困難もなとかクリアできそうな目処が立ったと思う。

 

仕事のしかたって、人によって全然ちがうものだなー、と思ったわけですよ。

 

で、さらにエラそうなことを言うと、今日気づいたんですが、私って、こうやって「人によって全然ちがうものだなー」と他者を受け入れられるところが、わりと人よりも優れている点なのではないか、と。

 

たとえば、この女性のやり方を知って、ちょっとこの人とは合いそうにないな、とか、この仕事のしかたには付き合ってられん、とか思ったとしたら、任せていただけるはずのお仕事も、お断りせざるをえないわけで。

 

自分のやり方とは違うけれども、その相手に応じて一緒に何かに取り組んでいけるのって、これはもしかしたら、私のすごい強みなんではないか、とそんなことを思ったのですねー。

 

もちろん、先方が「この女(私)とはやってられん」って感じて去っていった場合も多々あると思うので、私が勝手に自己評価してるだけなんですけど。

 

そんなことがありました、というお話。

おろおろしております

なんだかちょっと、久しぶりに混乱している。夏季休暇明けからこちら、わりとすっきりとした気分で過ごしていたのに、なぜだか今、職場がものすごく散らかっていて、どこからどう手をつけて片付けたらいいのかおろおろしてしまって、どうにも片づける気にならないので、ここ(ブログ)へ来てしまった。

 

やるべきことを、やるべき順番で、がっしがっしと片付けていくのが好きだ。やるべきことも、やるべき順番も、本当はそれが正しいのかどうか、私には分からないけれど、それでも迷わずにがっしがっしとコトが進んでいくのが、私は好きだ。

 

めっちゃいろいろ考えながら、悩みながら、あっちからこっちからいろいろ引っ張り出して、ああでもない、こうでもない、となかなか事態が進まないのは、嫌い。これからやらなければいけない仕事が、そういう事態に陥りそうなときは、ついつい着手が先延ばしになる。なるもんだから、ますます事態が進まない。

 

片づけなければいけないごちゃごちゃしたものがあると、何から片づけるのがいちばん効率的か、ということでおろおろしてしまうのだ。何から片づけるかなんて、考える前に手を動かしてしまえば、それがいちばん早く片づくのに、それができないで、頭の中がわちゃわちゃしてしまう。おろおろしているから、いつまでも何もかたづかない。

 

そして、まかり間違ってブログなんて書き始めてしまって、しかもものすごく勢いよく書き出したのに、まだ600字くらいしか書けていない。このあとどうするつもりだ。あと400字書かないと、片付けに戻れないし、戻れない限り、永遠に事務所から出て家に帰ることができないんだぞ。

 

と書いているうちに、700字を越えました。こうして文章を書いていること自体が効率のかけらもない行為ですが、私にとっては、ゼロから何かを生み出すという行為に、喜びを感じるので、それでいいんです。

 

今日は、おやつを食べすぎた。なんとなく、気分もすっきり、お腹周りのお肉もすっきり、してきたような気がしていたけれど、なんだか今日でそれも台無しだ。

 

調子が良いときが、ないわけではないけれど、それを続けるのが難しい。何事も、続けるというのは難しい。なんで、2時間前の私は、早く帰りたいと思うことになる2時間後の私を想像していなかったのだろう。

 

今日は久しぶりに寝るのが遅くなりそうだ。あああ。早く家に帰りたい。と、書いているうちは帰れないのに、なんで人間ってこんなに矛盾したことをのたまうのだろう。眠い。

 

今の私がやりたくないこと

最近、自分に対しての認識があらたまりつつある。認識があらたまっているのか、本当に自分が変わっているのか、それはどちらなのか分からない。とにかく、自覚する自分、というものが変わってきているのを感じる。

 

私は、自分で自分をよくしゃべる人間だと思っていた。おしゃべりが好きで、話して人を楽しませるのが好きだと思っていた。

 

実は違った。あるいは、さいきん違ってきた。

 

私はしゃべるのが好きではない。そうではなくて、しゃべったら面白いだろうということを、自分が経験するのが好きなのだ。

 

たとえば。

 

夏にした旅行の話を、誰かに聞かせたいと思わない。「旅行の話、聞かせてください!」と言われても、「え、旅行は面白かったけど、あなたが旅行の話を聞いて面白いと思うのかどうか分からないし、私も旅行の話をするのは面白くないです」と思ってしまう。

 

もちろん、話して面白いと思ってもらえるという確信があるなら話す。そこには二つの可能性があって、経験そのものが面白かったという可能性と、してきた経験を面白く話す技術があるという可能性だ。

 

たとえば。

 

スカイダイビングをしたという人に対して、「どうだった?」と聞いて、「怖かった!」と言われたら、やっぱり怖かったんだ、と思うし、「楽しかった!」と言われたら、やっぱり楽しかったんだ、と思う。これは…話す技術がないと、いくらスカイダイビングという経験が大きくても、話としては何にも面白くないパターン。

 

なんていうか…これは…私が話すのを面白いと思えないという話ではなくて、私が誰かの話すのを聞いても面白いと思えない、という話だな。

 

旅行でも何でも、「どうだった?」と聞かれるのも嫌い。「どうだった?」と興味をもってもらえるくらいには大きなイベントだったり経験だったりするわけだから、一言で言えるわけないのだよ。あえて、正確に自分のなかでどう解釈したかを話すとしたら、「経験した直後は〇〇と××という感情が入り混じっていた感じで、肉体的には△△だなあと思っていて、でもその間もずっと□□だったんだけど、肉体の△△を感じているうちに〇〇のことは忘れていって、一緒に行った友達が××だねーって言うからホントだねーって話してたけど、でも次の日にはやっぱり〇〇かなあ、って感じになってきて…」っていう感じで、一言で、言えないし、こんな風に話したところでめんどくさがられるだろうな、ってことも、わかる。

 

旅行のことを、人に話すのがめんどくさい、と思うようになってきたのと同時に、書き留めておくのもめんどくさくなってきた。昔は、経験することを必死に書き留めていた。旅行にいって、たくさんのことを経験すると、夜にそれを書き留める時間が足りなくて困るくらい、経験するために旅行してんだか、日記を書くために旅行してんだか、分からない感じだった。

 

結局、今の私は自分が今という今を味わうことが何より大事、ということに尽きるのだと思う。他人との共有や、未来の自分への記録よりも、今の自分の感覚が、すべて。

 

おやすみなさい。

 

変えたいと思わないから変わらない

まあまあ、それなりに真面目に仕事をしているつもりだし、それなりに私の仕事を褒めてもらえるというか、感謝してもらえるというか、継続的にお仕事をくださる人もいるので、私はまったくもって使えないおばちゃんではない、とは思うものの、今、どうにもこうにもやりたくない仕事があって、しかしその仕事を進めるためにはクライアントに電話をかけなければいけないのだけれど、どうにもこうにもやりたくない仕事なもんだから、ついつい1日のばしにして時間が過ぎているのは…我ながら、いかがなものかと思う。

 

一本の電話がかけられない、というところに「なんで!?」「こうしたらいいのに」「ああすれば簡単なのに」「たかが電話一本」「ぐだぐだ言わずに電話しろ」と、言うのは簡単。しかし、そんな分析や助言には、何の意味もないのであって、なぜかというと、とにもかくにも、イヤなの、この仕事が。イヤなことに理由がないのだから、やらなければいけない理由もない。

 

むちゃくちゃですな。無責任もいいところだ。無責任とは思われたくないから、たぶん、そのうちに遂行すると思います。結局、そういうところは逃げない。最終的には逃げずになんとかする人間だ、と自分のことはその程度には信頼しています。

 

が、さっき、ちょっと頭をよぎったのだけれど、この信頼を、ぶち壊してみたら、どうなるんだろうか???

 

結局、最終的には責任をとるってことは、自分で分かっているのですが、それを、裏切るっていう意味で、最後の最後まで逃げ続けたら、どうなるんだろう、ってさっき、少し思いました。

 

単なる妄想なんですけどね。

 

自分の習性や行動を変えることって、意外と難しいものです。大っ嫌いな人とか、自分を思いっきり傷つけた人とかに、なんとかして嫌がらせしてやろう、とか、どうやって復讐してやろうか、とか、考えるけれど、実際にそれを行動に移すことはしません。妄想するだけです。

 

妄想することと、行動することの間には、長くて深い溝がある。深くて広い溝? 大きくて深い溝? これ、決まった言い方って何でしたっけ? 深くて暗い溝、っていうのが、検索したら出てきましたけど。でも、この場合、別に暗くはないです。溝が大きいだけで。あ、そうか。深くて大きい溝がある、か。

 

自分を変えるのがこんなにたいへんなんだから、いわんや他人をや。他人なんて、絶対変えられないですよ。期待するのは無駄というものです。

 

こうやって、いろいろ諦めてしまっているところが、変われない大きな理由なんでしょうねー。でも変わらないよー。

 

 

明後日までに決めなければならない

結局、青汁は飲んでいないのだけど(そして粉末スティックがたまる一方なのだけど)、口内炎は治ってきました。完治までもうすぐだ! まだ、舌でさわると違和感があるけれど、何を飲むにも、歯磨きをするにも、しみてしみて、口をへんな形にゆがめていたころと比べたら、今はなんでもない。もう、唇をかむこともない。それほど顔がゆがんできたわけでもないらしい。よかった、よかった。

 

明後日は美容院を予約している。目下の悩みは、明後日、パーマをかけるかカラーリングをするか。両方いっぺんにやる時間はないし、それは効能(?)としてもいっぺんにやるのは無理、と聞いたことがある。だから、どちらか。

 

美容師さんが期待しているのはカラーリングだと思う。私はだいたい8週間に一度美容院へいくけれど、16週前にカラーリングをして、このまま伸ばす、と言っていたのにもかかわらず、8週間前に、いきなり「パーマかけたくなりました」と言ったので、美容師さんが「えっ!? じゃあカラーリングはこのままでいいんですか?」とかなりびっくりしていた。まあ、そうだよね。根元から黒い地毛が出てきているから、それなりに、みっともない。

 

けど、完璧に美しくあるなんて無理なのですよ。素人が美しくあろうとする努力には限界があります。

 

と、書いてみて、完璧はないけど、最善はあるはずだから、最善を目指すべきかなあ、という気もしている。

 

でもねえ。

 

最善を実現するためには、けっこうなお金がかかるわけなんですよ…。どこで妥協するかって、けっこう切実な問題だと思うわけです。

 

最善の反対、みっともない程度の最低限、というのも、これまた難しくはあると思いますが、なんというか、今の私は最低限と最善の、間に収まっていると思いたい。

 

パーマは、かなり伸びてきてしまいました。そして、カラーリングも、染めていない部分がかなり伸びてきてしまいました。

 

うーん。

 

理想は、明後日カラーリングして、1週間後くらいにパーマをかける。

 

しっかし!

 

1週間後にまた出費というのが、痛い…いたすぎる…。

 

人間の欲には際限がないから、欲しいものは次から次へと現れるし、したいことは、やってもやってもなくならない。

 

けど、じゃあそれをどう折り合いつけるかって、人生って、難しいですね。

 

ブログを書くみたいに、自由に髪の毛を染めたりまげたり短くできたり、したらいいと思うんですけどね。そういうわけにはいかないのは、なんでだろう。自分が美容師になったらいいのかな? あっ、美容師さんと結婚すればいいのか!?

 

いや、明後日までには無理。

 

物理的な肉体としての私

いろいろ、物理的な肉体としての私を知っている人に冗談を言ったり、愚痴ったり、毒づいたりしたいな、と思いつつ、もうFacebookでそういうことができなくなっているので、なんとなく、生きづらい。

 

少し前までFacebookは気心しれた友達ばかりで、なんというか、私が面白いと思って書いたことを面白いと思ってもらえるんじゃないか、と、そういう期待のできる場所だった。

 

今は、ちょっと知り合いや友人を増やし過ぎた。

 

こういう冗談を言いたい、と思っても、それを冗談と思ってくれない人がいるだろうな、とか、あーもう、これめっちゃ愚痴りたい、と思っても、まさに愚痴を発生させている本人がFacebookの友達になっているとかね。

 

生きづらいとまで書いたら言い過ぎだけど、まあ、Facebookが心からリラックスできる場ではなくなってきた、というのは事実なんですねー。

 

まあ別にいいんですけどね。Facebookが人生において普遍的に必要で重要なものかというと、全然そんなことないし、むしろ、以前の私がFacebookを神聖視しすぎていたというか、天真爛漫に使いすぎていたというか。過去の私と、今の私が違う、という、それだけのことです。

 

本当の私なんていうものはどこにもなくて、ただ、あるのはこの肉体と、その肉体が与える他人が受けた印象だけが、私という人間のすべてだと思う。

 

何をもってして、その人のことを理解できるかというと、その人の本質なんてものは永遠に絶対に理解できなくて、相手がとった行動と、それによってこちらが受けた印象、それがその人のすべてだと思う。

 

「誤解だ」と言われれば、「誤解させたのがあなただ」と思うし、「そういうつもりじゃなかった」と言われれば、「そういうつもりじゃなかった印象を与えたのがあなただし、それに対して訂正をしたのがあなただ」ということになると思う。

 

印象は、変わるものもあれば変わらないものもある。実際に接しない限り、変えられるタイミングは存在しない。1年前にいつも落ち着いて、こちらの連絡を好意的に受け止めていてくれた人が、1年後の今も落ち着いていて、こちらの連絡を好意的に受け止めてくれるとは限らない。

 

ずいぶん久しぶりにFacebookで連絡してみた人から、返事が来なくて、少々落ち込んでもいるのですよ。でも、そんなの仕方ない。だって、会えなかった間にその人に何が起こったか、そして今の今、どういう心境や環境でいるかなんて、連絡してみなければ分からなかったのだから。

 

なんつーか、みんな、物理的な肉体としての私のことも、ちったー大事にしろよ、と、そういうことです。